暦の上では、もう秋だ。

 

 だが、

「厳しい暑さ、熱中症対策を…」注意

という声が、テレビから聞こえてくる📺ピリピリ

 

 炎天下で、

ホットな空気に包まれる時期は、涼しさを感じる景色を眺めながら

ホッとしたい爆笑

 

 そう思った私は、

鹿児島市喜入(きいれ)町の『香梅ケ渕(こべがぶち)』へ向かった車DASH!

 

 

 

 『香梅ケ渕』は、

喜入旧麓(きいれもとふもと)地区を流れる八幡川が、大きく蛇行する区間に位置する。

 

 

 

 私は、

旧麓入口近くの「ふれあい広場」に、車を停めた。

 

 ここから、

『香梅ケ渕』まで、約1.5km。

 

 その途中、

日本遺産「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~」の構成文化財に、認定された街並みが続く。

 

 

 

 

 通り沿いに、

石塀が連なり、城下町の面影が残っている。

 

 
 
 

 

 

 石垣の脇には、

当時の水路が現存し、流れる水は綺麗だキラキラ

 

 今でも、

この水路は、野菜を洗ったり、農業用水を引くために利用されている🌾

 

 

 

 

 

 石塀が終わり、

分岐点の道標に従って歩くと、たちまち『香梅ケ渕』に辿り着く。

 

 

 

 
 

 渕の全貌が、

知りたいと考え、私は川岸を先に進んだ虫めがね

 

 川上の滝から、

勢いよく、水が流れ落ちる。

 

 

 

 

 

 清らかな水は、

徐々に、エメラルドグリーンに染まっていく。

 

 それでいて、川底が透けて見える気づき

 

 

 

 
 

  ふたたび、

澄んだ水に戻り、河口から錦江湾(鹿児島湾)に注がれる。

 

 

 

 

 

 緑のグラデーションに、

陽光が差し込むと、水面は乳白色に変化する。

 

 周りを囲む

豊かな自然とのコラボで、織りなされる

神秘的な空間だ』びっくりマーク

 

 

 

 

 

 古くから、

この渕には、悲しいエピソードが伝えられる。

 

 その昔、香梅という美しい侍女がいた。

 

 香梅は、領主の超お気に入りラブ

 

 ある日、

川のほとりで、花見の宴が開かれた桜日本酒

 

 給仕役をする

香梅の帯が、擦れて異音がしたピリピリ

 

 日頃から、

香梅を妬んでいた者は、オナラの音だとささやいたニヤリ

 

 おそらく、

『香梅どんが、屁(へ)をひった』

(香梅さんが、オナラをした)

とでも口走ったのであろう。

 

 領主は、不快な表情えーハッ

 

 助け舟を出そうと、

家来の一人が、「川に杯を投入し、川下に流れたら、香梅の潔白が証明される」と叫んだ。

 

 ところが、

香梅が放った杯は、川上に流れていったガーン

 

 失望のあまり、

香梅は渕に身を投げて、亡くなってしまったショボーン

 

 それ以来、

この渕は、『香梅ケ渕』と呼ばれるようになった。

 

 
 

 なぜ、

杯は、川を上ったのだろうか??

 

 目を凝らせば、

水底の窪みに、引き寄せられる所では、水の流れる方向が複雑だびっくり

 

 ゆったりと、

流れる水は、渕の手前で次第に淀んでいく。

 

 突出する大きな岩に、

ぶち当たった水は、足止めを食らう手

 

 そのせいか、

渕に入ろうとする水が、少し逆流している左右矢印

 

 まるで、

オナラ嫌疑をかけられた、香梅のやるせない気持ちを表しているようだ。

 

 

 

 

 

 ちなみに、

鹿児島弁で、火山灰のことを「へ」と言う

 

 日常会話で使われる

「桜島のが、スゴイ」ゲッソリ

とは、“ 桜島が、凄まじいオナラをした ” のではなく、“ 桜島の噴火で、ドカ灰が降った ”  という意味だ。

 

 

 

 そもそも、

喜入地域の歴史は、平安時代末期に薩摩平氏の伊作有道(いざく ありみち)が、この地に居城し姓を給黎(きいれ)と名乗ったことに始まる

 

 室町期には、

伊集院頼久(いじゅういん よりひさ)が、給黎の地を領有していた。

 

 1414年(応永21年)、

島津家第8代当主・島津久豊(しまづ ひさとよ)は、給黎城を攻め勝利したチョキ

 

 その時、

「給黎」から「喜入」へ文字を改めた

 

 1595年(文禄4年)、

島津氏配下の国替により、肝付(きもつき)家の所領となる。

 

 肝付氏の

子孫では、幕末に薩摩藩家老となった小松帯刀(こまつ たてわき)が有名だニコニコ

 

 2008年(平成20年)に、

放送された大河ドラマ「篤姫」のなかで、肝付家の三男・尚五郎(なおごろう)が、小松家の養子となり、明治維新に向けて活躍する姿が描かれている📹

 

 一度、

帯刀目線で、ストーリーを追ってみると、面白いかもしれないウインク

 

 

小松帯刀像

(鹿児島市山下町)

 

 

 いにしえの

麓で暮らす武士は、心身や武芸の鍛錬に励みつつ、農耕に携わっていた🧑‍🌾  

 

 そんな過去に、

想いを馳せる『香梅ケ渕』は、びがる町で、今日も紺碧に輝いている完了

 

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それでは、またニコニコバイバイ

 

 

 

 鹿児島県の

郷土料理(菓子)に 、“じ(ぢ)ゃんぼ餅” というものがある。

 

 見た目は、

“みたらし団子” を平べったくしたような形で、いたってシンプルお団子

 

 それでいて、

口の中で、とろける柔らかい餅と、絶妙に甘辛いタレの組み合わせは、食べた人を虜にする美味しさだ爆  笑

 

じゃんぼ餅

 

 

 鹿児島市下福元町の

「谷山(たにやま)神社」には、“じゃんぼ餅” の由来となった神様が祀られている。

 

 「谷山神社」の御祭神は、懐良親王(かねなが/かねよし しんのう)。

 

 懐良親王とは、後醍醐天皇の第九皇子である。

 

 いったい、

懐良親王が  “じゃんぼ餅” の起源 に、

『何の関係が、あるのかぁ〜』?

 

 “じゃんぼ餅”

歴史を紐解くと、南北朝時代に遡るびっくり

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 1333年、

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し天皇親政を復活させたチョキ

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 しかし、

翌年、足利尊氏が離反して政権を獲得てへぺろ

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 さらに、

尊氏は、豊仁(とよひと)親王を光明(こうめい)天皇とし、京都朝廷【北朝】を設けた。

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 一方、

後醍醐天皇は、大和国笠置山(奈良県吉野郡吉野町)に移り吉野朝廷【南朝】を称し、南北朝時代に突入する爆弾

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 北朝優勢のなか、

南朝の勢力を巻き返そうと、後醍醐天皇は自分の子供(皇子)たちを日本各地に派遣した。

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 1342年、

懐良親王は、征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)として薩摩国の谷山(鹿児島市下福元町)に下向カブト

 下矢印下矢印下矢印

 谷山郡司・谷山隆信(たにやまたかのぶ)は、懐良親王を谷山城(千々輪〔ちぢわ〕本城)に迎え入れ、隣接する高台に御所を築き手厚くもてなした。

 

 現在、

御所と征西府本陣が置かれていた跡地は、「御所ケ原」と名付けられ、懐良親王の御所記念碑が建っている。

 

 

image

 

 

 懐良親王が、

谷山氏のもとを訪れたのは、13歳の時である。

 

 年若い懐良親王を慰めようと、

谷山氏は付きたての餅に、とろみのあるタレ(黒砂糖と味噌を煮詰めたもの)をかけて出した

 

 

 

 初めての味に、

興味津々で、料理名を尋ねる懐良親王ラブ

 

 思わず、 

谷山氏は じゃんぼ 気づきと答えた。

 

 一口サイズなのに、 

 なぜ、ジャンボ ??

と思うかもしれないが、“じゃんぼ餅” は漢字で「両棒餅」と書く。

 

 2つで1組の物を意味する「両」のことを中国語で、リャン と発音する。

 

 その言葉が、

鹿児島で ジャン と、なまったものと思われる。

 

 たやすく

食べられるように、2本の串を餅に刺した

 

 だから、

 両棒(じゃんぼ) という訳だびっくりマーク

 

 ちなみに、

鹿児島では、上級武士が携帯する二本差しの刀も両棒と呼ばれたらしい⚔️

 

餅餅餅餅餅餅餅餅餅餅餅餅餅餅

 

 1928年(昭和3年)、「谷山神社」は創建された。

 

 懐良親王が、

鎮座するのは、慈眼寺(じげんじ)公園内の小高い山の頂だ。

 

 

 
 

 傾斜のきつい

石段が、通路と境内をつないでいる。

 

 『えっ!? この階段を登るのか』ガーン

 

 『途中で、転げ落ちたら……』ドクロアセアセ

 

 

 

 
 

 『でも、大丈夫』OK

 

 神社まで、

山道を通って、車で上がって行ける車DASH!

 

 

 

 

 

 到着すると、

境内に駐車場が整備され、社殿は目と鼻の先だ。

 

 

 

 私は鳥居をくぐり、拝殿へ歩を進めた足

 

 

 

 

 風が吹くたびに、

境内を囲む木々の間から、心地よい葉音が聞こえる🌿

 

 

 

 

 

 参拝を終え

振り向きざまに、小型で朱塗りの鳥居が視界に入った👀ハッ

 

 この社殿は、

谷山隆信を御祭神とする末社の千々輪神社。

 

 参道の傍らで佇む姿は、

谷山氏が懐良親王を守護しつつ、“じゃんぼ餅 ” をこしらえるワンシーンを連想させる🎬

 

 

 

 

 

 ここは、

後醍醐天皇が、目指した九州統一の出発点であり

“じゃんぼ餅 ” 発祥の地とも言えるだろう』上差しOK

 

 神社の展望台からは、

雄大な桜島を背景に、谷山の市街地がワイドに広がるキラキラ

 

 
 

 1347年、

懐良親王は谷山を去り、肥後国菊池(熊本県菊池市)に拠点を変えた。 

 

 谷山に滞在した約6年の間、

南朝を支持した武将に、どんな印象を持ったのだろうかはてなマーク

 

 一つの手がかりとして、

古くから、鹿児島に伝わる「薩摩兵児謡(さつまへこうた)」というものがある音符

 

 私は中学生の頃、

「薩州ブニセのうた」という兵児謡を習ったことがある🎹

 

 『その歌詞は、コレ・・』と

言いたいところだが、鹿児島弁は難解な単語が多いため、私なりに訳を付けてみた。 

 

 「薩州ブニセのうた」 

おどま薩州 薩摩の醜二才(ぶにせ)

 俺は、鹿児島のブ男

色は黒くて 横這(よこばい)のこじっくい

 肌の色は黒くて、横に太り背が低い

今じゃこげんして 唐芋(からいも)どん くっちょどん

 今は、こうして さつま芋 を食べているが

やがちゃ 天下の御意見番じゃ

 将来は、天下の御意見番になるんだ!

そんときゃ ワイどんも オイげ~えこんか

 その時は、お前たちも俺の家に来いおいで

 

 

 容姿や境遇などは気にせず、

天下を動かす男になろうとする心意気を歌い、自らを鼓舞するものだ筋肉

 

 そんな、

ハングリー精神旺盛な、からいも(さつま芋)侍が、懐良親王のお気に召したか分からない焼き芋

 

 ただ、

菊池へ向かう道すがら、懐良親王は  “じゃんぼ餅 ” みたいに、素朴で味わい深い仲間たちと、送った日々の思い出を嚙みしめていたであろう餅ニコニコ

 

 

 最後まで、お読みいただき乙女のトキメキありがとうございますお願い飛び出すハート

 

 

 

 

慈眼寺公園(慈眼寺跡エリアの風景)

下差し下差し下差し

 

 

 

 

 それでは、またニコニコバイバイ

 

 
 

 夏の青空が、似合う花「ヒマワリ」ひまわり

 

 私の暮らす鹿児島は、

7月17日頃、今年の梅雨が明けた。

 

 『大きなヒマワリ畑を見たい』!!

 

 早速、私は

鹿児島市犬迫町の「鹿児島市都市農業センター」へ向かった。

 

 でも、ちょっとフライングブー

『まだ、早い』ショボーン

 

 

 

 

 気を取り直し、

8月に入って再チャレンジ車DASH!

 

 

 

 

 

 鹿児島市都市農業センターの

「四季の花園」は、面積が8,000平方メートルある大花壇だ。

 

 

 

 すでに、

約8万本のヒマワリが、咲き誇っているルンルン

 

 

 

 
 

 オレンジや

黄色いヒマワリの花言葉は、『未来を見つめて』・『願望』。

 

 また、

色を問わずヒマワリ共通の花言葉として、『あなただけを見つめる』・『憧れ』・『崇拝』などが挙げられる。

 

 活気あふれるイメージの

ヒマワリだが、意外にも花言葉は謙虚さを表しているようだ。

 

 

 

 

 太陽を見据え

まっすぐ咲くヒマワリを眺めながら、通路を歩いた。

 

image

 

 

 フッと、

小学2年生の時、素焼き鉢でヒマワリを育てたことを思い出した電球気づき

 

 それ以来、私は

『ヒマワリとは、観賞して楽しむものだ』

と思い込んでいたヒマワリヒマワリヒマワリ

 

 しかし、

もともと食料として、重宝されてきた花だ!

 

 ヒマワリの

原産地は北アメリカで、その歴史は紀元前までさかのぼる。

 

 ヒマワリの種は、

タンパク質と脂質を多く含むため、欠かせない栄養源として用いられてきたクッキーのプレゼント

 

 『パワフルな見た目だけでなく、栄養価も高い植物がヒマワリだ』筋肉

 

 そのことを

『リスは、よく知っている』🐿️ラブラブ

 

 

 
 

 空からは、

真夏の太陽が、ジリジリと照り付ける太陽

 

 その灼熱に、

負けじとヒマワリは、『情熱』で応えているニコニコ

 

 

 最後まで、お読みいただき乙女のトキメキありがとうございますお願い飛び出すハート

 

 

 

image
 

 それでは、またニコニコバイバイ