なぜ、在日朝○人は、終戦後も日本に残ったのでしょうか? | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

在日朝○人は、戦争中に、日本に強制連行されてきたが、終戦後も、祖国に帰りたくても帰れなかった在日朝○人たちが沢山いる、と言う人がいます。

 

本当でしょうか?

 

終戦直前、日本には200万人近くの朝鮮人が住んでおり、そのうち100万人は、昭和15年(1940年)以降に日本に来ました。

(内務省警保局)

 

この中、集団移入労務者は約25万人と推定されます。

(警視庁警備二課 篠崎平治警視著「在日朝鮮人運動」令文社)

 

昭和17年(1942年)から昭和20年(1945年)の3年間に、52万人の契約労働者が朝鮮から日本に送られたと云われています。

(Edward Wagner:“The Korean Minority in Japan”)

 

戦争中、朝○人で応招された軍人、軍属の数は、陸海軍を併せて365,263名でした。

(復員局調査)

 

終戦直後、在日朝○人たちは、『民族の解放と祖国への帰還』を叫びながら、下の関、仙崎、博多、佐世保、舞鶴、函館、浦賀などの港に殺到。

 

釜山等から日本へ引き揚げてくる、日本人を乗せた船に乗り込んでいきました。

 

日本政府は、昭和20年9月2日、占領軍の指示もあり、臨時列車の編成、車両の増結、輸送費の負担、乗船地の援護等、計画的な引揚げへの努力を続けました。

 

昭和20年(1945年)8月から昭和21年(1946年)の2月末頃までに、日本政府の手配した船による計画送還で約94万人、正規のルート以外の仮船等により引揚た者は約40万人、合計で134万人の朝○人が引き上げました。

 

日本政府は、占領軍の指令に基き、昭和21年(1946年)3月「朝鮮人、中国人、本島人及び本籍を北緯30度以南(口之島を含む)の鹿児島県または沖縄県に有するものの登録令」を制定公布。

 

これにより、引揚希望者の有無を調査し、計画送還を行うことにしました。(以下、厚生省調べ)

 

在日朝○人合計 647,006名 (内、受刑者3、595名)

この内、南朝鮮へ帰還希望者 514、060名 (内、受刑者3、373名)

この内、北朝鮮へ帰還希望者 9、701名 (内、受刑者289名)

 

占領軍は、在日朝○人に次のように警告しました。

 

「引揚を希望するものは、日本政府が指示する時期に出発しなければならない。

 

さもないと日本政府の費用による引揚の特権は失なわれ、商業輸送の便宜の可能となるまで待たなければならないであろう」と。

 

昭和21年(1946年)4月5日、引揚援護院次長は、地方長官あてに「非日本人の送還に関する件」という通牒を発して、

 

厳しく、帰国希望者の洩れないよう周知徹底を計ると共に、この機会を逸しては、日本政府の責任と経費による帰国が出来なくなることを警告しました。

 

さらに、このような事情から相当数の者が一時に殺到することを予想して、仙崎港と博多港を送出港と定め、市町村別輸送計画を立てて、万全を期しました。(以上厚生省調)

 

当時の日本政府は、困難な状況下でしたが万般の手配を行いました。

 

しかし、意外なことが起こりました。

 

帰還輸送船及び臨時輸送列車が、多くの空席を残して運行するという状態になりました。

 

1946年帰国者数(厚生省調べ)

博多発 60,917名

仙崎発  9,917名

函館発   205名

佐世保発   286名

合計   82,900名

これは、帰還希望登録者数に対し、わずか16%に過ぎませんでした。

 

北朝鮮への帰還希望者については、昭和21年(1946年)3月19日、米ソ協定の締結により、

 

「日本より北鮮に引き揚げるものは、かつて北緯38度以北に居住し、かつ、同地域で出生した朝鮮人1万名とする」と記されました。

 

さらに占領軍は、

 

「在日北朝○人1万名以内の引揚は、1947年3月9日から15日までに実施される。

 

この1万名は北緯38度以北の朝鮮に生まれたことを条件として、昭和21年(1946年)3月18日より前に、帰国希望を登録した9,701名の朝○人、

 

及び北朝○に生れ、かつ3月18日より前に登録しなかつたもの、又は、その後に意思を変更した帰国希望者、その他の朝○人を含む」と発表しました。

 

実際に、北朝鮮行きの引き揚げ船に乗船した朝○人は、351名だけでした。登録者数のわずか4%弱に過ぎませんでした。

 

日本政府から「この機会を逸しては、将来商業的航行が自由になるまでは、日本政府の責任による送還はできない」

 

と再三警告を受け、それを承知の上で、既に帰国希望登録まで済ませて置きながら、在日朝○人たちは、勝手に帰国を取りやめたのです。

 

占領軍が、在日朝○人が、朝鮮へ帰還するか日本に残留するかは、全く各個人の自由意志に委せる方針を取つていました。

 

そのため、日本政府は帰国を強制することができずに、困つた立場に置かれていました。

 

その後、1947年2月から1950年5月までの3年間で、16,990人の在日朝○人が、北朝鮮に帰国していきました。

 

これらの人たちは、日本政府負担による引揚の機会を失つた人々でしたが、事情を聞いた上で、日本政府の負担で佐世保港から引揚を行いました。

 

一方で、北朝鮮への帰国希望者が、舞鶴から引揚げようとしたところ、朝鮮戦争の勃発のため、引揚を中止して、止むを得ず日本に残った人が627名いました。

 

1950年11月19日、占領軍が、「本日以降、非日本人(在日朝○人)の自発的引揚は本人の責任である」旨、日本政府に指示。

 

日本政府は、この指示に基き、引揚業務を終了しました。

 

一体、なぜ、44万人の在日朝○人たちは、帰国希望登録をしておきながら、引き上げを取りやめたのでしょうか?

 

当時、日本国内のインフレ率は急上昇しており、また食糧事情は悪化して、都会では半飢餓の状態になっていました。

 

しかし、終戦後まもない時期、在日朝○人たちは連合国側(戦勝国側)に属していたので、日本人のような半飢餓に苦しむことはありませんでした。

 

さらに在日朝○人は、治外法権が認められました。

 

それが在日朝○人等にとって、どんなに気持ち良かったことでしょうか。日本人に対して優越感に浸ることができたからです。

 

 

在日朝○人は、精神的のみならず物質的にも、優越感に浸ることができました。

 

当時、日本人が住む家なく、着るに衣なく、飢餓にあえいでいる中、その特権を利用して、闇市などでボロ儲けをすることが出来ました。

 

在日朝○人にとつて、日本は天国になつたのです。

 

故国への帰国を取り止めただけでなく、一旦帰国したのに関わらず、再び日本に戻ってくる人たちも出てきました。

 

これが戦後の密入国の始まりとなります。

 

昭和23年(1948年)4月3日、南朝○(韓国)の済州島で島民の蜂起。韓国軍、警察が出動して、島の住民6万人が虐殺され、島の70%が焼き尽くされました。(済州島四・三事件)

 

昭和25年(1950年)6月25日、北朝鮮軍がソウルを侵略。(朝鮮戦争)

その2日後、李承晩大統領は、ソウルから逃げる際、114万人に上る収監中の政治犯や民間人などを大虐殺。(保導連盟事件)

 

済州島四・三事件や保導連盟事件から逃れるために、韓国から日本に密入国してきた朝○人たちが多数いました。

 

その後、日本では、昭和31年、生活保護費の削減、昭和32年から昭和33年にかけてのなべ底不況などにより、生活が苦しくなり、北朝鮮への引き揚げ希望者が出てきました。

 

しかし、韓国側は、必死になって在日朝○人の北朝鮮への帰国に反対しました。

 

日本赤十字社は、在日朝○人の帰還問題を解決するには、どうしても、日本と韓国、北朝鮮の三国が協力するしかないと考え、スイスの赤十字国際委員会に依頼。

 

赤十字国際委員会とは、司法機関ではなく、裁定機関でもなく、権力機関でもなく、あくまで人道上の観点から、問題解決のために活動する組織です。

 

その後、昭和34年8月13日、「在日朝○人の帰還に関する日朝赤十字協定」が日本赤十字と北朝鮮赤十字との間で締結。

 

帰還を希望する在日朝○人(日本の国籍を取得した朝鮮人を含む。)とその配偶者(内縁関係の者を含む。)及びその子などの北朝鮮への帰還の道が開けました。(在日朝○人の帰還事業)

 

朝鮮総連は、北朝鮮を「地上の楽園」「衣食住の心配がない」と宣伝して、多くの同胞を北朝鮮に送り込みました。

 

それに対し、韓国の民団は強硬に反対しました。在日朝鮮人に対する自国の管轄権を侵すというのがその理由でした。

 

韓国政府は、工作員を大量に日本に送り込み、北韓送還阻止工作員を結成。

 

日本赤十字の爆破計画や、帰化事業要人の暗殺を行いました。

(新潟日赤センター爆破計画)

 

日本にとって、この帰還事業を推進する理由は、大きく3つあり、在日朝○人への生活保護費負担の削減、在日朝○人の高い犯罪率(日本人の6倍)、在日朝○人と日本の左翼運動の連携への懸念でした。

 

終戦後も自主的に残った44万人もの在日朝○人。

その後、北朝鮮に帰還していった在日朝○人。

また、韓国から密入国してきた在日朝○人。

 

終戦後、祖国から密入国してきた在日朝○人はいても、祖国に帰りたくても帰れない在日朝○人はいませんでした。

参考図書

『在日朝鮮人帰国問題の真相』日本赤十字社 

1956年8月20日 外事部長 井上益太郎著

 

画像

終戦まで、済州島と大阪の間を運航して、朝鮮半島から多くの出稼ぎ労働者を運んだ「第二君が代丸」