『阪神優勝-大絶叫の中、静かな喜び-』
2005年10月4日東京新聞(夕刊)「スポーツが呼んでいる」
装甲車。水質検査。入院。
以上の言葉を用いて野球を題材にした作文をしなさい。
なんて、なんだかスポーツ新聞の入社試験のようだけれど、大阪の夜、この順番で野球談義が始まった。
9月29日。東心斎橋。
個人的に好きでたまらぬ立ち飲み酒場の短いカウンターでの出来事である。
神戸での取材の帰りに迷わずここを目指した。
ワインにウィスキー、各種焼酎、目配りのきいたラインアップは、きわめて良心的な価格で提供される。
「あて(つまみ)」がまたよい。
大阪で最高のスパゲティサラダが200円。
揚げたニンニクのチップもたまらない牛肉たたきは250円。
おかしなことばかりの日本列島における小さな奇跡だ。
アルコールを静かに楽しみたい者が集う。
もちろんテレビなんか置いてない。
阪神タイガース、あと少しでセ・リーグ制覇の時間、それでも野球の「や」の字もない。
ないはずだった。
ところがタイガースは、いきなり入り込んできた。
道を隔てた大型の居酒屋から「あと一人」コールが聞こえてくる。
カウンターの隣の背の高い紳士が言う。
「ふふ。決まりですか」。
若く無口なはずの主人は「戎橋、大変や。なんでも警察の装甲車みたいなの出てるらしい。川に絶対に飛び込ませないようにと」。
紳士。「あそこら、水が汚いでしょう」。
主人。「水質検査の結果、ひどかったそうです」。
紳士。「2年前に飛び込んで、まだ入院中の人間もいるのだとか」
そのうち居酒屋のコールが「あと一球」に変わった。
歓声。沈黙。
紳士のつぶやき。「これ、ファウルやね」。
ついで大歓声。「いまのは低い外野フライ」。
そのうち例の応援歌がとどろいた。
そして異変は生じた。
あの落ち着いた主人が意を決して切り出したのだ。
「申し訳ありません。少しだけラジオを」哀しげなブルースの旋律は消え、岡田彰布監督のうれしいのに寂しそうな声のインタビューが始まる。
酒場の紳士が言った。
「この人、2軍監督でも案外に勝ってる」
主人がうなずく。
「あれでシンは強い」
心なしか早口になっている。
好きだったんだ。
野球が。
いやタイガースが。
目はひょっとしてワインのロゼ色かな。
こちらアイルランドの黒ビールをおかわりしたいけれどスポーツライターの礼儀として待つ。
そこへ新しい客が入ってくる。
どうやらレギュラー(常連)らしい。
「子供が叫んでます。阪神、優勝って」
主人の返事がよかった。
「叫ぶでしょう。子供」
巨人、死して、トラ、ほえる。
以下、紳士の本音。
「ま、巨人戦で優勝、うまく運びましたな」
帰り際、気がついた。
ワイン用冷蔵庫の横側にタイガースの帽子をかぶった人物のイラストがはってある。
誰だ。
暗くて見えない。
見えないように顔の半分は酒の棚に隠れている。
ヌードで道頓堀川へジャンプしたい若者よ。
本物の愛とはこういうふうに表現するのだよ。
阪神に追いすがった球団の支持者は大阪発の報告を許してほしい。
来年のいまごろは名古屋のどこかで「その時」を待てればとも思う。