6月5日、中山道近江八宿の武佐宿から守山宿までを歩いてきた。武佐宿の西方に近江商人で有名な近江八幡があり、武佐とはお互いに関係があって、商人や物資の往来が活発で、武佐は市が立つほどであった。また武佐は鈴鹿山系八風峠を越え伊勢に至る八風街道の追分けもあり、塩・海産物、紙・布など物資の往来で賑わった。写真は下川家(下川七左衛門家が務めた)本陣の跡で、当時の門と土蔵、石燈籠が残っている。
武佐宿は京都から46km、健脚の旅人の一泊目の宿として利用された。万葉の里蒲生野・楽市発祥の地石寺(いしでら)・信長の安土城も近く、歴史が漂う。本陣門・陣屋・問屋・宿役人宅などが残り、小学生が作った標識を各家に掲示し、中学生が描いた像の通った道の絵も目に入る。
武佐宿から守山宿までの経路と主な遺構など。
武佐宿の西生来(にしょうらい)に入ると、この歓迎看板が迎えてくれる。西生来地区には泡子地蔵碑、江戸日本橋から数えて124番目の一里塚である「西生来一里塚跡」の標柱がある。一里塚跡は西福寺西200m付近とされ、平成24年に篤志家により碑が立てられた。
泡子地蔵碑から、西70mの西福寺地蔵堂に泡子延命地蔵が納まる。案内板によると「昔、この地の茶屋に立ち寄った若い僧を、茶店の娘がたいそう気に入り、恋しく思った。娘は立ち去った僧の残りの茶を飲んだところ、妊娠して男の子を産んだ。3年が経ち、再び現れた僧にこの話をすると、僧は子に息を吹きかけた。とたんに子は泡となって消えてしまった。僧は西方の[あら井]の池の中に尊き地蔵あり、この子のためにお堂を建て安置せよ」と言って立ち去って行った」という。醒井宿の西行水とよく似た説話である。
武佐宿に入ると直ぐ右手に牟佐神社がある。地名は武佐、社名は牟佐。ここは武佐宿の東口(江戸口)で、神社入口左手には「大門跡(見附のこと)」の標柱が立っている。神社前には東の「高札場跡」の看板と高札場跡の手作りの解説板がある。
街道右手の武佐町会館が、奥村家(奥村三郎右衛門家が勤めた)武佐宿脇本陣跡である。冠木門の左の柱に武佐町会館、右の柱に武佐宿脇本陣跡の看板が下がっている。当時は建坪64坪(約211㎡)の建物があった。
街道右手の武佐郵便局横に伝馬所跡の標柱がある。左隣の郵便局が伝馬所跡と本陣跡で、郵便局前には景観づくりのために書状集箱が復元設置され宿に調和させている。武佐宿の伝馬業務は米、油などの商いを営むかたわら、大橋家が伝馬、人足の取り締まり役人を務めた。本陣は寛永(1624~44)年間頃から宿駅制廃止の明治5年(1872)まで、代々下川家が努めた。建坪は262坪(約865㎡)で門構えの屋敷であった。
宿中央の小公園に、辻行燈のモニュメントが建っており、正面に中山道六十七番宿場武佐宿、火袋の台部分に右東京約460㎞、左いせ約120㎞と刻まれている。ここには「享保14年(1729)渡来象之図」を参考にして中学生が描いた絵を掲示している。8代将軍徳川吉宗へ献上する象を長崎から江戸へ運ぶ途中、武佐宿で一泊、ここを通って行ったのである。小公園の向かい側に、昔懐かしい瓦葺洋館の建物が残っている。案内板に「登録有形文化財 旧八幡警察署武佐分署庁舎 明治19年(1886)建築」と書かれている。
武佐は古来、近江から伊勢へ抜ける八風街道と東山道(中世東海道・中山道)が交わる湖東の交通の要衝地として栄え、街道には連子格子の旧家が立ち並んでいる。本陣跡の先の十字路左に文政4年(1821)の八風街道道標が立っている。石碑には「伊勢ミな口 ひの 八日市 道』とあり、この道は日野を経て水口から伊勢へ抜ける道と、八日市へぬける八風街道に通じていることを示している。
武佐宿には、往時を偲ばせる古い商家などが残っており、とても情緒ある町並みを見せている。左上は二階が低い塗籠壁で格子造りの、武佐宿場を取り締った平尾家役人宅跡。右上は二階の軒が低く土壁の塗籠、虫籠窓で出格子や霧避けの幕板もついた、米、油の商家で宿場の伝馬、人足の取り締まりの役人だった大橋家跡。左下は松平周防守陣屋跡で、武佐宿は松平周防家が藩主であった武蔵国川越藩の飛び領地であったことから陣屋を置いていた。右下は旅籠屋で、町内に残ったたった一つの旅館跡。
この付近は西の枡形になっていて、左手に近江鉄道八日市線の武佐駅がある。武佐駅の角を左に曲がって武佐踏切を越えると近江八幡市西宿町である。
線路を越えて進むと右手に伊庭貞剛(いばていごう)邸跡の広大な敷地がある。伊庭貞剛は住友財閥が所有する別子銅山を立て直した人物だそうだ。広い敷地は、「いばecoひろば」公園となり楠の大木に名残を留めている。公園を過ぎると右手に三角形の鎮火霊璽碑がある。火伏の愛宕様信仰碑で、このような石碑は路傍の神として道祖神的にあるいは塞ノ神的な意味合いもあるという。屋根神様が個人の家を守護するのに対して、集落を守護している。
旧道はやがて西宿町信号で国道8号線と合流し、国道をしばらく行くと六枚橋信号に出る。六枚橋の名は寛永20年(1643)、時の領主によって架けられた橋が「六枚の板橋」だったということによる。信号を左折すると右手に入る筋角に南無妙法蓮華経題目碑が建っている。題目碑を右に行くと小さな公園がありその奥に「住蓮坊首洗い池」がある。竹垣で囲まれた中に池の遺構があり、傍らに住蓮房首洗池碑・小社と解説板が有る。住蓮坊は故郷で処刑され、首を洗ったという池は公園となり、南東300mの円墳上に墓がある。解説板によると「住蓮房は法然上人(浄土宗の開祖)の弟子。後鳥羽上皇が建永元年(1206)熊野臨幸で留守の間に、住蓮房・安楽房の開いた念仏会で、松虫姫・鈴虫姫という寵愛の女官二人を帰依させてしまった。そのため上皇の逆鱗に触れて住蓮房・安楽房が打首の死罪、法然上人までが流罪となった。この事件は[建永の法難、承元の法難(承元元年は1207)]と呼ばれる」。六枚橋信号を左折し真っ直ぐ行くと題目碑の先左手に道標が建っている。道標には「安楽房住蓮房御墓是よ里三丁」と刻まれている。さらに進むと右手奥に古墳が見える。住蓮坊古墳と呼ばれていて、千僧供古墳群(せんぞくこふんぐん)の一つである。古墳の上には住蓮坊と安楽坊の墓が並んでいる。
先へ進み白鳥川に架かる千僧供橋を渡る。千人の僧が供養したから千僧供というのだそうだ。その先馬淵交差点を越えたところに馬淵八幡神社があり、境内入口の社名碑の前に高札所跡の石柱が立つ。元亀2年(1571)織田信長の兵火によって焼失したため文禄5年(1596)に再建したものが現在の本殿である。鳥居は笠木に瓦が乗った珍しい形をしている。本殿は総丹塗りで彫刻には彩色が施された桃山様式で、擬宝珠に文禄の銘が入る(国重文)。
馬淵と東横関(横関舟橋)の中間に榎と松が植わる南北の一里塚跡があった。耕地整理が進み名残は全くない。左上の信号の向こうの町村界辺りで、江戸日本橋から数えて125番目の一里塚である。しばらく行くと日野川右岸堤の土手に突き当る。広重が浮世絵「木曽海道六拾九次之内武佐」を描いた場所で説明板が立っている。昔は日野川(横関川)の舟渡し跡で、普段は船で渡り、水量が減った時は川岸に杭を打って二艘の船を繋げ、「船橋」にして渡っていたという。現在の旧中山道は河原の藪に阻まれて先へ進むことはできないため、国道8号の横関橋へ迂回するしかないのだが、明治8年(1875)に木橋が架けられるまでは渡し場があった。国道に横関橋ができ、昭和14年にその木橋も撤去された。
広重画「木曽海道六拾九次之内武佐」は、二つ橋(二艘の船で橋にした)の舟渡しの様子を描いている。右に村役人が見守り、対岸西横関(左岸側は蒲生郡竜王町)で橋銭を徴収する様子も描かれている。
日野川の両岸(右岸側は近江八幡市東横関、左岸側は竜王町西横関)に旧中山道の道筋が残っているが、さすがに今や舟橋は無いので右岸堤の土手から国道8号線の横関橋へ迂回して川を渡るしかない。横関橋を渡り再び左岸堤の土手を西横関の集落へ進む。右手の若宮神社などを見ながら進むと西横関信号で国道に合流する。信号の所に「是よりいせみち」側面に「ミなくち道」と彫られた道標が置かれている。この先に善光寺川が流れているが、当時はここから善光寺川に沿って水口(みなぐち)や伊勢に向かう人々が利用したのだろう。




























































