最近のテレビアニメを観て想うこと(2) | あくまでも私の持論なんですが

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  日本のテレビアニメの評価の難しさ


日本のテレビアニメは今でこそ海外で高い評価を受けているが、それは海外にはない大人を対象とした優れたストーリーであり、漫画に根ざしたスタイリッシュで美しいビジュアルのキャラクターといった内容に関する部分が中心なのではないだろうか。

勿論映画であればスタジオジブリ等に牽引されて発展してきたアニメーションとしての質の高さこそが世界に誇れる部分ではないかとは思うのだが、テレビアニメに関して言えば原作者や監督といった一部の優れた感性の持ち主に依存する事が多い。

そういった意味では構成や演出を含めた作画の質の高さといったアニメ本来の評価されるべき部分というのは案外蔑ろにされがちなのだ。

そこには元々スポンサーありきというテレビアニメとしての大前提がある。
まずは商品として有効に利用できるキャラクターを確立すること、そして基本的には安く、早く仕上げることだ。
日本に限った事ではないが、テレビアニメは根本的には商業主義が主導している中で発展してきたのだ。

日本で最初のテレビアニメである「鉄腕アトム」は、漫画の神様である手塚治虫のアニメに対する強い想いから制作されたものだ。
想いを実現するため、当時でも信じられないほどの低予算で制作を請け負ったといわれており、足りない予算を埋めるために手塚治虫は自身の漫画の原稿料を補填しながら制作していたという。
だが、毎週30分のアニメを一本制作するという時間的な制約と、予算不足や人材不足は深刻で情熱だけではどうしようもない状況だったのである。

それを少しでも凌ぐために作業量を、つまりは動画枚数を減らすために様々な方法を駆使していたのだ。

代表的なのは日本のアニメの特徴と言える「3コマ打ち」と呼ばれる方法だ。

本来のフルアニメが一秒間に24コマ、つまり24枚の動画を使って撮影するところを、同じ動画を2コマ続けて撮影することで一秒間の動画を12枚に減らす技法を「2コマ打ち」と呼ぶ。
海外のアニメではフルアニメか2コマ打ちが主流なのだそうだ。

それを更に減らし、同じ動画を3コマ、つまり一秒8枚で済ますのである。
現在でも基本的には3コマ打ちが主流であり、フルアニメに対するリミテッドアニメとして日本独特のアニメの代名詞とされているのだ。

ディズニーの昔の手描きアニメがヌルヌルと細やかに動いているのはきちんとフルアニメで制作していたからで、それに比べると日本のアニメがパラパラ漫画の様なぎこちなさがあるのはそのせいだ。

本来は動画の手間を減らすための手法ではあるが、逆に動きそのものは自然に見え、目にも止まらないような速い動きや独特のテンポ感を表現するのに有効という副産物も生み出している。

他にも会話シーンで静止画の人物の目だけ、口だけを動かしてたり、横移動のシーンで背景だけをスライドさせたり、一枚の情景シーンを固定したまま音楽やセリフだけを流して数秒稼いだりするイラスト紙芝居の様な手法もある。

それらは昔からある手法ではあるが、キャラのアップ等のベースとなる作画部分さえしっかりと描いてあれば画面全体がそれなりに整って見えるので、一見作画レベルが高いように見せかけるためにお手軽な上に有効なのだ。
作品によっては構図や演出との組み合わせ、カット割り等によって単純に動画節約としてではなく心情描写等で上手く使いこなしているものもある。

繰り返すが、テレビアニメは根本的に商業作品であるためにキャラクターや作品としての面白さが重要視されアニメ本来の作家性は蔑ろにされがちである。

制作サイドの純粋なアニメへの想いとは裏腹に、商品としてのアニメ制作という現実と向き合いながら効率重視、身も蓋もない言い方をすれば手抜きの技術を磨きながら成長してきたという歴史がある。

逆にその様な流れに逆らう様に良質の作品を目指す作家主義、また限られた予算や時間、そしてスポンサーの意向といった様々な制約の中で出来る限り質の高い作品を目指す、言わば職人主義といった人材がどの時代にも必ず存在した。

そうして商業主義と作家主義、職人主義のせめぎ合いの中から生まれたバランスと完成度の高さこそが現在の日本のテレビアニメを作り上げたと私は思うのである。

私は、テレビアニメ作品の評価が難しいのは実はこういう部分にあると思っている。

商業主義の手抜きと作家主義の演出は日本のアニメにとって表裏一体の技術だ。
つまりはその境目は非常に判断が難しく見分けがつきにくいのだ。
また、そもそもアニメ本来の作画技術や作家性というものは作品を語るうえで需要なファクターにはなり難いという点がある。

例えば映画としてのアニメ作品で、緻密な作画と細やかな動きの技術を理解し、評価する人は果たしてどの程度いるのだろうか。

アニメ評論家でもない限り、映画としての評価はストーリーやその構成、演出や画面全体の美しさにしか目がいかないはずである。偉そうなことを言っていても、私自身もそういう細部で作品を評価できるかどうかは正直自信がない。

実写映画の場合、監督や俳優が演出として無意識に表現している所作も、アニメの場合は作画監督が綿密に指示し、作画で表現しなければならない。
そういう細かい描写の有無が作品の世界観に深みを与え、無意識に我々の感情を刺激する重要なポイントなのだが、それが効果をもたらしているということも、逆に省略していてもその事には気付かれにくいのだ。

どの国のどのアニメ作品でも、安く仕上げようと思えばいくらでも誤魔化す手段はあるし、逆に質の高い作品を作ろうと思えばいくらでも追求する事は出来る。
だが、実際なかなか評価され難い部分に力を入れるというのは、合理的な考えの海外の制作現場では考えられない事なのではないだろうか。

日本のアニメの本当の良さというのは、合理的に考えれば無駄とも思えるような部分に注力する気質にあると思うのだ。
自己を犠牲にしてもギリギリまで完成度を高めるという日本独特のこだわりの精神、職人気質の賜物であると私は思うのである。

少し心配しているのは、海外のスタジオが日本式のアニメ制作を取り入れた場合、日本独特のこだわりの部分を見ず、安く早く制作できる動画節約の手法にのみ注目してしまう事だ。

勿論海外スタジオが全てそうなるとは言わないが、日本式アニメの商業主義な部分だけを取り入れる可能性は国の支援で利益優先の会社が増えた場合は充分考えられる。
いや、既にここ数年の新作アニメを見れば、日本の制作会社も技術向上や人材育成よりも動画節約の商業主義作品に走る作品は多いのだ。
この様な作品が乱造されることで日本独特の良心的な作品が逆に駆逐されてしまうことを私は危惧するのである。

まだ日本のアニメの評価が高く、これだけ多くの作品に投資されているこのチャンスにこそ、人材や技術の向上に力を入れる制作会社に成功してほしいと私は心から願うのだ。