誕生日前日になりました。

37歳もあと24時間を切り、新たな年齢に向かって邁進しています。

自分が高校生くらいの時、38歳の自分なんて全く想像できてなくて、生きているのか死んでるのかすら考えたことはなかったですが、実際にこうして37歳、38歳までくるとこの年齢まで生きれて良かったなと思います。

 

それは新型コロナウイルスの状況もあって、自分にとって縁のあった方や大切な方がバタバタ倒れたり亡くなったりしてることとも無関係ではないと思います。

「そういう人たちの思いも背負って」とか言うつもりはないですが、というか、それを目指しても無理だし、でも、感謝はして生きないといけないなと思います。

 

つい数日前に自分が都立国分寺高校時代に大変お世話になったサッカー部のコーチが55歳という、80歳以上まで生きるのが半ば当たり前の日本にあっては若すぎる年齢で亡くなりました。

 

高校サッカー部の同期でライングループがあるんですけど、その訃報を受けてそのコーチにされた理不尽なことをみんなで笑いながら話してました。

一人ひとつは「おれはこんな理不尽なことで怒られた」というすべらん話があるので、笑いながらラインを読んでました。

 

サッカーの指導者として本当に素晴らしく、そのコーチに指導してもらったからこそ今もサッカーを楽しめているということは間違いなくありますし、サッカーだけでなく人生において大切なことも沢山教えてもらった方です。

 

 

この記事を是非読んでみてください。

 

この「おれはお前の歩き方が気に食わない」と言ってくれたのが国分寺高校サッカー部コーチ池田さん、その人でした。

言われた当時は「は?!」と思ったりもしましたが、その後にその真意を聞くことが出来て、すごく附に落ちたのを覚えています。

 

その他にもブラジル体操というみんなで列になって掛け声をかけながらやるウォーミングアップがあったのですが、その際に全体的に元気がなく、動きも重かった僕らを見て、何故か僕だけ「足がいつもより上がってない!」という理由で走らされました。

#まだ一年生だったのに

#Aチームで3人だけしかいない1年生の一人だったのに

#絶対上級生の方がだらけてたのに
 

僕が走りながらブラジル体操をしている仲間たちを見てみると、さっきまでの雰囲気が嘘だったかのように声を出して、ハキハキとブラジル体操しています。

「足が上がってなかったのは絶対おれだけじゃねえ」と思いながら、ピッチを10周して、タッチライン側をひたすらダッシュしていました。

それも、多分僕の態度に問題があったからなのだろうと今なら思いますね。

いや、やっぱ先輩たちの方が絶対適当にやってた!!!(笑)

 

暁星高校と練習試合をした際には、相手にその後日本代表まで上り詰め、Jリーグで得点王を獲得し、先日惜しまれながら引退をした稀代のストライカー前田遼一さんがいました。

 

 

練習試合できっと前田さんもそんなに本気出してなかったと思うんですよね、世代別の選抜とかにも選ばれて忙しそうだったし、、、それでも、前田遼一というプレーヤーからついに一度もボールを奪えずに好き放題やられて、コテンパンにされました。

 

その後のミーティング、センターバックを組んでいた僕と1学年上の先輩K島くんがこのコーチにこってり絞られました。

その際に「何で、お前のところでやられるかわかるか?」と聞かれて、「自分のラインコントロールがごにょごにょごにょごにょ・・・」と言い終わらないうちに「お前があいつを今ここで止めてやるって思ってねえからだよ!」と言って、アッパーカット喰らいました。

 

確かにこの試合、僕は完全に「前田遼一」という選手に名前負けしていました。

当時の高校サッカー界で非常に有名でプロ確実と言われていた選手で、実際Jリーグ行きの際に全チームがからオファーがあったとされているほどの選手です。

がっつり呑まれてました。いつしか立ち向かう気持ちは消え、へっぴり越しで何とか抜かれないようにやられないように、びくびくプレーしてました。

そんなんじゃダメなんですよね。

同じピッチに立ってるんだから、そこに名前とかは関係なくて、自分が持っているもの全てを使ってそこで最高のパフォーマンスをして立ち向かっていくのがあるべき姿だろうと。

この時の経験って今でも、凄く大きな糧になっています。

 

ちなみにアッパーカットを喰らった後は、個別練習に暗くなるまで付き合ってくれて、ラインコントロール、1対1の対応の仕方、ゴール前の最後の場面での対応の考え方とスライディングの仕方を叩き込んでもらいました。

その時の光景って今でもはっきり覚えてるんですよね。

 

今のご時世だったら、親御さんたちから非難や抗議の声が上がって指導できなくなってしまうかもしれないですね。

実際、僕らが卒業してから何代かあとの親御さんたちからは抗議を受けて、指導日数の制限がかかったり、以前とは違う指導になっていたりしました。

 

それを見て少し寂しい気持ちになりながらも、これも時代の流れで池田さん自身も悩みながら見出した答えなのだろうとその変化に想いを馳せたりもしました。

 

どの思い出も今の糧になっていて、厳しいことや理不尽なことも山ほど言われたけど、人生で大切なことが沢山詰まっていたなというのが僕ら指導してもらった選手の総意だと思います。

 

お通夜の写真が送られてきましたが、各世代の選手から沢山の花が届いていました。

都立国分寺高校に来る前に指導していた都立久留米高校(現在の都立東久留米総合高校)で指導を受けた生徒たちからの花もあって、池田さんが色々な方から感謝されているのが伝わってきました。

 

僕の高校時代を全て捧げたといっても過言ではないサッカー生活。

その日々の中でほぼ毎日顔を合わせ、多くのことを学ばせてもらいました。

池田さんのご冥福を心よりお祈りすると共に、感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。大変お世話になりました、ありがとうございました。

 

今日も精一杯、悔いなく生きられるように過ごしていきたいと思います。

僕も死ぬときに色々な人に笑って思い出してもらえるような人生を歩んでいきたいです。

 

あなたにとって、

今日が昨日よりちょっとでもいい日でありますように。

 

ひろ。

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今日は「ありがとう」の気持ちを込めてこの曲を。

9年前の3月の映像だけど、、、日本語で「テリマカシ」聞いてください。