中山道鵜沼宿から加納宿までを歩く | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

2020.5月から10月にかけて、中山道美濃十六宿の加納宿、河渡宿、美江寺宿、赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿、そして一番西にあたる今須宿を歩いてきた。少し間があいてしまったが、今回(2024.7.18)は鵜沼宿から加納宿までを歩いてきた。

 

 

鵜沼宿は、江戸から数えて52番目の宿場である。江戸時代は尾張藩領で、南へ約2kmの木曽川対岸に国宝犬山城がある。宿内には、神社や石造物、旅籠の面影を残す住宅などが残るものの、年々、周辺の近代化が進んできた。写真は鵜沼宿の町並みで、南側には間口の広い連子格子の町屋が三軒(登録有形文化財)並んで、当時の面影を偲ぶことができる。

そこで、町屋館(旧武藤家住宅)の修復、脇本陣の復原、景観重要建造物(古い家並や酒蔵)の保存改修などが行われ、また建物のほか、せせらぎ水路の設置、電線の地中化、案内板の設置、道路の美装化や安全対策が図られた。 こうして、鵜沼宿は往時を偲ばせる宿場町として再生され、今では、市の重要な観光資源として多くの人々が訪れている。

 

 

中山道は道しるべを兼ねた赤坂地蔵堂を右に折れ、鵜沼宿に入っていく。東の見附跡はこの案内板の少し西にあったが、現在その遺構を見ることはできない。旧中山道と主要道に挟まれた三角地に「ここは中山道鵜沼宿これよりうとう峠 左」の石碑が立っている。

 

鵜沼宿の経路と主な遺構など、現地に設置されている鵜沼宿案内図。

 

国道21との交差点にある復元高札場(左上)、鵜沼宿に移設された旧大垣城本丸の鉄門(右上)、鵜沼宿の顔でもある大安寺大橋は近代的に復元され、木製の欄干や常夜燈が当時の風情を偲ばせる。左の建物が現地案内図にある宇留摩庵(うるまいおり)で、「歴史的街道である旧鵜沼宿・旧中山道のまちなみ再生」として整備された観光施設(飲食施設)である。施設名の宇留摩は、江戸時代以前の鵜沼の古い表記の一つである(下)。

 

「木曾海道六十九次・鵜沼」渓斎英泉画。旧武藤家住宅町屋館の西側に白壁の塀をバックに、この「木曽街道鵜沼ノ驛従犬山遠望」の版画を刻んだ石碑が建っている。犬山城を聳えさせた思い切ったデフォルメが面白い。

 

鵜沼宿本陣跡は民家の前に説明板が立つのみ。

 

市指定重要文化財の旧武藤家住宅町屋館。主屋、東側の附属屋、西側の離れの3棟からなる。

 

復元された脇本陣。「中山道鵜沼宿の脇本陣は、宿駅制度が廃止された明治時代以降もその姿をとどめていましたが、明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊したと伝えられます。 当脇本陣は、江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考としながら、鵜沼宿の脇本陣を務めた坂井家の建物の姿を現代に復元し、平成22年5月より公開しています。隣家からの延焼を防ぐための防火壁である「うだつ」を備えています。度々火事に見舞われた鵜沼宿では、火事がそこで止まったと伝えられるクロガネモチの木や、火伏せを願った秋葉神社なども残っており、住民の防火への関心が高かったことがうかがえます。」(各務原市HPから)

 

脇本陣の右側に白壁の塀をバックに芭蕉句碑が立つ。芭蕉は貞享2年(1685)3月、貞享5年(1688)7月、同年8月の三度、脇本陣坂井邸に宿泊している。一度目は「野ざらし紀行」の途中であり、二度目は岐阜で鵜飼見学の帰りであり、三度目はここより「更科紀行」に旅立った。三度目の来邸の折り、坂井邸の主人に所望されて、「ふく汁も喰へは喰せよきくの酒」を詠み(中央の白い円筒形の石碑)、右側の石碑には「更科紀行首途の地」と刻まれ、「おくられつ送りつ果ては木曽の秋」と、美濃を離れるときに吟じた句が刻まれている。左側手前の碑は二度目の来邸時に吟じた句で、「汲溜れ水泡たつや蝉の声」と刻まれている。

 

鵜沼西町交流館は市民の学習、保育、休養、集会や各種のイベント施設として整備されている。ここら辺までが復元された鵜沼宿の中心部である。

 

鵜沼宿の中心部を離れ、馬頭観音や数体の石仏を拝みながら緩やかな坂道を上っていくと、西の見附跡に着く。ここから南を望むと小山の上に国宝犬山城が見える。

 

鵜沼宿西の見附跡から間の宿新加納までの経路と主な遺構など。この区間はほとんどが国道21号やその旧道と重複しているため、往時の面影を求めようとするには、非常に困難である。かつては各務野の原野を通っていたのだが、現在は自動車の交通量も多く、商店街などの街並みに変ってしまい、中山道の面影はほとんど残されていない。鵜沼宿から加納宿までは、4里10町(約17km)と距離が離れていたため、旅人や馬が休憩するための立場がいくつか設けられていた。中でも岐阜市境に近い新加納の立場は、近くに旗本坪内氏が陣屋を構えていたこともあり、間の宿新加納として賑わっていた。 現在では近世の家並みはなくなったが、かぎの手になった街道や石造りの道標などに往時を偲ぶことができる。一里塚もかつては3ヵ所にあったが、「山の前の一里塚」は、国道とJR高山本線が交差するあたりにあったらしいが、現在では岩の上に石仏が安置されているだけで、「六軒の一里塚」と「新加納の一里塚」については、標識が残っているのみである。

 

旧国道21号沿いに蓮如ゆかりの空安寺があり、すぐ隣に県下最大の円墳、衣装塚古墳がある。少し手前の街道南側には坊の塚古墳もあり、この辺りは古墳が多い。

 

日本橋より百二里目の山の前一里塚は国道がJR高山本線を越える陸橋あたりにあったと言われるが、現在その遺構を確認することはできない。案内書には一里塚の推定地だという陸橋の左下の道沿いの大きな岩の上に「播隆上人碑」と「一里塚跡碑」があるというので探したが、結局目的の二つの碑は見つけられなかった(写真はWebサイトから借用)。次の一里塚の六軒の一里塚跡(日本橋より百三里目)は、国道21号バイパスと分かれ旧国道に入った右側に標識柱があるだけで面影はない。

 

中山道は賑わいをみせる那加のメインロードを通る。各務原市民公園あたりに「義賊鼠小僧治郎吉」にまつわる「いろは茶屋」の伝説があり、伝鼠小僧の墓がある。ひき蛙の伝説がある日吉神社にはこんな石像がある。

 

中山道間の宿新加納の標柱と中山道新加納立場の説明版。鵜沼宿と加納宿は距離が長いので、新加納に立場茶屋が設けられ、この新加納立場は「間の宿」の役割を果たしていた。

 

新加納一里塚跡(日本橋より百四里目)。一里塚の脇には道しるべがあり、さらに道なりの道と合流する鋭角の角には「右京みち」「左木曽みち」と刻まれた石標がある。

 

間の宿新加納から加納宿までの経路と主な遺構などと手力雄神社。手力雄神社は織田信長公が稲葉山を攻略の折りに先勝祈願をした由緒ある神社で、毎年4月に「手力の火祭り」が行われ賑わうという。三河地方で行われる手筒花火と同じように、男たちが手筒花火を手に境内を駆け回り、火棚に仕掛けられた「山焼花火」は滝のようになって御輿を担ぐ裸男たちに降り注ぐ勇壮な火祭りである(岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されている)。

 

切通観音と切通陣屋跡。切通陣屋は江戸時代、平藩(福島県いわき市)安藤氏が切通陣屋を置き、このあたりを始め方県郡、本巣郡の自領を支配していた。安藤氏は平に移封以前は加納藩主だった大名だ。

 

細畑の伊豆神社前の道しるべと右隣の馬頭観音の祠。 祠横の道標は、かなり風化が激しく「左京ミち」は何とか読めるが「右・・・」がもう読めなくなっている(上)。細畑の町並みで道の向こう側に立派な蔵のある古い商家が立ち並んでいる。(左下)、「登録商標明治水」と 読める立派な看板が残る商店(右下)。

 

細畑の一里塚は、一部復元されたとはいえ町中に珍しく両方とも現存している一里塚だ。日本橋から百五里目。 

 

領下の街道分岐には地蔵堂と道しるべがあり、中山道は右、笠松は左に進む。この道は境川沿いを加納から南に進み御鮨街道と合流する。領下の町並みには立派な家が並んでいる。現代の諸事情をなんとか生き残ってきたということか(右下)。

 

名鉄名古屋本線の茶所の踏切を渡ると左側に「中山道加納宿」の碑があり、加納宿に入る(左)。その斜め右側に「←御鮨街道 」の案内標柱が立つ(中)。ここから南下する道が尾張街道で「御鮨街道」ともいい、すぐに東海道や伊勢を案内する大きな道しるべがある(右)。御鮨街道は将軍に鮎鮓を献上した道で、岐阜町から加納、笠松、一宮を経て、熱田からは東海道で鮎鮓を運んだ。江戸に着くころに食べごろとなるよう、岐阜から江戸まで5日間で運んだとされる。