シニアの の~んびり道草 -5ページ目

シニアの の~んびり道草

日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

6月5日、中山道近江八宿の武佐宿から守山宿までを歩いてきた。武佐宿の西方に近江商人で有名な近江八幡があり、武佐とはお互いに関係があって、商人や物資の往来が活発で、武佐は市が立つほどであった。また武佐は鈴鹿山系八風峠を越え伊勢に至る八風街道の追分けもあり、塩・海産物、紙・布など物資の往来で賑わった。写真は下川家(下川七左衛門家が務めた)本陣の跡で、当時の門と土蔵、石燈籠が残っている。

 武佐宿は京都から46km、健脚の旅人の一泊目の宿として利用された。万葉の里蒲生野・楽市発祥の地石寺(いしでら)・信長の安土城も近く、歴史が漂う。本陣門・陣屋・問屋・宿役人宅などが残り、小学生が作った標識を各家に掲示し、中学生が描いた像の通った道の絵も目に入る。

 

 

 

武佐宿から守山宿までの経路と主な遺構など。

 

武佐宿の西生来(にしょうらい)に入ると、この歓迎看板が迎えてくれる。西生来地区には泡子地蔵碑、江戸日本橋から数えて124番目の一里塚である「西生来一里塚跡」の標柱がある。一里塚跡は西福寺西200m付近とされ、平成24年に篤志家により碑が立てられた。

 

泡子地蔵碑から、西70mの西福寺地蔵堂に泡子延命地蔵が納まる。案内板によると「昔、この地の茶屋に立ち寄った若い僧を、茶店の娘がたいそう気に入り、恋しく思った。娘は立ち去った僧の残りの茶を飲んだところ、妊娠して男の子を産んだ。3年が経ち、再び現れた僧にこの話をすると、僧は子に息を吹きかけた。とたんに子は泡となって消えてしまった。僧は西方の[あら井]の池の中に尊き地蔵あり、この子のためにお堂を建て安置せよ」と言って立ち去って行った」という。醒井宿の西行水とよく似た説話である。

 

武佐宿に入ると直ぐ右手に牟佐神社がある。地名は武佐、社名は牟佐。ここは武佐宿の東口(江戸口)で、神社入口左手には「大門跡(見附のこと)」の標柱が立っている。神社前には東の「高札場跡」の看板と高札場跡の手作りの解説板がある。

 

街道右手の武佐町会館が、奥村家(奥村三郎右衛門家が勤めた)武佐宿脇本陣跡である。冠木門の左の柱に武佐町会館、右の柱に武佐宿脇本陣跡の看板が下がっている。当時は建坪64坪(約211㎡)の建物があった。

 

街道右手の武佐郵便局横に伝馬所跡の標柱がある。左隣の郵便局が伝馬所跡と本陣跡で、郵便局前には景観づくりのために書状集箱が復元設置され宿に調和させている。武佐宿の伝馬業務は米、油などの商いを営むかたわら、大橋家が伝馬、人足の取り締まり役人を務めた。本陣は寛永(1624~44)年間頃から宿駅制廃止の明治5年(1872)まで、代々下川家が努めた。建坪は262坪(約865㎡)で門構えの屋敷であった。

 

宿中央の小公園に、辻行燈のモニュメントが建っており、正面に中山道六十七番宿場武佐宿、火袋の台部分に右東京約460㎞、左いせ約120㎞と刻まれている。ここには「享保14年(1729)渡来象之図」を参考にして中学生が描いた絵を掲示している。8代将軍徳川吉宗へ献上する象を長崎から江戸へ運ぶ途中、武佐宿で一泊、ここを通って行ったのである。小公園の向かい側に、昔懐かしい瓦葺洋館の建物が残っている。案内板に「登録有形文化財 旧八幡警察署武佐分署庁舎 明治19年(1886)建築」と書かれている。

 

武佐は古来、近江から伊勢へ抜ける八風街道と東山道(中世東海道・中山道)が交わる湖東の交通の要衝地として栄え、街道には連子格子の旧家が立ち並んでいる。本陣跡の先の十字路左に文政4年(1821)の八風街道道標が立っている。石碑には「伊勢ミな口 ひの 八日市 道』とあり、この道は日野を経て水口から伊勢へ抜ける道と、八日市へぬける八風街道に通じていることを示している。

 

武佐宿には、往時を偲ばせる古い商家などが残っており、とても情緒ある町並みを見せている。左上は二階が低い塗籠壁で格子造りの、武佐宿場を取り締った平尾家役人宅跡。右上は二階の軒が低く土壁の塗籠、虫籠窓で出格子や霧避けの幕板もついた、米、油の商家で宿場の伝馬、人足の取り締まりの役人だった大橋家跡。左下は松平周防守陣屋跡で、武佐宿は松平周防家が藩主であった武蔵国川越藩の飛び領地であったことから陣屋を置いていた。右下は旅籠屋で、町内に残ったたった一つの旅館跡。

 

この付近は西の枡形になっていて、左手に近江鉄道八日市線の武佐駅がある。武佐駅の角を左に曲がって武佐踏切を越えると近江八幡市西宿町である。

 

線路を越えて進むと右手に伊庭貞剛(いばていごう)邸跡の広大な敷地がある。伊庭貞剛は住友財閥が所有する別子銅山を立て直した人物だそうだ。広い敷地は、「いばecoひろば」公園となり楠の大木に名残を留めている。公園を過ぎると右手に三角形の鎮火霊璽碑がある。火伏の愛宕様信仰碑で、このような石碑は路傍の神として道祖神的にあるいは塞ノ神的な意味合いもあるという。屋根神様が個人の家を守護するのに対して、集落を守護している。

 

旧道はやがて西宿町信号で国道8号線と合流し、国道をしばらく行くと六枚橋信号に出る。六枚橋の名は寛永20年(1643)、時の領主によって架けられた橋が「六枚の板橋」だったということによる。信号を左折すると右手に入る筋角に南無妙法蓮華経題目碑が建っている。題目碑を右に行くと小さな公園がありその奥に「住蓮坊首洗い池」がある。竹垣で囲まれた中に池の遺構があり、傍らに住蓮房首洗池碑・小社と解説板が有る。住蓮坊は故郷で処刑され、首を洗ったという池は公園となり、南東300mの円墳上に墓がある。解説板によると「住蓮房は法然上人(浄土宗の開祖)の弟子。後鳥羽上皇が建永元年(1206)熊野臨幸で留守の間に、住蓮房・安楽房の開いた念仏会で、松虫姫・鈴虫姫という寵愛の女官二人を帰依させてしまった。そのため上皇の逆鱗に触れて住蓮房・安楽房が打首の死罪、法然上人までが流罪となった。この事件は[建永の法難、承元の法難(承元元年は1207)]と呼ばれる」。六枚橋信号を左折し真っ直ぐ行くと題目碑の先左手に道標が建っている。道標には「安楽房住蓮房御墓是よ里三丁」と刻まれている。さらに進むと右手奥に古墳が見える。住蓮坊古墳と呼ばれていて、千僧供古墳群(せんぞくこふんぐん)の一つである。古墳の上には住蓮坊と安楽坊の墓が並んでいる。

 

先へ進み白鳥川に架かる千僧供橋を渡る。千人の僧が供養したから千僧供というのだそうだ。その先馬淵交差点を越えたところに馬淵八幡神社があり、境内入口の社名碑の前に高札所跡の石柱が立つ。元亀2年(1571)織田信長の兵火によって焼失したため文禄5年(1596)に再建したものが現在の本殿である。鳥居は笠木に瓦が乗った珍しい形をしている。本殿は総丹塗りで彫刻には彩色が施された桃山様式で、擬宝珠に文禄の銘が入る(国重文)。

 

馬淵と東横関(横関舟橋)の中間に榎と松が植わる南北の一里塚跡があった。耕地整理が進み名残は全くない。左上の信号の向こうの町村界辺りで、江戸日本橋から数えて125番目の一里塚である。しばらく行くと日野川右岸堤の土手に突き当る。広重が浮世絵「木曽海道六拾九次之内武佐」を描いた場所で説明板が立っている。昔は日野川(横関川)の舟渡し跡で、普段は船で渡り、水量が減った時は川岸に杭を打って二艘の船を繋げ、「船橋」にして渡っていたという。現在の旧中山道は河原の藪に阻まれて先へ進むことはできないため、国道8号の横関橋へ迂回するしかないのだが、明治8年(1875)に木橋が架けられるまでは渡し場があった。国道に横関橋ができ、昭和14年にその木橋も撤去された。

 

広重画「木曽海道六拾九次之内武佐」は、二つ橋(二艘の船で橋にした)の舟渡しの様子を描いている。右に村役人が見守り、対岸西横関(左岸側は蒲生郡竜王町)で橋銭を徴収する様子も描かれている。

 

日野川の両岸(右岸側は近江八幡市東横関、左岸側は竜王町西横関)に旧中山道の道筋が残っているが、さすがに今や舟橋は無いので右岸堤の土手から国道8号線の横関橋へ迂回して川を渡るしかない。横関橋を渡り再び左岸堤の土手を西横関の集落へ進む。右手の若宮神社などを見ながら進むと西横関信号で国道に合流する。信号の所に「是よりいせみち」側面に「ミなくち道」と彫られた道標が置かれている。この先に善光寺川が流れているが、当時はここから善光寺川に沿って水口(みなぐち)や伊勢に向かう人々が利用したのだろう。

 

 

 

 

 

6月5日、中山道近江八宿の愛知川宿から武佐宿までを歩いてきた。湖東平野の中央を流れる愛知川の東岸に、宿が誕生した。五個荘・近江八幡・日野と共に近江商人の輩出地で、平将門伝説のある歌詰橋・不飲(のまず)橋、商人が架けた無賃橋を商人や旅人が利用した。写真は近江商人の里の入り口に立つ「天秤棒を担いだ行商人姿のブロンズ像」である。

愛知川は「恵智川」とも書かれ、宿はずれに流れていた川からその名が起こっている。ここも東山道の頃からの宿駅で、かなり古くから栄えていたが、宿場に制定されたのは江戸時代になってから。近江商人発祥地の一つで、江戸時代は近江商人らの活動が活発で賑わっていた。宿の両端近くに、中山道を跨ぐ宿標識のアーチが新設されている。
 

 

 

愛知川宿から武佐宿までの経路と主な遺構など。

 

宇曽川に架かる歌詰橋を渡ると、いよいよ愛知川宿に入る。案内板によると、一級河川宇曽川は古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資を運び、重い石も舟で運んでいた。また、木材は丸太のまま上流から流したという。このことから運槽川と呼ばれていたが中世になって、うそ川と訛ったようである。

 

愛荘町石橋地区は将門伝説の場所。その歌詰橋伝説とは次のような内容である。「宇曽川に架けられていた橋は、十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に塗りこめた土橋であった。天慶3年(940)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷は京に上るために中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追い駆けてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、言われた将門の首は歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである」。左下は現在の歌詰橋。平将門の首が埋められた伝承がある円墳の山塚古墳は、この普門寺の裏手にあるようだが確認できなかった(右下)。


沓掛の交差点の先で道が二又に分かれる。左へ行くと近江鉄道愛知川駅、右の道が旧街道。その中央に「旗神豊満(とよみつ)大神」と彫られた立派な沓掛追分道標が立っている。この三叉路から約2kmほど南の豊満神社への道標である。豊満神社から八風街道を経て伊勢国に通じ、中世の沓掛は山越四本商人の一座として活躍した。四本商人とは室町時代から戦国時代にかけて、近江国湖東を中心に活躍した商人集団で、近江商人のルーツとして知られる。現在の愛荘町の沓掛、東近江市の野々川、東近江市の石塔、東近江市五個荘町の小幡の4つの地域の商人が連合して活動していた。


 

間もなく旧街道の頭上に冠木門風の宿標識アーチが迎えてくれる。右手には「宿北入口」の標石が置かれているので、正式にはここから宿場が始まるのかもしれない。標石の横には北の地蔵堂があり20体余りのお地蔵さんが並んでいる。それぞれに可愛らしい前掛けが着せられている。左手には黒板塀で土蔵造りの料亭近江商人亭がある。

 

宿中央交差点の左先に「愛知川宿ポケットパーク」がある。中山道愛知川宿の碑、廣重の「木曽海道六拾九次之内恵智川」のレリーフ、そして明治初期に使われていたという郵便ポストを復元した珍しい書状集箱も置かれている。この黒ポストはレプリカではなく今も現役である。

 

フラスコ型のガラス瓶に、びんの口よりも大きな手まりを入れた不思議な工芸品「愛知川びん細工手まり」。いつ、どこで生まれたのか、その歴史は詳らかではないが、愛荘町には江戸時代末期に伝わったと言われている。全国でも作り手が少なくなっていた昭和40年代、その技術を絶やしてはならないと保存会が結成され、以来、研鑽工夫が重ねられ、平成23年には滋賀県伝統的工芸品に指定された。繊細で美しい愛知川びん細工手まりは、「丸くて(家庭円満)、中がよく見える(仲良く)」と、新築や結婚祝いの贈り物に喜ばれているという。びんてまりの館で常時展示し、販売もしている。

 

愛知川宿本陣跡標識。八幡神社鳥居前に高札場があり、北隣に西沢本陣があった。大正15年に建てられた旧近江銀行の鉄筋コンクリート平屋建が跡地に残り、標識で示している。愛知川宿の本陣は建坪142坪の門構え、玄関付きであったというが、遺構などは何も残っていない。

 

本陣跡地にある旧近江銀行の鉄筋コンクリート平屋の建物は、中山道愛知川宿街道交流館「愛知川ふれあい本陣」になっている。建物の変遷や本陣跡の解説板が設置され、館内には愛知川びん細工などが展示されている。

 

 

街道右手に一対の石灯籠と鳥居のある八幡神社がある。その左脇に高札場の標石がある。八幡神社は数度の炎上後再興、唐破風の本殿は寛文11年(1671)頃の建立と推定され、県の有形文化財に指定されている。愛知川宿の道はカラー舗装され左へ僅かにカーブし、白壁と格子造りの町並みが続く。愛知川宿で見つけた凝った街灯のモニュメント。街道の道に相応しいデザインだ。

 

愛荘町の中山道愛知川宿で町並みに、ふわりと揺れ彩りをもたらすのれんアート。愛荘町観光協会では毎年、「中山道愛知川宿のれんアート」を開催している。その年ごとのテーマにそった「のれんアート」を広く募り、個性あふれる作品を中山道愛知川宿に面した民家の軒下や玄関先に飾り付けて、道行く人たちに風にゆらめくアートを楽しんでもらうというもの。当企画は2008年に始まり今年で17回目。

 

愛知川宿の京方出口を流れる不飲川を渡ると宿標識アーチがあり、ここで宿は終わり国道8号に合流する。橋には愛知川の伝統工芸である「びん細工てまり」のモニュメントが飾られている。不飲川という変った川の名前はその水源である野間津(不飲)池からきている。昔、その池で平将門の首を洗ったところ血で濁り、そう呼ばれるようになったという。一説には、平将門は身体の汚れを洗っただけであるとか、昔この地に激戦があり池に血が流れ込んだとか、毒水が湧き出たものをいさめたとか、言い伝えが様々にあって興味深い。国道と合流して直ぐ右手駐車場の奥にひっそりと一里塚跡の標石だけが立つ。日本橋から122里の愛知川一里塚跡である。右下は不飲川手前左先にある古い旅籠で、竹の子屋として宝暦8年(1758)創業し、4代目から料亭竹平楼となった老舗。黒板塀門構えの屋敷で右玄関脇に「明治天皇御聖跡」の大きな碑が立っている。中には明治11年(1878)北陸、東山道巡行の際、ここで御小休されたときの玉座が残されているという。

 

国道8号を進み、御幸橋で愛知川を渡る。愛知川東岸に「むちんはし」の標柱が立つ。今は穏やかな流れだが、かつては「人取り川」の異名もある暴れ川であった。増水すると自力で渡れず、たちまち足止めされる。以来、何度か姿を変え、架けかえる度に橋の位置も変わった。明治11年(1878)天皇行幸に際し馬車で通れるように新設、その後、地域に払い下げられ「御幸橋」と改称された。現在の橋は昭和36年(1961)に改修した5代目で、下流20mに移る。

 

国道を行くとやがて愛知川の御幸橋に至るが、橋の左手前に祇園神社があり、その前に大きな常夜燈とむちん橋の解説板がある。この常夜燈は対岸のものとで一対になっている睨み灯籠で、弘化3年(1846)の銘がある。橋の位置が変るたび場所を変えたようで、現在は 祇園神社境内にある。何れの常夜燈もいわば海の燈台のようなもので、暗い時に川を渡る人々を導いた。この橋も仮橋だったのを天保2年(1831)宿場商人の寄付で常設の橋となった。渡り賃を取らなかったのでむちん橋と言われた。広重の「恵智川」にも「むちんはし はし銭いらず」とこの橋を描いている。

 

広重画/木曾海道六拾九次之内・恵智川。柱に「むちんはしはし銭い らす」と示す橋の完成から8年後に描かれた。広い河原は、天井川の特徴を持つ大河の愛知川である。馬に代わって牛が荷を運ぶのは近畿の風習で、京都に近いことを暗示している。左に観音寺山、右に伊庭山と和田山があり、今は御幸橋が架かる。

 

御幸橋を渡って国道から左折、堤防上を進み近江鉄道の踏切を越えると間もなく右手に常夜燈がある。これが対岸の祇園神社境内の灯籠と対峙する中町出町の睨み灯籠で、笠部は神社の屋根のような形をして大変特徴的である。文政8年(1825)4月に中村講中が建立。この灯籠は人びとの安全を見守り、中山道を往還する旅人の大切な道しるべだった。

 

やがて五個荘小幡地区に入る。ここには「小幡でこ」と呼ばれる郷土玩具の小幡人形屋がある。「でこ」とは「土人形」のことで、家の前にいくつか並べられている。伏見人形の製法を受け継ぐ土人形で、人形屋が数軒あったが、今は9代目の細居家だけとなった。小槌乗り鼠は昭和59年、桃持ち猿は平成4年の年賀切手に採用された。

 

小幡の集落をしばらく行くと、左手斜め前方に入る道の角、民家のフェンスとガードレールに挟まれて古い御代参(ごだいさん)街道道標が立っている。この道が伊勢参宮道、御代参街道とも言われる道で、道標は享保3年(1718)の建立で「右京みち」「左いせ ひの 八日みち」と刻まれている。江戸時代中期、皇族の名代が伊勢神宮や多賀大社への参詣に通ったことから御代参街道と名が付いた。右にカーブする左手に旧中山道ポケットパークがあり、「大神宮」「村中安全」と彫られた背の高い常夜燈が立っている。

 

左に五個荘中央公園を見ながら進むと右に一本の立派な松が現れる。「中山道名残りの松」と呼ばれ、後ろの白壁の土蔵は「中山道散策案内所」である。案内所横には「近江商人・三方よし」の商いを進める上の理念、現代の企業の社会的責任(CSR)の原点となり、いまや世界共通のことばであり考え方となっている。企業が利益を追求するだけでなく、顧客、従業員、投資家、環境、地域社会などのステークホルダーを考慮し、社会貢献を行うことが求められていことの説明版がある。

 

五個荘中町のポケットパークに「てんびんの里五個荘」の看板が立ち、ここに大きな五個荘あたりの「中山道分間延絵図」が設置されている。五個荘地域には、中山道など多くの街道が通っているため商業が発達し、後に近江商人と呼ばれる人たちが誕生した。近江商人はてんびん棒を担いで商売に活躍し、財をなした人が多く五個荘を「てんびんの里」と呼んでいる。五個荘三俣町には梵鐘作り日本一の看板があり、板塀に囲まれた西澤梵鐘鋳造所の門の脇に釣鐘が置かれている。旧中山道と国道が合流する辺りには松並木も見られる。

 

近江商人というと五個荘・近江八幡・日野が有名だが、中山道沿いの五個荘や豊郷・愛知川から生まれた商人は「湖東商人」とも呼ばれているようだ。近江商人発祥の地と云われる五個荘、中でも金堂地区は中山道から約1km以上離れているが、商人屋敷の町歩きをするため寄り道する。立派な門構えを持つ広大な屋敷と、建物の塀に沿って清らかな湧き水を引き込んだ用水路が巡らされている。建物や板塀は西日本独特の焼杉板で覆われ、漆喰の白壁と相俟って美しい町並みを作り出しており、公開されている近江商人屋敷もある(重要伝統的建造物群保存地区に指定)。近江商人とは、江戸時代後期から明治・大正・昭和戦前期にかけて活躍した商人で、大阪商人、伊勢商人とならぶ三大商人の一つである。主に呉服や麻布などの繊維関係を中心に、天秤を担いで全国を行商して販路を拡大した。そして一定のシェアと資金を蓄えると、江戸の日本橋や大阪の本町に支店を開設するなどして活躍したという。現在も近江商人をルーツに持つ大企業は多い。代表的な企業としては、商社の伊藤忠や丸紅、百貨店の高島屋、寝具の西川産業、ワコールや日本生命などがそうである。ちなみに近江鉄道の駅名は「五箇荘」と旧来の地名だが、明治に入って町村制が施行された時から「五個荘」と表記されるようになったそうだ。

 

五個荘新堂町の背の高い台座の上に常夜燈がある。台座の部分に「右京道」「左いせ ひの 八日市道」と刻まれている。御代参街道に通ずる間道の分岐点で、天保15年(1844)の建立。常夜燈の後ろに走る東海道新幹線は時代の移り変わりを身近に感じさせてくれる。左は京町屋風商家で、江戸時代より呉服卸商いを生業とする近江商人市田庄兵衛家の本宅。明治初期に建てられた風情のある京町屋風建築(市文化財に指定)。

 

西国三十三ヵ所観音霊場の三十二番札所観音正寺へと続く道標。享和3年(1803)建立の道標には「三十二番くわんおん山 是より十八丁」(約2km)と刻まれている。比高250mの寺へは石段を登る東からの裏参道がある。石塚一里塚跡碑は平成30年に五個荘地区の有志により建立された。右から来た国道と斜めに合流する地点の大きな石柱に「旧中仙道てんびんの里」と彫られ、その上に天秤棒を肩に担いで行商に出る近江商人の青年像が立っている。天秤棒は売り手と買い手がつり合ってこそが商売の基本。儲けはその地の社会貢献してこそ商いなが続くことを象徴している。近江から天秤棒一本で近江の産物を持ち行商、行商先からその地方の産物を購入して上方に運び商っていたのである。

 

合流した国道から右に分かれ繖(きぬがさ)山の裾を行く。右手に崖が迫っている辺りが立場の有った清水鼻。ここに湖東三名水(醒井の居醒め清水、彦根の十王村の水)の一つ、清水鼻の名水がある。水量は少ないが観音寺山麓の井戸から湧き出ており、当時、旅人とに潤いを与え喜ばれた名水地で、地元の方により保存されている。右は観音正寺の30ほどの末寺のうち、唯一現存する教林坊(石寺ともいう)で、石の多い庭は小堀遠州作と伝わる。白洲正子「かくれ里」で紹介され、竹林と紅葉の名所でもある。右下の教林坊山門は2013.12.16撮影。

 

東海道新幹線ガードと国道8号線の左手脇に中山道の標石と鎌宮奥石(おいそ)神社の看板があり、旧道はそこから左へと進む。間もなく右手にこんもりと繁った東老蘇(おいそ)の森が見え、奥石神社の東参道がある。杉や檜が茂る社叢の中に奥石神社があり、本殿(国重文)がある。参道入口の大木に、不思議な形の注連縄が吊るされている。今も榊で作った珍しい丸い注連縄(勧進縄)が参道を飾るが、どのようないわれが有るのだろうか。

 

杉原家庭園(県名勝)は、主屋は茅葺屋根、裏庭は幕末に造られた回遊式枯山水で、緑苔(りょくたい)園と呼ばれた。14代将軍徳川家茂が第2次長州征伐で大坂城へ向かう途中に立ち寄り、風呂場も保存されている。「中山道大連寺橋」「内野道右観音正寺左十三仏」と刻まれているのは、西国三十三所の第32番札所観音正寺と十三仏は安土町内野の「岩戸山十三仏」だろうか。岩戸山十三仏は現在は拝観できないようだが、道中は石仏だらけだという。

 

 

 

7月12日、岐阜県山県市の北部を流れる約8kmほどの円原川の伏流水を訪ねてきた。円原川は神崎川に合流したのち武儀川となり、最終的には長良川に注ぐ。透き通る水と岩に張り付く苔のきれいな川は「ぎふ・水と緑の環境百選」にも選ばれており、まさに清流長良川となる源流の一つである。写真はメインの伏流水撮影スポットで、右岸側の岩間から伏流水が豪快な音を立てて湧き出る様子。

水のきれいさの秘密は、円原川が「伏流水」であること。伏流水とは流れる水が一旦地中に潜りこみ、ふたたび岩間から湧き出る現象のことをいう。円原川は付近が石灰岩質の岩場であり、約2kmほど地中に潜る間に浄化されていることがきれいさの要因と考えらる。ここ最近では、透明度抜群の水と苔のきれいさだけでなく、夏場の朝、気象条件によって発生する「川霧」の幻想的な様子や、木々の間から太陽の光が差し込む「光芒(こうぼう)」の景色を写真におさめようと、多くのカメラマンが訪れている。



左岸側の岩の隙間から、ダイナミックに伏流水が流れ落ちる様子。


伏流水のポイントから約2km上流にある五位神社前の流れは、普通の川と変わらない。


五位神社の直ぐ下流から川の水が一旦地中に潜り込んでいるのか、川には全く水がない。忽然と川が消え、大水が出た時だけそこに川が現れるという、なんとも不思議な世界がここには展開している。


伏流水ポイントの直ぐ上流側も完全に干上がっている。こうした水がない川の状況が、約2km続いている。


円原川沿いの道を進んでいくと、かつて鉱山の採石場だった場所に臨時駐車場が整備されている。駐車場横には「歓迎 湧水の里円原川 伏流水降り口まで30m」の案内板がある。直ぐに伏流水ポイントへと降りれる道があり、狭く段差もあって、濡れて滑りやすいので注意しながら降りていく。


右岸側の湧水ポイントで、川の水が一旦地中に潜り込み岩間や地層を通って再び地表にボコボコと音を立てながら湧き出している。


臨場感あふれる伏流水湧き口をズームアップ、岩には苔が生い茂っている。


対岸(左岸側)の岩間のいたる所から、滾々と溢れ出ており神秘的な景観である。


川原から降り口を振り返って見ると、川幅が狭く撮りづらい。


2021.9月に訪れた時には、前年7月の大雨で山の斜面が崩落、通行止で伏流水ポイントには行けなかった。当時の通行止標識、仮設の水汲み場案内とその様子。(2021.9.2の状況を貼付)


現在も復旧工事が続いているが、2025年1月に5年ぶりに通行止めが解除された。


円原川の伏流水が一躍注目されるようになった理由の一つとして「円原川の光芒」がある。光芒とは木々の間から太陽の光が差し込む現象のことをいい、夏場の朝、気象条件によって発生する川霧に光が反射して、まるで光のカーテンのような幻想的な光景が展開する。その瞬間を収めた写真が写真家の間で話題となり、今では多くのカメラマンたちの人気スポットになっている。発生条件は、湧水の水温と気温との差が大きくなる夏季(7・8月)の早朝、時間帯は7時30分~9時頃(8時頃がピーク)に発生するといわれている。(写真は山県市観光総合サイトから)


円原川付近は一帯が石灰岩質の地層であり、川が約2kmほど地中に潜る間に浄化されることから、まさに天然の浄水器!が、こんなにも透明度が高く、こんなににも水が美しい清流の要因といわれている。その美しさと貴重な環境から、円原川は「ぎふ・水と緑の環境百選」にも選ばれている。


円原集落の円原浄水場、北野神社横が、「幻のノリ」と呼ばれる淡水藻・川海苔の生育場所である。環境省のレッドリストで絶滅危惧Ⅱ類に指定される藻類「カワノリ」。特産品として幕府に献上したと記録に残るが、環境の変化で生育域が減り、今は過疎化した集落の数軒が採って個人で消費するのみという。


生育環境や食文化を守ろうと、集落支援員らが住民や研究者の協力を得て特産の復活を目指している。カワノリは川の上流に生息し、海で採れるアオサに似ている。山県市では武儀川の支流で伏流水が流れる円原川と神崎川で確認されている。春から秋にかけて収穫し、板状に漉いて天日干しにする。大量採取が難しい貴重品として、無断採取は禁じられている。


山県市北部の北山地区で地元の高齢女性が腕を振るう、農家レストラン「舟伏(ふなぶせ)の里へ おんせぇよぉ~」が営業しているので帰路に立ち寄る。1997年に閉校した旧北山小学校の校舎を活用して2013年にオープンしたが、校舎は1980年の建築で、レトロな外観や内装が交流サイト(SNS)で人気を集めていた。しかし、10周年を迎えた直後の昨年11月、床下の配管から漏水していることが判明。老朽化で修理もかなわず、校舎でのレストラン営業は断念せざるを得なくなった。そこで、近くの古民家に今年4月に移転OPENしたのだという。この地域で生まれ育った“おばあちゃん”たちが輝くお店、「おんせぇよぉ~」とは「いらっしゃい」のこの地方の方言。円原方面へ行く三叉路の幟旗、暖簾、季節の主菜と地元の食材をふんだんに使った副菜が竹カゴに美しく盛り付けられた「舟伏の里ランチ」は化学調味料を抑えた素朴な味わいで、まさに「おばあちゃんの味」を彷彿とさせ美味しかった。(メニュー表から)。ごはんとみそ汁のお代わりはセルフで、ごはんは「わらびごはん」と「よもぎごはん」が用意されている。


岐阜県山県市円原 円原浄水場、北野神社付近のMAP