洋の東西、否南北共に金曜から3日間の週末ラグビーを、まとめておさらいしておこう。

 

冒頭に書き残しておくべきは、金曜真っ先の1試合。なんといってもクライストチャーチの最新スタジアムOne New Zealand Stadium「テ・カハ(Te Kaha)」でのこけら落としだろう。この週、試合に限っては、いつも脇役の「スタジアム」が主役になった。

 

「スーパーウィーク」と銘打って開催された3日間には、スーパーラグビー・パシフィック参加の10チームが、クライストチャーチに一同に集まり、この国の最新スタジアムの誕生を祝った。しかも、このスーパーウィークは、ただの1大型ヴェニューのオープニングを祝福したのではなく、この地を襲った直下型地震からの復興を高らかに謳う民間、ラグビーによる〝国家行事〟。毎試合スタンドを埋めたサポーターも然りだが、タスマン海峡を越えて集った、ANZACsのプレーヤーたちの熱量溢れるプレーが、その価値を物語っていた。

 

とりわけ金曜日の夜の、まさに「歴史的な1戦」は、勿論ホストのクルセイダーズがライバル・オーストラリアのラグビーを長く牽引してきたワラターズを迎えての80分。オープニングアクトに相応しい好バトルを、ホストの勝利で締めた。

 

この歴史的な一戦に、スタジアムの歴史に比べれば小さな変革かも知れないが、もう一つの歴史を記したのがホストの#7 でスターターとして登場したレスター・ファインガアヌク。1週間前のフォース戦はCTBで先発した選手が、バックローとしての第2のデビュー戦でも資質を輝かせた。

 

ラグビーでは、その戦術の変遷の中で、BKの選手がFWへ、FWがBKへのコンバートやその可能性は何度も、何人も議論されてきた。勿論議論だけではなく、実際にコードチェンジした選手も存在してきたが、世界トップレベルのリーグで1週間前にCTBでプレーした選手が、翌週バックローで先発するのは尋常ではない。野球に例えれば投手だった選手が外野手になるわけだが、実際のレスターのプレーとこれからの可能性をみれば、それは大谷翔平の実現した〝二刀流〟、つまりコードチェンジではなくダブルコードと呼ぶのが適当かも知れない。

 

正確に期すなら「転向」。

 

この#7は、ラグビーという競技が持つ、ゲームが始まればポジションに縛られずその立ち位置にいる選手が〝適切なプレー〟を求められるという特性を生かして、時にはバックローとして密集周辺でのフィジカルゲームに体を投げ出し、状況に応じてアタックラインに入ってボールを動かした。中島みゆきの歌声のように時代が巡る中で、「いま」のラグビーでは、ルーズFWとTBの役割に境界線が薄れているからこそ、このダブルコードが価値と可能性を秘めたものになっている。

 

では、こんな〝ラグビー版大谷翔平〟は、王国ニュージーランドだから実現したのかというと、そうではないだろう。

 

クラウスとチャーチの試合当日のSNSでも少々呟いたが、日本でも、神戸Sの試合を取材した時には、ほぼ毎回、FLティアナン・コストリーには「どう?そろそろCTBやってみたくなってきた?」と声を掛けている。

 

これはティアナンがバックローよりミッドフィールダーが向いているという意味ではなく、この日本で成長したバックロワーには、BKラインに入っても十分相手に脅威を与える〝足〟を持っているからだ。

 

こんなハナシを土曜の秩父宮で話していると、ホストBL東京の菊池博広報担当が「ウチの大野均もWTBでプレーしましたから!」と笑ったが、笑い話の域を超えて、若かりし頃の本人とも話をしたのは同じチームのリーチマイケルだった。東海大から東芝入りした当時は、天性のスピードが光る攻撃タイプのバックローとして代表入りまで登り詰めた。その資質を何度も引き合いに出したが、本人も東海大時代から東芝入り当初は「CTBをやってみたい」と興味津々だったのを思い出す。

 

今や、体を張ったプレーで、防御を軸にBL東京、桜のジャージーでも「防御」での貢献が目を見張る存在だが、20代の時に、一度BKラインに投じたら、また異なる味わいを魅せたかも知れない。一歩引いて考えれば、もしBK転向を実施していたら、いまの成功まで行っていたかは「神のみぞ知る」ではあるが、試す価値はあったと今でも感じている。参考までにだが、この日の横浜戦で怪我による長期離脱から復帰した眞野泰地は、東海大仰星高時代のFLから東海大時代にSO/CTBに転向して、現在の成功を掴んでいる。

 

すこし脇道に逸れたが、このレスターのようなコードチェンジ選手が増え、試合の中でもコードチェンジが起きれば、それも従来なかったこの競技の楽しみの一つになる可能性も秘める。前半#7でプレーした選手が、後半はCTBに転じる――こんな変更があれば、現状以上にさらに観る側をピッチ上でのパフォーマンスで楽しませる可能性を秘めている。まぁ、現実的には選手には体重の増減、コーチとしては更に混迷さを増すベンチワークも負担増になるかも知れないが…。

 

クライストチャーチの〝こけらオープニングマッチ〟を、個人にスポットを当ててきたが、試合自体、開幕戦に相応しい熱量を持ったゲームだった。〝主役〟が勝者になったことも、このスタジアム誕生までの経緯を踏まえれば、まさに祝福されたシナリオになったが、それ以上に所謂「つまらないスコア・失点」が少ない試合として称賛されるべき80分だった。

 

このスコアシチュエーションで特筆するべきは敗者のほうだった。目を見張ったのは、35分の#11シド・ハーヴェイによるトライだ。このシーン、ミッドフィールドでの連続攻撃から#10 ジャック・デブラシー二のチップキックと表現していいキックパスを#14アンドリュー・ケラウェイが好捕。それを内サポートの〝何かを起こす男〟#15 マックス・ジョーゲンセンが繋いで、#13 ジョーイ・ウォルトンがゴールラインに迫る。そこから再びパスを受けたディプレシーニが蹴り上げたボックスキックを、左サイドで#11シドがキャッチと同時にグラウンディングしたもの。これだけ楕円球に触れた全員が、しっかりと仕事をして繋ぎ切った一撃も少ないなと唸らされたトライだった。ちなみに、このファイントライとプレースキッカーも担うハーヴェイは、若きジョーゲンセンよりも1歳下の20歳。ウォルトンも25歳。すでにオールブラックスでも実績を残すファインガアヌクもようやく26歳となったばかりだ。

 

この見事なトライを許したホストも負けていなかった。55分の#14ダラス・マクロードのトライは、ミッドフィールドでのターンオーバーから#10 タハ・ケマラが素早い判断で上げたクロスキックを#6ドミニク・ガードナーが受け、DF2人を引き付けるキラーパスで仕留めたもの。パスを受けてからの、ダラスの加速からのインステップも素晴らしかった。直前のファインガアヌクのラックサイドを突いたトライとのダブルパンチでゲームの流れを引き寄せた。

 

共に、歴史的なオープニングマッチに相応しい、プライドと技と英知をぶつけ合った80分。そして、この週は〝主役〟でもあったスタジアムも、太平洋を跨いだ映像で見る限りは好ゲームに負けない存在感を印象づけた。

 

座席数はラグビーゲームで2万5000。6万人を収容するオークランドの〝エデンの園〟には及ばないが、この国のGDPでは5万人クラスの巨大スタジアムよりも「身の丈」の席数だろう。こけら落としがナイトゲームとなったことで、ハーフタイムの〝クラブ活動〟等での利用価値も感じさせたが、通常の国内(国際)リーグや、オークランドに次ぐ2番手インターナショナルゲームのヴェニューとしてはまぁあぁのサイズだろう。バックスタンドの、1段高く設計された〝第2層〟がかなりの高さまで競り上がる構造は、同じ屋根付きスタジアムの先輩格フォーサイスバーの、ホスト側ゴール裏の広大な座席(通称ZOO)とは大きく異なる構造だが、より〝高額席〟を増やすには若干の手助けになるだろう。

 

そしてこけら落とし2日目のデーゲームでの、採光の高さも大きな持ち味だ。フォーサイスはじめカーディフの〝鋼鉄の城〟もだが、やはり「日照」には恵まれないのが、屋根付き、開閉式スタジアムの欠点でもあるが、この最新スタジアムは屋根の広大な透明部分と、フォーサイスから継承される、スタンドのないゴール裏の窓部分から取り入れる陽光が生かされている。残念ながら中継画像での確認のため、実際に現地で観戦すると映像ほどの明るさはないのかも知れないが、従来の器に比べればかなり太陽の恩恵を受けられそうだ。御託を並べる前に、早く現地観戦したい世界最新鋭スタジアムだ。

 

土日に北青山でゲームをしたBL東京の司令塔は、数週間後にはその〝住人〟になる最新鋭スタジアムについて、「スライストチャーチ出身としてすごく誇らしい。ああいうスタジアムが絶対に必要だと思っていたし、震災からの15年間を振り返っても、仮設スタジアムでやるとかくあったからね。ここから新たなチャプターが始まっていくのが楽しみだし、昨日も中継を見ていたが嬉しかった。勿論プレーするのは楽しみだよ」と、試合からは一変して少年のような笑顔で語った。

 

その一方で、ピッチ下の温度調節システムなどハイテクも導入した器の維持管理費は、従来のスタジアムよりかなりの額になるという報道もある。リッチーが語ったように、既に敬愛するFoo Fightersなど欧米のスタークラスのコンサート開催も聞く。初年度の年間イベント回数は400を超えるとも伝えられているが、複数年の長いスパンで考えた時に、オークランドの6万席級スタジアムがある中で、果たしてどこまでクライストチャーチの〝やや小ぶり〟の器に、興行を呼び込めるか。ここは、東京・港区で進められている、同じような全天候型多目的〝聖地〟の先例として興味深い。

 

但し、クライストチャーチと港区の新鋭スタジアムがそれぞれのコミュニティーで同じような存在かといえば、そうではない側面がかなりしっかりとあるだろう。向こうは、1地域のスポーツ・文化の核となる器だが、こちらはまさにラグビーコミュニティーの「聖地」であり「殿堂」なのだ。その威厳や存在感、全てのラグビーキッズが憧れる建造物になることは、一コミュニティーのランドマークとは桁違いのストーリーが伴わなければならないはずだ。

 

おっと、最新器とダブルコードの選手の話で、かなり書いてしまった。国内の「おさらい」は後編でとして、ここでハーフタイム。

 

 

 

鉄と魚とラグビーの町でのおはなしをアップした。

迷いつつの釜石行だったが、予想を上回る収穫の旅になった。

 

 

 

 

3月末に考えたのは、熊谷のセンバツをどうするか。

いま高校生たちの挑戦を書くなら「勝った負けた」じゃないというのが素直な思いだ。皆様大好きなテーマではあっても、30年も〝傍観者〟として楕円の世界を眺めていれば、この世代の子供たちのために、知恵を絞り、汗するべきテーマは明白のように思う。

 

競技人口をどう確保するか。そして1人でも多くのラグビーキッズを、試合でプレーさせるか――。

 

ここを担保していかなければ、この競技の未来はない。

 

「それじゃ、アンタ、そのために何をやってるんだ」

 

この質問には、お恥ずかしながら何も出来ていない。ただただ、見て、書くだけだ。

力不足に、すこしうらぶれた思いを抱えながら北上を決めた。

 

「大会のこと、お話しできますよ」

 

そんな言葉が旅を後押しした。東京からの電話で、いつも変わらない穏やかな口調で話しかけてくれたのは高橋善幸さん。

野上先生は「学校の仕事で4月1日しかおらんけど、夜だったら話せるよ」と時間を割いてくれた。

 

 

 

 

この2人を確保出来れば、後は試合の合間に東北内外のチームの監督、選手からは十分話を聞けるだろう。野上先生の電話を切って直ぐに、宿と足の手配も済ませた。

 

大会の概ねは電話でも聞いていたが、現場で直接ゼンコ―さん、野上先生、そして元釜石戦士の阿部先生、ブリらに話を聞いて、さらにこの交流会の他大会とは一線を画した価値と意義を感じさせられた。

 

高校キッズの夢を思えば、花園や選抜は大切な大会だが、このみちのくの交流会には、大人も子供も手を差し伸べ合う美しさがある。

 

 

 

 

野上先生や、國學院栃木の吉岡先生が語ったように、「思い出」を作らせることは、釜石に集まった〝ラグビーの未来〟たちにとって計り知れない財産になる。これは、先月紹介した明治大日本一監督も同じ価値観を語っていたが、これは単なる偶然ではない。

 

今回のコラムは、一本モノとしてはそこそこ長めになってしまったが、これでも切り詰める腐心はしながらの作業だった。聞く人全員がいい話をしていたから。それぞれの言葉から学びがある取材だった。交流会の価値、意義は、コラムに概ね書き込んだつもりでいる。

 

願わくは、この交流会がさらに関係者、いまは関係者ではない人たち、組織の関心と応援を得て、バージョンアップしていければと思う。反面、このマイペースと手作り感、そして〝中央〟の仕切りではないことも魅力ではあるが、現場で見る限り主催者側の負担はかなりのものとも感じている。ゼンコ―さんの話を聞く中でも、発起人のような位置にある強豪校の指導陣の負担を段階的に減らして、釜石、岩手、東北の関係者が主体的に開催・運営していく必要があるのだろうと感じている。

 

とはいえ、彼らも手弁当での奮闘だ。だからこそ、いま大会パンフレットで7ページに渡り載せられた素晴らしい〝パトロン〟の皆さんに加えて、全国の組織、個人からの理解と応援が「鉄と魚とラグビーの町」へ向けられるのを願うばかりだ。

 

 

 

 

〝本業〟はあらためてコラムで準備するが、絵日記エピローグは「東北復興高校ラグビー交流会」周辺の釜石でのあれこれを。

 

旅程としては大会初日の夜、つまり4月1日のみ釜石に宿を取り、大会第2日までで概ね話を聞こうと見通した。試合会場が鵜住居、根浜海岸、松倉と3箇所を跨ぐため、万が一最終日も聞くべき人物、チームが残っていれば延泊という魂胆だったが、初日でかなりの話を聞けたため、幸か不幸か釜石は予定通り1泊のみに。短期滞在のぶん、ゲーム外の絵日記も書くべきネタは限られてしまった。

 

その中で、4月2日目は釜石発のリアス線を1本早めて早目に鵜住居駅へ。駅前に設けられた「いのちをつなぐ未来館」等の震災・復興施設に立ち寄った。これらは2019年のワールドカップに合わせるように建てられたものだが、犠牲者一人ひとりの名を記した記念碑と、津波最高到達点高さまでを記したモニュメントが改めて自然の猛威を感じさせた。

 

モニュメントに記されたこのエリアでの津波の高さは11mにまで及んだ。実際にその高さが刻まれた石柱を見れば、周辺が信じ難い大波に飲み込まれたことをあらためて実感する。生憎の荒天ではあったが、今の長閑な空気が、逆に白日夢のようにも感じてしまうほどだ。

 

 

撮るのが下手で高さ感が伝わらないが、後

方の民家からも津波の巨大さが窺い知れる

 

 

「未来館」内部には、震災からここまでの出来事、地元の人たちやコミュニティー、そして政府の取り組みが時系列で描かれたボードや、様々な被災状況を写した写真が展示され、先日復興試合を行ったライナーズを始めこの地を訪問したチームのサインボールも置かれている。

 

 

 

 

 

 

「あの日」此処で何が起きたのか。展示物を見ながら、風化させてはいけないという思いと、この地を離れれば我々の日常では、その多くが風化しつつある現実も痛感する。楕円球も含めて、何か他にも出来ることはないか。ここは、少なくともこの地を訪れた者に突き付けられた宿題でもある。

 

 

 

 

あまり湿っぽいハナシばかりでも良くないので、釜石旅のシメのメㇱの話でも最後に。高校キッズの熱戦は続いていたものの、予定通り第2日までに聞くべき話を概ね聞き終えていた。2日目に予定していた監督の話を聞き、昼過ぎの震災〝語り部〟のおはなし、各チームから選出されたメンバーによる大盛り上がりのドリームマッチが続く中、リアス線に乗り込んだ。

 

 

リアス線は今では珍しい紙の切符!

 

 

丁度昼メシと宴の中間の時間。東京へ向かう主要駅に着いてからとも考えたが、出発を一本遅らせて釜石駅周辺での遅めのランチと決め込んだ。流石に市の中心地までは雨、時間、適度な旅の疲労感で回避したが、ランチタイムも過ぎていたために駅前では飲食は限定されていた。

 

駅に隣接する海産物、飲食の店が入ったお馴染みの〝モール〟に寄って、以前もお邪魔した記憶のある「なにわ屋」へ。ここは店の雰囲気が独特(是非訪問を!)なのだが、どうやら女将さんは、こちらが狙っていた「ホタテ丼」のよりも「海鮮丼」が推しの様子。通常なら、そんな推しを敢えて無視するタイプの人間だが、ランチタイムはとうに過ぎていた時間帯から①ランチに用意したネタを使い切りたいので「海鮮」推しなのか②ホタテは何かワケありの理由でイマイチなのか…そんな憶測の末に、素直に「きっとネタ的には海鮮なのだろう」と、女将さんの暗黙の圧に屈してしまった。

 

 

席に着くと温かいお茶と冷たいお茶が出て来る。雪国の素敵な心遣い💕

 

 

結論から書くと「思わぬ大正解」だった。マグロとサーモン中心のネタは、ここ三陸沿岸の基準では上等とはいえなかったが、〝思わぬ〟は付け合わせの秋刀魚のつみれ汁と、丼物のシメにと提供された出汁茶漬け用のダシだった。結果的に、ホタテ丼でもこも2品は付いてきたのかも知れないが、この際はどうでもいい。秋刀魚のつみれは旬ではないものの、この魚特有の香りが口内にぱっと広がる。秋刀魚、鰯系に〝青物〟に目がない人間にはたまらん逸品だった。

 

 

 

 

そしてダシ。出された時の女将のサラッとした言い様から、「ご飯余ったらどうぞ」くらいのものだと勝手に軽んじていた。そのため、二、三口ほど残った丼の米を、無理無理茶漬けにしたのだが、この出汁が絶品だった。魚系でとった出汁ではあるが、一口めで「む!」となったのは、なんともいい塩梅で感じられる海老の風味だ。諄いほどでもなく、魚と薄口醤油の風味の中に、上手く海老の香りが漂うのがいい。おそらくは、そこまで高価なものではないかも知れない。昨今、南米から安価に入って来る赤海老あたりのアタマか殻から取ったものかといった印象だが、大量に残った出汁も、残さず飲み切った。

 

この定食。ラインアップを紹介すると

①     海鮮丼

②     出汁

③     つみれ汁

④     青菜の天ぷら(一品)

⑤     モヤシのナムル

⑥     漬物三品

 

遅いランチで、そこそこ空腹感はあったものの、オッサンにしてはラグビーあるあるで平均以上には〝大食い〟の小生でも、かなりの、否相当の満腹感があった。このラインアップで〆て¥980。もちろん釜石物価を考えると東京での¥980よりは高価なのだが、それにしてもコスパは良すぎるだろう。勿論、お支払いの時もその旨女将にもお伝えしておいた。因みに⑥の内の一品だったお香香も絶品だった。手作りなのか、どこかからの買い付けかは聞き忘れたが、見た目は手作り感漂うものに、千枚漬に近い風味がいい。ここ数年口にした漬物の中では群を抜いていた。

 

 

 

 

女将さんとの遣り取りも終えて店を出ると、そろそろ一本遅らせた釜石線の出発時間も近づいていた。相変わらずの釜石駅のラグビーネコ軍団も元気だ! お腹の張り具合もあるので、テイクアウェーのコーヒーを買い込んで釜石線に飛び乗った。

 

 

 

 

仕事柄「時制」というのは結構気にしている。

時制という言葉がすこしあやふやなら「書くタイミング」。

この記事なら、どのタイミングが…。

 

職業病のようなもので、今の自由人という身分なら、そこまで束縛されずに書いてもいいという心の中の囁きも聞こえてくるが、20年以上そんなものに縛られてきた身としては、条件反射的に、「いつ書くのか」を気にしてしまう。

 

で、今回は3月31日でその肩書きを放棄した男のおはなしだ。

 

 

 

 

 

あまりキャッチ―ではないが、強いて表題をつければ、こんなところだろうか。

 

「神鳥裕之の仕事」

 

既に新年度。本来なら、3月上旬に就任会見を開いた新監督で書くべきだろう。タクトは後任者に手渡され、新チームも動き始めている。それでも、明治大学監督・神鳥裕之については、しっかりとその5年間の仕事を書き残しておきたかった。

 

現役時代、砧、八幡山での監督時代。この男を一言で表現するならこうなる。

 

「いい人」

 

紫紺の名選手に漂ういい意味での「太々しさ」が、このエリートにはない。

八幡山の住民だった時代。何か日々のネタに困ったら、八幡山に足を向けた。

 

「すみませ~ん」

 

目的が学業か、治療か、はたまた小さな銀色の金属球を使った〝球技〟かは不明だが、シーンと静まり返った玄関で声を掛けると、数十秒の沈黙の後に、のそのそと巨体を揺らして出てくるのは十中八九、この男だった。

 

困った時は神鳥さん——いつだか、そんな話を本人にすると、「いやぁ、あまり外で歩くのも好きじゃないし、ここでのんびりするのがいいですね」と苦笑いまじりに話していた。

 

そんな男が八幡山に指揮官として戻ってくる。環八沿いの世田谷区から遠く離れた駿河台での就任会見で、話を聞きながら、こんな意地悪な声が頭の中で聞こえてきた。

 

「勝つには、すこしいい人過ぎる…か…も」

 

歴代の、とりわけ日本固有の楕円文化と言ってもいい大学ラグビーの大成功した指導者を眺めても、「いい人」だけではないと感じている。では悪人か。むしろ、勝利のための貪欲さ、旺盛さ、そして強かさ。そんなものを臭い立たせる勝負師を何人も取材してきた。

 

では、神鳥監督には、そんな勝負師の資質が無かったのか。適切な表現を選ぶとしたら、神鳥監督の5年間の仕事は「勝利への最短距離を選ばない」やり方で、最後にピナクルに立ったというものだった。

 

日本代表キャップを持つような成功者ではない。だが、泣く子も黙る大工大高で、2年生で東西対抗に出場して、泣く子も逃げ出す?明治大学で、このチームのエースナンバー「8」を背負った足跡は、間違いなく日本ラグビーのエリートだ。そんなエリートにも関わらず、高級なブーツやローファーではなくビーチサンダルを履くような男だ。ビーサンだから、まだまだハイトルクの四駆にはまだ成長しきれてない子供たちが、前へ進むのが難しいでこぼこ道、砂利道の困難さも、その足の裏に感じ取ることが出来る。

 

そして動き出した神鳥メイジ。年度別の成績は以下のものだった。

 

 

・1年目 対抗戦:5勝2敗③(●帝W) 大学選手権:準優勝●12-27帝京

・2年目 対抗戦:6勝1敗②(●帝)  大学選手権:ベスト8●21-27早稲田

・3年目 対抗戦:6勝1敗②(●帝)  大学選手権:準優勝●15-34帝京

・4年目 対抗戦:5勝2敗③(●帝W) 大学選手権:ベスト4●26-34帝京

・5年目 対抗戦:6勝1敗①(●筑)  大学選手権:優勝〇22-10早稲田

 

 

活字で書けばあっけないものだが、その5年に及ぶ「仕事」は、まさにコラムに書き残してある。

 

すこし意地悪に書けば、神鳥体制になった段階で、戦力はどのチームも羨むレベルに達していた。いつ勝っても不思議じゃない。だが、就任から4シーズンは覇権に手を掛けながら掴み切れずにきた。そこには、4年間やられ続けてきた帝京、そして勝ち負けを繰り返してきた早稲田という好敵手の存在があった。明治ほど戦力を充実させていても、相当に完成度を高めなければ、そしていい巡り合わせがなければ、容易には頂点には立てなかった。神鳥体制以前からではあるが、明治はほぼこのライバル2校への黒星だけでシーズンを重ねてきたのは、いろいろと考えさせられる現実でもある。大袈裟にいえば、大学の覇権はこの3校とせいぜい関西勢のシーズンベストチームが回してきたことになる。

 

そんな思い描いたものを掴めないシーズンが続いてきたことも踏まえて、最終シーズンの日本一は、観る側も安堵感のあるエンディングだった。前年までの4年間と同じように、ライバルいずれかに足元を掬われてもおかしくはなかったが、筑波に黒星を喫しながらもなんとか頂きに登り詰めた。そこには、コラムでも触れた、帝京大戦のPKからの「FW勝負」が大きかったと感じている。時代は変わり、BKに綺羅星のごとく好素材が並び、15人全員のナレッジも高い、そして物分かりが良すぎるほどの優等生ばかりの〝紫紺〟だが、自分たちのアイデンティティ―は持ち続けた。

 

そこに、おそらく賢い説明は必要ない。なぜFW戦に拘ったのか。答えは「メイジだから」。これは、いわゆる伝統校の特権でもある。1世紀という単位で継承されてきた先人たちの轍があるから、いまの自分たちがある。有無を言わさず、理屈も屁理屈もなく「・・だから」と言い切れるのは彼らだけだし、神鳥メイジ5シーズン目、平翔太主将を中心としたチームは、それを貫き、見事に頂点を極めた。

 

バトンは次の世代に託された。丹羽政彦が、田中澄憲が果たしたように、神鳥裕之も任期の中でしっかりと、繋ぐ者を探し、任命した。高野彬夫。前任者に輪を二重、三重にかけるほどの真面目な男だ。天理仕込みのスキルフルなプレーとタックルで、まだまだ完全復活へと喘ぐチームを、腐心しながら引っ張り続けた闘将でもある。もう少しイージーで、時にはチートしてもいいほどだが、それはそれで前監督にはない味わいでもある。

 

就任会見の後に、本人に〝お断わり〟をしておいた。

 

「本来は新監督のことを書くべきタイミングで申し訳ない。でも、こちらの段取りの悪さもあって、先ずは神鳥監督の5年間を書き残したい。実際に監督として動き出してから、思うところを聞かせてほしい」

 

さぁ、次は新監督インタビューだ。

 

部屋からも、雄大な大船渡港から太平洋へのパノラマが。湾の中のドット状が牡蛎棚だ

 

 

①の続きからにはなるが、釜石入り前に一泊したのは大船渡温泉。あのLAで剛速球を投げる男の故郷だ。宿は、市内中心地から数キロ離れた太平洋岸に立つ。泉質はそこまで有難い印象ではなかったが、微かに漂う硫黄臭(かな?)は悪くない。何よりすんばらしいのは、その眺望だ。

 

 

部屋からの眺望👍これで「栄一」の半人分プラス程度の料金だからね

 

 

温泉は洗い場がおそらく20程。2つの内湯と、4、5人ほどのこじんまりだが1つの露天がある。間取りが広く取られているので、開放感もかなりの高評価。風呂場、内外の湯舟からは、内海を形作る大船渡港の向こうに太平洋が横たわる眺望が楽しめる。残念ながら3月31日は雨、4月1日もパーフェクトな曇天のため、宿自慢の太平洋から登る朝日は拝めなかったが、朝方の露天で放心しながら、夜中の雨のおかげもあっての濃厚なガスが、対岸の山肌を刻々と昇っていく光景も味わいがある。

 

 

 

 

 

ちなみに、昨今、安全面(経費)などの理由で深夜・未明時間帯で入浴出来ない宿もあるが、ここはほぼ24時間浸かれる。18時(たしか)までは宿泊客以外も日帰り入浴が可能なようだが、この日は夜、深夜、早朝と、ほぼ湯舟を独り占め出来た。

 

 

風呂場の前にある休み処も壮大な眺めが満喫できる

 

 

大船渡港は、この地域特有のリアス式の地形のため、宿の目の前の堤防から陸へと内海が続き、その最奥に中心街がある。町に隣接するように湾岸沿いには巨大な工場(おそらく太平洋セメント)が聳えるため一見工業地帯のような印象もあるが、写真でも見えるように牡蛎棚が広がる。太平洋の海原から流れ込む潮と、リアスの切り立った山々から注がれるミネラルたっぷりの真水が、まるでお母さんの胎内のようにカキたちを育む。生来の卑しさもあり、海面に並ぶ棚を見るだけで口内に涎が沸き上がる。

 

 

町のスーパーにも英雄の幟が

 

 

この地域を襲った15年前の自然の〝圧倒的な〟威力を思うと心が重くなる。区画整備された街並みが、さらに痛ましさを増幅させるが、その一方で、大波に呑まれた湾岸の低地はかなり生活が根付き始めてもいる。仙台-気仙沼をバス移動にした目論見の一つは、どこまで復興が進み、進んでないのかを確認したかったから。バス移動という中では、その断片的な情報しか知り得ないので、正しいのかは不確かではあるが、気仙沼、大船渡という産業もなんとか存続する大きな町では前向きな印象もある一方で、陸前高田などでは未だに広漠とした野ざらしの平地が城壁のような巨大堤防の前に続く光景は、復興の難しさを感じさせた。

 

 

①で紹介した気仙沼の港近くも生活の息吹は感じられた

 

すこしずつではあるが復興へと進む大船渡の中心地。ありがたいのは、地

の未来を育むことは忘れていないところ。豊かなハートを育てる場所だ

 

 

大船渡を前泊地に選んだ理由の一つは、乗り換えなしに「釜石」ではなく鵜住居に行けたこと。4月1日も、大会のキックオフへ余裕を持ってスタジアムへ着ける10時3分に、大船渡市内の始点「盛」から乗り込んだ。

 

余談だが、盛と書いて「さかり」と読む。この言葉、「宴も真っ盛り」とも使われるが、妄想癖の人間には「だいぶお盛ん」という言葉が脳内に浮かび上がる。多少ムラムラとした思いの中で、電車は鵜住居へ向けて走り出した。

 

この宮古行きの列車。仕組んだ訳じゃないのだが、いわゆる観光列車で、随分とクラシカルな内外装の代物だった。一両電車だったが、すべてが4人が座れるボックスシート。大き目のテーブル付きのために、この絵日記も三陸海岸をコトコト揺られながらだいぶ書き進めることが出来た。

 

 

 

 

スピーカーもゴージャスだが、そこに金かけるか…

 

 

それにしてもだ。リアス線の窓越しにも、山間にみえる海に面した小さな村落が、震災後そのまま復興、再開発が進まず、まるで打ち捨てられるように、荒れ果てたまま残されている光景を何度も見えた。政府サイドの復興期機関が最近も撤収するとも聞いたが、現場の復興具合を考えると、個人的には随分と薄情なもんだなと感じられる。

 

 

 

 

そんな暗澹たる思いも抱きながらリアスの海岸線を走ること1時間あまり。ようやく見慣れた、濛々と白煙を棚引かせる工場群が見えてきた。旧新日鉄、いまは日本製鉄と名を変えた釜石製鉄所が変わらぬ佇まいで鎮座する。いよいよ釜石。ここから〝本業〟がスタートだ。