『ミリオンダラー・ベイビー:-映画もいいけど原作も-』
2005年6月14日東京新聞(夕刊)「スポーツが呼んでいる」
自分の決断に感謝したい。
ちょうど1年前の6月某日、東京・水道橋の後楽園ホール近くの書店へ寄った。
ボクシング取材前の恒例だ。スポーツライターの準備体操のようなものである。
『テン・カウント』
お、ボクシング小説だな。
早川書房。著者はF.X.トゥール。
帯の宣伝コピーがよかった。「史上最高のボクシング小説。ソニー・リストン級」。
幼くして両親をなくし、まともな教育を受けられず、いくつかの罪を犯し、そして人々をひきつける小説を書くジェイムズ・エルロイのコメントである。
モハメド・アリでなくソニー・リストン!
アーカンソーの貧しい農家に生まれ、19度逮捕され2度服役し、ヘビー級王者となるリストン。
アリになる前のカシアス・クレイにぶっ飛ばされたリストン。
読みたくなるじゃないか。
ただし問題は価格だ。
2310円。
読書好きには分かってもらえると思うのだが、2000円より高い書物の購入には心理的長考を要する。
本好きは本の価値に慎重なのだ。
酒場ではその何倍もへっちゃらで支払うのに。
でも買った。ページをめくると以下のような文字の並びが飛び込んできたからだ。
「千分の一希釈のアドレナリン溶液」「まぶたの神経」「汗によって蒸された柔らかな手」「ココアバター、ワセリン、綿棒に消毒済みのガーゼ」。
ボクシングのコーナーマン(セコンド)の用語である。
さまざまな知恵と経験を駆使して止まらないはずの血を止め、顔面の凸凹をしばらくの間だけ修正する。
短編が5、中篇が1、そこには「ボクシングを借りた物語」ではなく「ボクシング」が収まっていた。
気高さとまがまがしさは常に伴走を続ける。細部の確かさ。
乾いた熱。冷たくすらない悲しみ。ああ、買ってよかった。
筆者の本名はジェリイ・ボイド、本物のカットマン(止血の専門家)だった。
南カリフォルニアに生まれ、海軍を経てギャンブル場勤務など多くの職業を転々、メキシコでは闘牛士を経験、70年代後半からはバーテンダーとして生きた。
ボクシングにかかわるのは50歳から。最初は遅れてきた現役で、やがて「ボクサーがまだ戦い続けられるように見せかける」止血の魔法に才能を発揮する。
作品集は、5年前、70歳にして書かれた。
「衝撃のデビュー」を飾った作家は2年後に世を去っている。
ただいま話題の映画『ミリオンダラー・ベイビー』は、この『テン・カウント(原題=ROPE BURN)』を原作としている。
さすがクリント・イーストウッド監督、目のつけどころは鋭い。
女性ボクサーと老いたるジム経営者、その孤独の奥から吹きこぼれるような愛情を描いて評価は高い。
4月に出張先のロンドンで見た。
英語の4回戦ボーイに字幕がなかったのだから差し引かなくてはならないけれど、感動にひたる取材仲間よりは冷静だった。
帰国後、それは先に原作を読んでしまっていたせいだと気づいた。
すでにシャンパンを飲んでしまっていたのである。
『テン・カウント』は、このほど『ミリオンダラー・ベイビー』として文庫化された(ハヤカワ文庫)。
税込みで780円。
これ、もしかしたら日本国で最も良心的な物価ではあるまいか。