6月6日、中山道近江八宿の守山宿から草津宿までを歩いてきた。「京発ち守山泊り(西から江戸へ向う人々の最初の宿泊地)」といわれ、京都から31kmの守山宿は朝鮮通信使など公式の旅の宿となった。また女性の一泊目の宿として利用された。
宿場内には、中山道に面して東門院(天台宗)が建てられており、延暦7年(788)に最澄が比叡山を創建する際に東西南北の四境に門を構えたとされ、その東の門にあたるのがこの地であると伝えられており、「守山」の地名の元となった。また、東門院はじめ、古井戸、源内塚など東山道時代からの歴史が随所に匂う宿である。
現在の町並みには、旅籠など宿場町を偲ばせる町家は見られないが、重厚な造りの商家の建物が多数点在している。写真は中でも一際目を引く、入母屋屋根に黒漆喰塗りの重厚な佇まいの造り酒屋「宇野本家」の主屋で、煙出しの越屋根、虫籠窓、格子などを備えた見事なものである。

守山宿は、寛永19年(1642)に徳川幕府によって中山道の正式の宿駅と定められ、旧守山村を本宿として町続きの旧吉身村と旧今宿村を加えて誕生した。江戸日本橋から数えて67番目の宿で、本陣2軒、脇本陣1軒、問屋3軒、旅籠30軒、家数415軒と大規模な宿場であったことがうかがえる。
守山宿から草津宿までの経路と主な遺構など。
西横関の旧道から竜王町の国道に合流し、西横関交差点右手前の角に「是よりいせみち」側面に「ミなくち道」と彫られた道標が置かれている。この先に善光寺川が流れているが当時はここから善光寺川に沿って水口(みなぐち)や伊勢に向かう人々が利用したのだろう。
鏡口集落の旧道は国道8号に吸収されてしまっているが、右手一角に石仏(道祖神?)が集められ、地元の人たちによって丁寧に祀られている。長野県に多い双体道祖神と紹介されることがあるが、道祖神ではなく双体地蔵である。さらに西150mの真照寺境内にも写真左下、右下の双体地蔵がある。
旧鏡村には、中山道以前の東山道時代の宿駅があった。中山道では宿が武佐に移ったため、鏡の宿は立場となった。平安時代の承安4年(1174)に鞍馬寺を脱出した牛若丸(源義経)は、東山道時代の鏡宿に入り宿泊したという館跡碑がある。鏡景勝会建立の案内碑文によると、沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた。牛若丸はこの白木屋に投宿した。義経元服の際使用した盥(たらい)は代々秘蔵して居たが、現在では鏡神社宮司林氏が保存している。西隣は所謂本陣で、元祖を林惣右衛門則之と称し、新羅三郎義光の後裔である。その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である。
鏡宿は、武佐宿と守山宿との間が13里半と長かったため、間の宿として賑わった。鏡宿は標識や説明板のみが立っていて、往時の遺構は残っていない。説明版には何れにも「江戸時代鏡の宿(中山道)」とあり、本陣跡元祖林惣右衛門則之也、旅籠吉田屋跡、旅籠枡屋跡、旅籠加賀屋跡、脇本陣跡白井弥惣兵衛、明治7年(1874)に開設の鏡郵便取扱所跡などが確認できた。
鏡宿本陣跡から5分足らずの所に鏡神社がある。本殿は石段を登った上にあるが、街道入口から一段上がった左に、義経が烏帽子を掛けたと云われる松の幹が残っている。説明版によると「承安4年3月3日鏡の宿で元服した牛若丸は、この松の枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した。」なお、烏帽子掛け松は明治6年(1873)の台風で折損したが、幹がまだ残る。滋賀県教育委員会の案内板によると、現在の本殿は室町中期に建てられたもので、滋賀県の遺構に多い前室付三間社本殿は、蟇股を多用し屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。重要文化財。
鏡神社を出てしばらく行くと、国道8号線北側の道路脇にひっそりと「源義経元服の池」があり碑が置かれている。牛若丸は鞍馬山から陸奥国平泉へ向かう東下り一泊目の鏡の宿で、池の水を汲み、前髪を落とし、元結の侍姿を池の水に映し元服をしたと伝えられている。写真左上の静かな旧道を行くとすぐに野洲市に入り、史蹟西光寺跡がある。
史蹟西光寺跡。最澄が建立し、源頼朝や足利尊氏が泊まった大寺であったが、織田信長の兵火で廃寺となった。2.8mの石灯籠、2.1mの宝篋印塔(ともに国重文)、等身大の石造仁王像が残されている。
平宗盛は源平合戦敗軍の将として鎌倉で源頼朝に会った後、京都にあと一日の地で処刑された。平家終焉の地は旧道左手の案内幟旗から小山の際の道を100mほど入った所に、自然石に刻まれた石仏像、石碑、五輪の塔がそれぞれ一基ひっそりと並んでいた。この平家終焉の地からしばらく旧道を行くと、「首洗い池」または「蛙鳴かずの池」と呼ばれる池がある。この池で平家最後の総大将平宗盛・清宗父子の首を洗ったといわれ首洗い池、また、あまりにも哀れで蛙が鳴かなくなった事から蛙鳴かずの池とも呼ばれていた。野洲町観光協会の案内板によると、「平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲町である。平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと2年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに敗れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都に向った。途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。父清盛が全盛の時、この地のために掘った衹王井川がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野洲町が日本中のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。」
江戸日本橋より126里目の大篠原一里塚跡。国道8号線大篠原北交差点を過ぎ成橋で光善寺川を渡ると、その先は緩やかな下り坂となる。国道右手の土手下に自治会が立てた一里塚跡の標識がある。
旧道を進むと、左手に「大篠原神社」の神社道標が立つ。本殿(国宝)は三間社入母屋造りで、銀閣寺とともに東山文化の代表的建築である。境内社の篠原神社(国重文)は餅の宮と呼ばれ、篠原は鏡餅発祥の地とされている。
篠原堤(西池)を過ぎ、国道から旧道に入ると中山道の面影を残す静かな町並みが続く。家棟川を渡る手前のポケットパークに金毘羅大権現常夜燈(寛政6年[1794]建立)、火伏せの愛宕山大神、常夜燈の石碑が立っている。なお、家棟川は砂礫が堆積して川底が周辺より高くなった天井川で、堤防を築くことにより川底は益々高くなる。滋賀県には天井川が全国の1/3、80河川もある。家棟川の橋を渡り先へ行くと右手に、子安地蔵を祀る子安地蔵堂がある。地蔵堂左側の中央の地蔵像を囲んで、恐らく近隣から集まったものであろう、沢山の道祖神、石仏、墓石などが山をなしている。昔の名も知らぬ民衆のパワーをみる思いがする。野洲町観光協会の案内板によると、往時、この地方は比叡山三千坊に数えられた数多くの巨刹があり、その中に天台系嘉祥寺に安置され、元亀(1570~1573)の兵火をまぬがれたのがこの地蔵菩薩像である。極彩色等身大にして蓮台に腰をかけ、左手を垂下し、右足を曲げて左膝に置き、左手に薬玉を、右手に錫杖を持ち、材は桧と思われる。眉間に水晶製白毫をはめ、目は彫眼で表し、丸顔でふくよかな顔つきや丸みのある体躯、彫りの浅い衣文など平安時代末期(12世紀)の造像と考えられる。秘仏となっているが安産祈願の子安地蔵として近隣の信仰篤く、毎年1月、8月の縁日には開扉される。
旧道を進むと史跡公園のある丘陵が南側に伸びていて、中山道は丘陵の縁をなぞるように直進する。北側は東海道新幹線が迫っている。暫く史跡公園と新幹線に挟まれて行くと、桜生(さくらばさま)史跡公園案内所がある。ここで桜生史跡公園の史料を頂き、約2km南の銅鐸出土地跡を見学してくる。野洲町といえば三上山(近江富士)と銅鐸の町である。案内によると銅鐸博物館が桜生史跡公園の向うにあるらしいが、今日は足が延ばせない。中山道沿いには、6世紀中頃の円墳の一つ甲山古墳(直径約30m、高さ8m)があるので見学する。
小篠原集落を過ぎ新幹線高架下を抜けると野洲市街に入る。その先に藁葺き屋根を残した造り酒屋があり、ここから西200mにかつての一里塚があったと言われているが、名残はなくなっている。日本橋から数えて127里目の野洲一里塚であるが、石碑や標柱、説明版の類はない。その先大通りと交差する五差路に出ると右角の野洲小学校の前に「中山道野洲」と記された常夜燈のモニュメントが立っている。傍らに「中山道・外和木の標」がある。野洲町の案内板によると、「中山道は、東海道に対し東山道、あるいは中仙道と呼ばれた時期がありましたが、その歴史は古く、大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されています。ところが、新しい道路に役目を取って代られ、中仙道が千数百年もの長期にわたって果たしてきた大切な役割を知る人は年々少なくなっています。この案内板の西、約180mの所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点に当たり、歴史的に意義深い場所であり、将来に永くこの意味を伝え、この道がいつまでも町民に広く親しまれ愛されることを目指して修景整備事業を実施しました。外和木の標の名前は、この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であるので名付けたものです。」と記されている。
衹王は近江国衹王村の出身で、妹の衹女と共に京都で白拍子となり、平清盛の寵愛を受けた。故郷の村人のため、野洲川からの用水開削を頼んだ川は、衹王井川として現存する。清盛の関心が仏御前に移ったため、京都嵯峨野の衹王寺で仏門に入る。出身地には衹王・衹女姉妹とその母と仏御前の菩提を弔うために建てられた妓王寺がある。野洲小学校裏には衹王・衹女が舞いを舞っている王朝風のオブジェがある。野洲小学校脇を斜めに進んだ先の三叉路左側に朝鮮人街道分岐点の標識がある。中山道から岐れて右へ行く道は中山道の脇街道で、江戸時代に朝鮮通信使が江戸へ向かう際に通った「八まん道」でもある。この分岐点から琵琶湖沿いを近江八幡・安土を経由し彦根道を通って約41km先の鳥居本で再び中山道に合流する。室町時代から江戸時代にかけて、李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団・朝鮮通信使一行は、この朝鮮人街道を計10回通ったという。中山道を通るより2.5km長い。日本を少しでも広く見せた説もあるが、商人町近江八幡と城下町彦根を見せるのが主目的であったという。本像寺は朝鮮通信使が宿泊したとき、警護や接待役、亀山藩主の本陣として使用された寺である。
朝鮮人街道分岐標識を直進、左カーブした先の交差点左角に「行合ふれあい広場」という小公園があり、その公園に立派な入母屋の屋根がかけられた下に「背競べ地蔵」が祀られている。鎌倉時代の像高130㎝の阿弥陀如来と室町時代の像高70㎝の地蔵か並ぶ。子供の成長とともに、東山道や中山道の旅人の安全を見守ってきた。案内碑文によると、鎌倉時代のもので、東山道(のちの中山道)を旅行く人の道中を守った地蔵である。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。毎年7月24日は、農機具、陶器、電気器具などで作った作り物を展示する地蔵まつりが開催される。(野洲市指定文化財)。
中山道沿いの野洲川のほとりに、百足山十輪院の御堂と常夜燈がある。現在お堂の横にある灯籠(天明5年[1785])は、以前は野洲川の畔にあり、かつて、夜に川を渡る旅人が迷わぬように毎晩灯籠に灯を灯していたという。境内には野洲晒を詠んだ芭蕉句碑「野洲川や身ハ安からぬさらしうす」が建つ。野洲晒は、麻布を白くさらす「布晒」を専門に行っていた。その一工程に川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。冬に冷たい川に入って布をつくのは、晒の仕事のなかで最も重労働であり、その苦労がしのばれる。野洲には江戸中期に130軒の晒屋があったが、昭和初期に姿を消したという。琵琶湖へ流入する最長の野洲川を渡ると守山市で、守山宿の中心部に入っていく。
守山宿の中心部に入り、吉身西交差点を渡ると小児科医院の脇に石部道々標とその説明板が立っており、「すぐいしべ道高野郷新善光寺道」と彫られている。真っすぐは浮気(ふけ)から新善光寺を経て、東海道の石部宿へ向かう道を示す。守山市教育委員会の案内板によると、この道標は守山宿の北端から枝分かれして栗太郡葉山村や東海道に向かう人々を案内したものである。文字は一面に「すぐいしべみち」、他面に「高野郷新善光寺道」と刻まれているが、この場所に建てられた年代は残念ながら明らかではない。
平治の乱(平安時代末期の平治元年[1159]に発生した政変)に敗れ、東国へ敗走する途中の源頼朝を、守山宿で源内兵衛真弘(さねひろ)らが襲いかかったが、逆に討たれたという。薬師堂にある石仏が首塚とされる。
歴代4位の短命内閣であった宇野宗佑第75代首相の生家を宇野家から譲り受けた守山市が、平成24年1月に中山道守山宿の拠点としてオープンした。現在は「守山宿 町屋 うの家」という名で博物館や多目的施設として公開しており、カフェやレストランも併設され土産も売っている。宇野家は、江戸時代に守山宿で「町年寄」という役職を務めるかたわら、宿場に馬や人足を提供する事を家業としてきたが、明治時代初期に酒造業に転向した。左手には宇野本家酒造跡があり、もとは造り酒屋であったため、大正3年(1914)に建てられた米倉(東倉)や酒の瓶詰め倉(南倉)なども見学できる。
2軒あった本陣のうち、小宮山本陣跡に井戸が残り碑が建つ。謡曲「望月」の仇討の舞台旅籠甲屋があったと伝わり、大正時代に建てられた「甲屋之址」碑を「本陣跡推定地」碑に変更する。なお、この場所は推定される場所で江戸時代には問屋・脇本陣・本陣などの役割を果たした。左横にあるのは守山宿に複数あったとされる井戸で、現存しているのはこの一基だけという。
守山宿の町並みの古い建物。左は山口屋衣料品店の宿場らしい趣のある看板、右上は間口の広い旧和蝋燭屋で、中山道街道文化交流館として公開。守山宿に関する情報展示や喫茶コーナーなどがあり、市民や旅人のふれあいの場として利用されている。右下は旧旅籠堅田屋で当時の面影を残し、現在はお食事処「門前茶屋かたたや」として石臼挽き自家製麺十割そば店を営業中。
東門院は、延暦寺四門の一つ東門に当たる。比叡山を守る寺から守山の地名の由来となった寺である。江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所になるほどの大きな寺だったが、昭和61年(1986)の火災で本堂や文化財の多くを失った。しかし、護摩堂の不動明王坐像(国重文)、境内に石造五重塔(国重文)、石造宝塔が残る。中山道に面した東門院仁王門を潜って境内に入ると、重要文化財の東門院五重塔がある。五重塔といっても石造の塔で、風化で角が取れ経てきた700年間の時代を感じさせる。左手に宝塔、右手に宝篋印塔を従え、いずれも同時代の石造物で国重要美術品指定である。
まもなく旧守山村と旧今宿村の境を流れる吉川に架かる土橋を渡る。中山道守山宿の西の入口で、広重の「木曽海道六拾九次の内守山」はこの橋から眺めた宿場風景が描かれている。寛文年間(1661~73)には中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材で架け替えられた公儀御普請橋という記録が残っていて興味深い。橋の幅は2間(3.6m)、長さは20間(36m)、現在、川は狭くなり5mのコンクリート橋に変わるが、名前は今も土橋である。写真右上は土橋右側付近の川沿いを眺めたもの。
広重画/木曾海道六拾九次之内守山。川に沿って宿場の家並みが片側だけにあり、左右の山に桜が満開である。宿を流れるのは吉川であり、宿内を描くため片側街とするなど脚色が多く、現実の風景ではなく意図的に描いたものといわれる。馬に乗る武士や駕篭かき、天秤棒を担ぐ人など街道を行く人々が描かれているが、旅人は一人を除いて京都方面に向かい街道の終点が意識される。
今宿に入ると左手に日本橋から数えて128里目の今宿一里塚の南塚が残っている。昭和中期に枯れた榎から脇芽が大きく成長し、古い根幹も名残を留める。南塚しか残っていないが滋賀県下の中山道で唯一現存する貴重な史跡である。その先左側に住蓮房母公墓の標石がある。法然、親鸞の浄土教が発展していくなかで、旧勢力から弾圧がなされた「承元の法難(1207)]に関係した住蓮房が近江八幡で打ち首になったとの報を聞いた母が、悲しんでこの地の池に身を投じて亡くなったという。焔魔堂町の信号を過ぎると右手に閻魔堂(五道山十王寺)がある。小野篁(たかむら)開基と伝わっている寺で、焔魔堂町の名前の由来になっている。しかし何故か地名は「焔魔」という文字が使われている。門前に「閻魔法王小野篁御作」と刻まれた石柱があり、旅人は懺悔しながら前を通ったという。
閻魔堂の向い側に、「従是南淀領」と刻まれた淀領領界石が立っていたが、諏訪神社境内に移されたという。この先は三叉路になり、右手に「右中山道并美濃路」「左錦織寺四十五丁こ乃者満ミち」と刻まれた道標(延享元年[1744]建立、この頃に建てられた石造道標は少なく貴重な資料で市文化財)がある。この道標右手の角には説明板があり、次のように記されている。「右中山道并美濃路(なかせんどうならびにみのじ)」「左錦織寺(きんしょくじ)四十五丁こ乃者満(のはま)みち」。つまり、この道標の右側へ進めば、当時美濃路とも呼ばれていた中山道へ行き、左側へ進めば、野洲の錦織寺(錦織寺までの距離は4.9km)や琵琶湖岸の木浜(このはま)へ行くことができる。「左錦織寺四十五丁」の道標はこれより北へ5kmほど行った中主町木部にある浄土真宗木辺派の本山である。親鸞により阿弥陀如来が安置され、四条天皇から錦織寺の寺号を賜ったという。
暫く住宅街を進むと栗東市に入る。栗東市綣(珍しい地名綣=へそについては後述する)という変わった名前の集落に入る。地区に入ると「大宝」の名前があちこちに出てきた。左手に大宝公園があるが大宝神社の境内である。大宝神社はその名のとおり大宝(701~4)年間の創建と伝わり、12世紀後期作とされる木造狛犬一対、鎌倉時代建築とされる境内社追来(おうき)神社本殿が国指定重要文化財となっている。四脚門の築地塀に、門跡寺院と同じ格式を示す5本の白線が入るのは、江戸中期の皇女が寄進したことを示す。社叢がまるごと大宝公園となっている大きな神社で、少し先の公園内に芭蕉の句碑があった。「へそむらのまだ麦青し春のくれ はせを」。綣行政区の碑文によると、「この句碑は、栗太郡内唯一の芭蕉の句碑です。元禄3年(1690)頃、関東、北陸方面に旅した帰りに「へそ」村の立場に足をとどめ、旅の余韻と惜春の情を托して詠まれた句と云われています。「へそむらのまだ麦青し春のくれ はせを」、句意は「ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここへそ村あたりの麦はまだ青い。種蒔きがおくれたのか、寒かったのだろうか。もうまもなく春も暮れようとしているの・・というものです。芭蕉の句碑は滋賀県内に93本を数えますが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて今後の研究課題の一つとされています。平成12年3月(西暦2000)。
この辺りは昔のへそ村で、現在の栗東市綣である。糸偏に巻、意味はつむいだ糸をつないで、環状に幾重にも巻いたもので、決して人体の臍や日本のへそ(中心)?ではない。しかし元の意味が死語になってしまうと、お腹の臍の意味が前面へ出てきてしまう。そんな綣にゆかりの全国の町が集まって、「全国へそのまちサミット大会」を開催したりするという。大宝神社北西の道を挟んだところに、大寶山佛眼寺の地蔵堂がある。大雨で河川が氾濫し、上流から流れてきた一体の地蔵尊を拾い上げ、「冷たい水に漬かって、さぞかし寒かっただろう」 と頭から綿をかぶせて祀り、「綿被り地蔵」の名がついたと伝わるが、綿は水を吸って地蔵を傷めるということで今はかぶっていない。佛眼寺地蔵堂を後に百々川橋を渡る。左手のJR栗東駅西口の信号を越えた辺りからはこれといって見るものもない。その先左手の八幡宮鳥居の脇を通りすぎると、草津市に入る。いよいよ中山道の終点、草津宿である。
































































