『故山田重雄氏-情熱 理論 異才の人-』
2006年8月1日東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」
表紙の写真は軽やかだ。
胴上げに舞う監督の晴れ姿。
「金メダル1本道」のタイトルが躍っている。
11年前、東京・早稲田の古書店で見つけた。
500円だった。
著者、山田重雄。
1998年に66歳で死去した女子バレーボールの名将である。
76年のモントリオール五輪金メダル獲得の直後に講談社から出版された。
この1冊、優勝記念の痛快な「成功話」のはずなのに、重く、ねっとりとまつわりついてくる。
全編を特異な人物の特異な感受性が貫くのだ。
たとえば実母の死の描写。
静岡に育った小学3年の時、母が高熱に襲われた。
近所の人が「カタツムリを手ぬぐいで包んで冷やすのがいい」と話すのを聞いた重雄少年は、裏山へ走る。
100匹近くつかまえて家へ戻ると、既に帰らぬ人となっていた。
「そばにいてあげることが、母にとって一番いいことだったんだなあと悔いた」。
この経験が「いかに、その人のために長く時間をさくか。そして一緒にいるか。それが、その人に対する愛情の深さなのだ」という後年の「愛情哲学」へとつながる…。
中学でバレーを始め、静岡・藤枝東高校へ進むと、新人でレギュラーの座を確保する。
だが強豪になかなか勝てない。
「私のような身長の低い者を起用しているからだ」。
そう自分で考え、長身の後輩が入学するや「大型化こそ強化の早道。彼らを使ってください」と言い残して部を去る。
その後、チームは躍進。
のちの五輪優勝監督は書く。
「私の推察能力もまんざらではない-自信を深めたのは言うまでもない」。
大学在学中に「履歴書10数通を書いて」東京・八王子の公立中学の押しかけコーチとなり、校務員室に寝泊りしながら東京大会優勝を飾る。
練習を眺めていた地元旧家の女性の養子となり、卒業を迎え「履歴書50通を書いて」当時の市立三鷹高校に教職を得て全国制覇を果たす。
結婚についての一節も変わっている。
妻の第一条件は「歌の上手な人」。
自分の家系が「歌がへたで年中恥をかいていたので子供のことを考えると」と冗談ではなく大まじめに記している。
日本国内では、晩年のスキャンダルの印象も強く、しだいに小声で語られる対象とされた。
だが少なくともコートの上、その周辺での指導能力は際立っていた。
映像や分析のテクノロジーの発達していない時代、宿敵ソ連の個人別のスパイク・コースを人力でデータ化した。
その調査用紙は「20万枚に達した」と前掲書にはある。
情熱、理論、そしてカリスマ性。
大衆演劇の座長みたいな風ぼうから繰り出される独特な言葉は、多感な選手の内面へみるみる入り込んだ。
「たとえ方法は間違っていても、信じて行えば、やがてそれが正しい方法になる」。
それでいて二者択一を迫られれば「両方に最大限の努力を払ってから決定する」。
大胆かつ慎重だった。
このほど、故山田重雄の米国マサチューセッツ州ホリヨークにあるバレー殿堂入りが決まった。
日本リーグで18回優勝するなど、圧倒的な指導実績が認められた。
虚をも実とさせる強烈な意思は、女子バレーという世界を制圧した。
神でも仏でもあるまい。
ただネットをはさんで向こうのベンチにいたら最もおそろしい人物だった。