藤島コラム⑩『アンデスの聖餐』 | ひろどんの歌声日詩♪
『アンデスの聖餐』

2005年3月 ワセダクラブ・コラム「楕円球は呼ぶ」Vol.20


 日本代表は4月16日にウルグアイ代表と対戦する。

人口340万弱、競技者数は約5千。

「ロス・テロス」(代表の愛称)には、貴重な「欧州組」の主力の出場も難しそうで、ジャパンにとっては「必勝」が条件のはずである。

ところで、かの国には、あるいはオールブラックスより世界史においては有名かもしれぬラグビーのクラブが存在する。


 オールド・クリスチャンズ・クラブ。

第2次大戦後、アイルランド人修道士によってモンテビデオ郊外のカラスコに設立された学校、「ステラ・マリス」の卒業生によって発足した。

未来のウルグアイを支える若者の人格陶冶の任を託された修道士たちは、体罰のための棒を父兄から取り上げられても、ことラグビーだけは厳格な教育の方法として手放さなかった。

かくして、あのサッカーの国にもラグビーは一部の熱烈な愛好者を得た。

オールド・クリスチャンズ・クラブは、ウルグアイで屈指の強豪となる。1970年に全国制覇を果たすと、72年、さらにチームの結束を固めようとチリへの遠征を行った。

経費の節約のためモンテビデオとサンチャゴの往復にウルグアイ空軍の軍用機をチャーター、ひとりあたりの旅費を下げようと仲間を募った。

前年も同じようにチリ遠征を成功させていたのだ。

チームのメンバーとその友人ら40人、それに乗務員5人を乗せた空軍機フェアチャイルドは、アルゼンチンの大草原を越え、やがてアンデスの険しい雪山に迫った。

ところが悪天候でいったん近くの空港へ引き返す。

翌朝、再出発。結果として判断は間違っていた。


 10月13日の金曜日、アンデス山中に墜落。

はじめは28人の生存者による10週間のサバイバルが始まった。

医学生は瀕死の仲間を知りうる限りの知識を動員して手当てした。

飛行機のシート内側に貼り付けられたアルミホイルを用いて溶けた雪から飲料水を得た。

食べられるのは、チョコレート8枚、ヌガーが5個、クラッカー1箱、ムール貝の缶詰が2個、アーモンド瓶詰めがひとつ、ジャムの小瓶が3本だった。

あとは機内に散らばったキャラメルが数粒のみ。

あまりにも少量だった。


 墜落から10日目、この物語を「アンデスの聖餐」と呼ばせる決断は下された。

それは「唯一、入手可能な食糧」を口にすることである。

つまり死者の肉だ。

もちろん抵抗はあった。

しかし、ほかに生き延びる可能性はなかった。

食糧を扱い、調理を施し、機内を清掃する。

役割分担の「仕組み」はつくりあげられた。

どうやら救助隊は期待できそうにない。

遭難17日目には雪崩に襲われてさらに仲間を失う悲劇も重なる。

こうなったら遠征隊を組織してチリ側の村へ助けを求めるほかはない。

「大人数のほうが安心」「いや小規模がよい」。

いくらかの議論とテスト遠征を経て、最終的にはふたりのメンバーがラグビーのストッキングに食糧を詰め、スパイクを履き、雪の山を越えた。

出発から9日後、ついに農夫を谷川の向こうに見つける。

必死で叫ぶと、さして関心もなさそうに「明日」とだけ言った。

静かなる男は約束を守った。

翌朝になり、とうとう助けられる。

チーズをかじり、豆の料理を4杯もおかわりした。

結局、飛行機に乗った45人のうち生還できたのは16人だった。


 英雄誕生。

同時に「食糧」の存在は明らかとなる。

あらゆる人々は、我が身に置き換えて究極の選択を考えようとした。

帰国後の最初の記者会見で、雄弁家のメンバーが「我々はこの問題を高貴な精神で扱ってきました。

いま祖国のみなさまの前にありのままを明らかにするつもりです」と熱をこめて述べると、たちまち感動は広がり、それ以上の質問は続かなかった。

タラップをあがるまでは無邪気なような若者だった生還者の多くは、歴史を刻む10週間を経て、のちにビジネスやジャーナリズムなどの分野で成功を収めた。

そういえば、ある人物は多額の宝くじを当てて、日本の新聞まで「奇跡は2度起きた」と見出しを掲げた。

ウルグアイ協会のアントニオ・ヴィジンチン現会長も「アンデスの聖餐」の生き残りのひとりである。

あの時は19歳だった。


 さてウルグアイ代表のジャパン戦予想スコッド(ラグビーマガジン5月号より)にも「オールド・クリスチャンズ」所属の選手は4名含まれている。

極限下にあって、あれほどの不屈と知性を実践した勇士たちの後進なのである。

きっとタックルはいいと思う。