この原稿は2018年3月に執筆し、WOM4 月号 に掲載されたものです)
タイに見るたくましさ
タイ バンコクの街中には物乞いの人がいる。
バンコクに来て、初めて住んだ場所の駅前にも気になるひとりの物乞いの 男性がいた。
その人は手足が不自由だった。でも、その物乞いの男性は常 に満面の笑みを誰にでも向けていた。
だから私はいつしか、その笑顔に挨 拶するようになってしまった。
そうなってからは、お金を入れたら良いのか、入れる事の方が失礼になる のか?複雑な思いに悩まされるようになった。
夫とも話し、お金を入れる のは 3 回に 1 回にしよう、そして入れる時は小銭ではなく、少しまとまっ たお札にしよう、と。
こちら側の気持ちの都合でのマイルールを作った。
そんなある日、在タイの長い日本人からこう聞かされた。
「あの人達には元締めがいて、恵んでもらったお金は全て搾取される。だからいくらお金を入れたところで、あそこからは抜け出せない。さらには、お金を入れる
人がいる限り、ああやって街に座らされる」と。
また、「彼らはタイ人ではない可能性が高く、近隣のアジア諸国から連れてこられている」とも。
その時から、私はお金を入れるのをやめるようにした。
連れてこられ、見世物としてお金を恵まれ、さらにそれを搾取される、そのサイクルから抜けて欲しかったのだ。
その後私達はその土地を離れたが、引っ越した先の駅前にも、数人の物乞 いはいた。
私達はその誰にもお金を入れなくなっていた。
新しい街に暮ら して 2 年半が経ったある日、私は懐かしい笑顔と再会したのだ。
そう、あ の人懐っこい笑顔の、手足が不自由な男性の物乞いの人だ。私も驚いたが 向こうも驚いていた。
今度は幼児と一緒で、父子として座らされていた。
ある日、私はどんより重たい気分を抱えて 1 人で家路についていた。
その 日、駅前にはその親子のふりをさせられている物乞いの男性がいた。
相変 わらず屈託のない笑顔だった。
私はもぞもぞとお札を取り出し、その男性 の足元の、お弁当箱にそっと入れた。
彼は笑顔をタテに何度もふって、私 を見送ってくれた。
重たかった気持ちが、彼に対するおセンチな同情の思 いで満たされた。
ちゃんとお札は搾取されずに、ポケットにしまえますよ うに。
そんな事を祈った。
そして私は駅と家の間にあるセブンイレブンに入った。
店内を一回りして
品物を手にレジへ向かうと、なんと、さっきの手足の不自由な男性がレジにいるではないか?
歩けないと思い込んでいた彼は器用に立って、この短時間にコンビニまで移動できていたのだった。
子供にお菓子を手渡す彼を見て頬がゆるんだ。
早速あのお金を使いにきたのだ。
可笑しくなった。
おセンチになった自分はおめでたい(笑)
「たくましいな」と感心した。
私なんかが心配しなくとも、彼らはうまくやっているんだ、と安心した。
たくましい、
だからあの笑顔なんだと理解した。
私が入れたお札は搾取されず、生かされた事も嬉しかった。
タイ人は仏教の教えを大切にしていて、タンブンすれば(来世でも)幸せが 増えるという考え方があるのは知っていたが、この話をしたところ、
ある 日本人から、「物乞いは下級で施しを受けるという印象があるが、実は物 乞いの人からしたら、タンブンさせてあげているというスタンス」なのだ と聞いた。
目から鱗の説明だったが、結局は誰かに何かをする行為という のは、所詮「自分の為」なのだな、と妙に納得したのだった。