ひろどんの歌声日詩♪ -26ページ目
『亀田興毅-「実像」でいいんじゃないか-』

 2006年5月9日 東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」


 きっと結婚披露宴のケーキなのだ。

「さあ、愛する二人の最初の共同作業でございます」。

新婦と新郎が手に手を添えて慎重にナイフを入れる巨大なケーキ。

亀田興毅のボクシング、いや正確を期せば「ボクシング中継」は、あれと同じだ。

これでもかと施されたデコレーション、きれいな照明、カメラのフラッシュ、すべては増幅されている。

あのケーキ、食べられるところが一部なのは、子供でも知っている。


 ボクシングを愛している。

ボクサーとは、経済や家系や学歴とは別の場所の貴族である。

切なくて勇ましくて、たいがいは優しくて、つまり美しい。

無名の4回戦であっても、時間さえ許せば、ボクシング会場の記者席にへばりつきたい。


 先月8日、名古屋のジム(スペースK)所属、軽量級の才能、大場浩平が、東京・後楽園ホールのセミファイナルに登場したら、もういけない。

控えめを演じる普段の言動が、かえって、いきなりのアッパーの残酷を際立たせて、見てるだけなのに奥歯をかみしめている。

あたかも解剖学を実践するかのようだった判定勝利の声を聞くころには、すっかりヘトヘトになった。

敗者、新保力のタフネスがまた泣かせた。


 ああ、やっぱりボクシングは人類の財産だ。

なのに、先日の亀田興毅の試合には足は向かなかった。

いくらテレビ局が「世界前哨戦」とあおっても、相手の経歴を知れば、内容は想像がつく。

これは批判ではなしにスポーツ観戦、取材におけるリアリズムだ。

「一方的な試合になりそう。ま、テレビでいいか」。

それだけの話。


 問題は、そのテレビだ。

亀田興毅という気鋭のボクサー、激しい鍛錬をいとわず、実のところ優しげで、言語感覚に優れ、頑健な体を持つ19歳を、ありのままに伝えようとしない。

ひたすら騒々しく、いたずらに増幅する。

テレビという強大な装置を用いて、実像にバイアスをかえ、膨らませ、大きくしておいて周囲がおこぼれをさらう。

スポーツに限らず、そんな手法はまかり通っている。

友人を失うかもしれないけれど極論しよう。

何もかもは「テレビ局正社員の高い給与水準を維持するため」に消費されている。


 亀田興毅の目標は「世界チャンピオン」である。

間違ってはいない。

そのために熱血の父と過ごした歳月の重みは確かだろう。

前へ出る圧力、減量を苦にせぬ体質を考慮すれば、フライより一階級下のライトフライでの可能性も膨らむ。

ここで「いつ」を考えてしまう。

本来、世界チャンピオンになれてから手に入るはずの果実、関連書籍出版、スポンサー、知名度などを、王座を目指す過程で得たのは皮肉なようだ。

だからこそ、ここは慌てず、日本国内の実力者と戦い、本物のボクシング好きも納得させる過程を経て、それから…と言ったら、各方面から「アホ」と切り捨てられるか。


 前述の大場浩平は、試合後に「亀田興毅は気になるか?」と聞かれて、こう言った。

「もちろん一ファンとしては。それに、亀田選手、本当に強いですから」

結婚式のケーキは見た目より小さい。

でも自宅のテーブルに置けば十分なサイズだ。

それに、案外、おいしいのである

『完敗の杯』

2007年1月 ワセダクラブ・コラム「楕円球は呼ぶ」Vol.42


 空気を読め。

嫌な上司の連発しそうな、嫌な言い回しだ。

空気を読まずに生きたい。

空気を読まずに愛される人なら何度も見た。

そうありたい。

でも空気は存在する。

「3連覇は難しい」という空気は。

どこか、そろそろいいだろう…という「気」が漂う。

ひとり勝ちかよ。

よくないよ、それは。

なんとなく、そういう心持ちにさせられるのだ。


 同志社大学の唯一の3連覇(82年度から84年度)も、いまにして思えば薄い薄い氷を踏んだ。

V3の決勝、現在とは異なり、ほとんどが付属校出身の慶応大学に追いつめられた。

終了直前、あわや同点トライと思われるも、スローフォワードの笛に救われる。

年月を経て、このほど日本協会より公開された公文書によれば「あれはスローフォワードではなかった」。

いまのは冗談だけれど、ともかく正当なパスだった。

当時、明治大学とともに他を圧倒する選手層を誇った同志社にして、まったく、すれすれだった。


 早稲田が負けた。完敗である。

関東学院大学は、焦点を絞り切り、闘争心で凌駕した。

それはそれは見事な勝利だった。

ある年代の読者なら、かつての早明戦を思い出されたかもしれない。

関東学院は、FWの体格でかなり上回り、ことにロックの高さで圧力をかけ、前半の前半、重いFWが元気なうちに大量点をたたみかけた。

追いかける早稲田は、どうしても焦る。

無理な攻撃を仕掛ける。

そこでターンオーバーからトライを奪い、息の根を止める。

いつかの明治の必勝パターンだ。

分析すると、ちっとも強く見えないのも共通する。

今季、関東学院のラグビーは、大切な決勝を除くと、ずっと発展途上だった。

ずばり攻守に粗い。

ディフェンスのアナも目立った。

相手校にすれば、まじめに研究すればするほど「勝てる」と思えてくる。それも往年の明治と似ている。

当事者のみならず、ファンもメディアも「早稲田有利」と予想したくなり、これが、また空気を醸成する。

しかし、ラグビーは「分析ゲーム」ではない。

昨年度のように早稲田が、ほぼすべての領域に優っていたなら、関東学院の欠点はそのまま欠点となる。

でも今季は、少なくともサイズでは関東学院が大きく上回る。

だから利点を最大限にいかしさえすれば、みずからの欠点の相当部分を覆い隠せる。

ここが勝負のおそろしさだ。

逆も真なり。

早稲田は、放置してきたライン防御の甘さがとうとう敗北を招いた。

対抗戦の段階に兆候はあったが、総合力で圧倒していたので勝ててしまう。

そして、ついに「本当の敵」とぶつかり脆弱は露呈した。


 決勝。

敗者が観客に感激を与えられなかったのは、ただの一度も「相手に脅威を覚えさせるディフェンス」がなかったからだ。

清宮克幸前監督の手がけたチームは、年度をさかのぼるほど「前へ出るディフェンス」が激しかった。

個々の強さやうまさは別にして、チームとして、ラインとしては、山下大悟主将の代までは厳しく前へ出続けた。

「ハニュウ」のことは覚えておられるだろう。

FWのサイズと強さが増すに従って、ボール殺しを主眼に置き懐の深さを重視するディフェンスへと変わった。

新しい監督を迎え、いや、それだけでなく昨年度の栄光のFWからトップリーグ即戦力級が5人も抜けて、本来なら「激しく前でタックル」こそが求められた。

結果としては「脅威のディフェンス」は構築されなかった。

守りに回った時に「先手の構え」のないバックスの防御は、とうとう手つかずのままにされた。


 「完敗に乾杯」と書けば、冷淡に過ぎる。

でも、ここまで完敗すれば、すなわち問題は白日にさらされ、地金も現れ、ごまかしと訣別できて、より高い山の頂への道は拓ける。

もとより部員と中竹竜二監督の尽力を想像すれば、祝杯ではありえぬ。

しかし、好敵手の示してくれた「一から出直せ」というメッセージはやはりありがたい。

ラグビーという酒を注いで、小さな音でカチンと杯を鳴らす価値ならある。

『サンキュー、レフ』

2003年11月 ワセダクラブ・コラム「楕円球は呼ぶ」Vol.3


 最初、テレビ受像機の音量が違うのかと思った。

そうではなかった。

シドニーの高層アパートメントの一室で、続けて2本のビデオ・テープを眺めた。

どちらもラグビー、ひとつは日本の社会人、もうひとつはシドニーのクラブのゲームである。

ともにテレビ放映の映像ではなく、家庭用(あるいは、その程度の)カメラで撮影されていた。

結論。

ともかくうるさいのが前者、やけに静かなのは後者である。

あまりにも「音」が違う。

同じルールで、同じくらいの年齢の者たちが、ひとつの楕円球を追って、かくも異なるものなのか。

ちょっと不思議で、しかし、一応は長くスポーツ取材を続けてきた立場では、わからなくもなかった。


 日本のラグビーはうるさい。

いや観客席は静かだ。

グラウンドの上がうるさい。

つまり、のべつ何かを叫んでいる。

短く切った指示の言葉はむしろ少ない。

とりとめのない感情の発露のような叫びがせわしなく飛び交う。

シドニーの部屋の主人、八嶋亮太氏は言った。

「日本の選手は一般に集中力がないように感じる。

だから、いつも声がする。

こちらでは4部リーグの4軍の選手でも、黙って自分のプレーに打ち込んでいる。

へたくそでも、走れなくても、ともかく集中力だけはある」

多国籍金融企業の金利ブローカーとしてシドニー勤務の我が友は、どうして、そのことがわかるのか。レフェリーだからだ。

オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ協会、そして日本の関東協会で、それぞれレフェリーの資格を有している。

また幼少時代をニュージーランド、その後、オーストラリアに暮らし、15人制(ユニオン)と13人制(リーグ)のラグビーや、いわゆる「オージー・ボール」ことオーストラリアン・ルールズに励んだ。

横浜のYC&ACのような多国籍クラブでのプレー経験(とても獰猛なバックローだった)もある。

つまり実感だ。


 本稿筆者は、たまにJスポーツでスーパー12やトライネーションズなど海外ラグビーの解説をする。

いつも思うのは「やつらは謝らない」。

自分がミスをおかす。

あらぬ方向にキックが飛んだりする。

テレビ画面は失敗の当事者を大写しにとらえる。

そこで「ごめん」の一言は絶対にない。

むしろ自分は少しも悪くないといった表情をしている。

うわべの「協調性」よりも「集中力」のほうが、はるかに上位に位置している。

個人的に「ごめん」「わるい、わるい」を撲滅できれば、そんなチームは強い。

もし、ミス発生→沈黙→次の自分のプレーに集中…の流れに、うっすら漂う「気まずさ」があったのなら、それこそは「日本学」のテーマだろう。


 もうひとつシドニーのビデオに顕著な事実がある。

選手のレフェリーへの親近と尊敬である。

ゴール前、アーリータックル、ジャパニーズであるところの八嶋レフェリーは決然とペナルティー・トライを宣告する。

接戦だ。

4軍とはいえ名門クラブ同士のゲームである。

しかし、本当に、誰ひとりとして、不平の小さな叫びすら発しない。

もちろん文句なんかつけない。

黙って裁定を受け入れる。

ゲームが終われば、ほぼ同時に、あちこちから握手の手が差し出される。

「サンキュー、レフ」「サンキュー」。

このときだけは次々と声が発せられる。


 八嶋レフェリーは、日本勤務の際は、強豪社会人や大学の練習試合も吹いている。

まったく残念なことに「ありがとう」の言葉はほとんど耳にできなかった。

それどころか、大学生のゲームで、ペナルティー・トライをとったら、部員席から「レフェリー、名前は何だ」の罵声が飛んだ。

日本の仲間には、名のある指導者が選手の前でレフェリーを罵倒するような例をよく聞かされる。

「オーストラリアなら、協会がそういうクラブにはレフェリーを派遣しない決定を下します。たまにありますよ」

ニュー・サウス・ウェールズ協会は、業者と契約を結んで、4軍以上については、自分の担当したゲームのビデオがすぐに届けられる。

日本では、汗だくのレフェリーが、その場で、大学生のマネージャーに頭を下げて経費を自分で払い、なんとか送ってもらう。

なかなか届かない場合も少なくない。

いたずらな日本ラグビー悲観論にはくみしたくない。

ただ「集中力」と「ラグビー文化(レフェリーは大切な仲間である)」の尊重と理解こそは、たとえばジャパンが次のワールドカップで世界を驚かすための最低条件のような気がしてならない