中山道河渡宿から美江寺宿までを歩く | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

河渡(ごうど)宿は江戸から数えて54番目の宿場である。河渡宿は長良川の渡しのためにできた宿であり、長良川の川幅は常水で50間(約90m、1間=1.8m)、洪水の時は150間にもなった。本陣1、旅籠大4、中9、小11の小さな宿場だったが、米、塩、木材の輸送が多く、川止めのたびに逗留客であふれ繁栄したという。町の長さは3町(327m)で、東町、仲町、西町と続いていた。地理的には長良川の土手近くにあり、低湿地帯で絶えず水害が絶えなかった。文化10年(1813)、地盤の土盛りがされ、宿の高さが周囲より5尺(1.5m)ほど高くなった。残念ながら河渡宿は、第二次大戦による焼失や長良川河川改修によって、往時を偲ばせるような旧家は一軒も残っていない。写真は河渡の馬頭観音堂境内に建つ真新しい石燈籠。

 

中山道河渡宿から美江寺宿までの経路と主な遺構など。

 

「河渡の渡し」は現在の河渡橋の下流にあり、中山道は加納宿側の鏡島湊から対岸の河渡宿の間を舟で渡っていた。往時とは川の流れ、河川改修が著しくて渡し場の場所を特定することすら難しいほど周辺状況は変わってしまっているが、その位置関係を右岸の河渡宿側から展望する。左岸側の背後には金華山が望める。明治14年(1881)に橋が架けられ渡しは役目を終えた。

 

左岸のこの辺りに物資集積地として鏡島湊があった(左上)、長良川に架かる現在の河渡橋(右上)、橋の真ん中に警察署の「岐阜北署」境界標識がある。県境や市町村境の標識はよく見かけるが、警察署の境界標識は珍しい(左下)、左岸側から対岸の河渡宿船着場辺りを望むが、河川改修により今は当時の面影は残っていない(右下)。

 

河渡の馬頭観音は、宿場の東側の新しい堤防下で今も長良川の堤防を見守っている。江戸時代後期天保13年(1842)、荷駄人足達が銭100文づづ出し合って道中安全、五穀豊穣を祈願し六間四面のお堂を建立した。明治9年(1876)の大洪水で本堂流失、明治24年の濃尾地震で倒壊、度々の災害を受けつつ、当初建立された長良川猿尾(0.5km上流の渡し舟場)から移転を繰り返し現在地に移され、昭和59年(1984)新しいお堂が再建された。本尊は愛染明王であるが地元では馬頭観音さんと仰いだ(観音堂縁起碑文から抄出)。観音堂の境内には真新しい石燈籠や「中山道開宿400年記念」「いこまい中山道河渡宿」の石柱が立っている(右)。

 

河渡宿に入るとすぐに「松下神社」の小さな祠の前に正面に「中山道河渡宿」、側面に「一里塚跡」(右)と彫られた碑が立っている。ここはかつて一里塚のあった場所で、塚は道の両側に夫々あり榎が植えられて、塚の大きさは五間四方であった(中山道河渡宿文化保存会碑文)。この一里塚は、当時「河渡の一里塚」と呼ばれていた106番目の一里塚である。河渡宿は、東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり土地も低く、白雨雪舞の折には泥沼となった。特に文化12年(1815)6月には、未曾有の洪水に見舞われ、このままでは宿も絶えるのではと時の代官松下内匠が、宿中を五尺(1.5m)あまり土盛をして、その上に家屋を改築し、文化15年に工事を完成させた。この功績に村人は、松下神社を建立し、碑を刻んで感謝をした。その顕彰碑(右下)は太平洋戦争の戦災で焼き壊れ、今は上部が欠け一部しか残っていない。(中山道河渡宿文化保存会碑文より抄出)

 

観音堂から堤防沿いの道を0.3kmほど進み右折すると「河渡宿」である。新しい堤防上から見た河渡の町並み(右)、この辺りは低地で、昭和51年(1976)9月12日の台風17号でも被害が発生、実績浸水深の表示板が立っている(中)、昭和20年(1945)の空襲により、宿場は全焼して古い街並みは跡形もなくなり、宿場町らしい雰囲気は何も残っていない(右上)、宿場は天王川の慶応橋を渡った辺りまでの3町という小さな宿場だった(右下)。

 

河渡宿を抜けると中山道は、生津地区で本巣縦貫道を横断する。生津はナマズと読み、鯰とも表記したという。川の多い土地だけあってここを流れる糸貫川では鯰が捕れたのであろうか。この辺りは低湿地で、かつては湿地を好む柳が栽培され、柳行李(やなぎごうり)が名産品であった。大正時代には海外に輸出されるまでになり、この地区の主要産物となった。しかし、今では廃れてその名残も見ないという。写真右は「木曽海道六拾九次」渓斎英泉画の「岐阻路ノ驛河渡長柄川鵜飼舩」。(瑞穂市広報案内板より)

 

生津地区から道なりに先へ進むと馬場の追分に着く。変則四叉路の右角、道路より1mほど高くなった所に「馬場の地蔵」があり、地蔵堂の前に道標を兼ねた石碑が立っている。「忠君愛国」と彫られた足元に「右合渡・加納ヲ経テ名古屋ニ至ル 左本田・美江寺ヲ経テ京都ニ至ル」、「神佛敬信」の下に「右高屋・北方ヲ経テ谷汲ニ至ル」の道しるべが刻まれている。

 

馬場の地蔵を過ぎ、糸貫川を渡った橋のたもとに「本田の延命地蔵」がある。「この地蔵は、高さ90cmの石仏坐像で掘りが美しく優雅な面相である。背面に「石工名古屋門前町大坂屋茂兵衛」、台座には「文化六巳巳歳(1809)8月24日建立濃州本巣郡上本田村」と刻まれている。毎年8月24日に盛大な地蔵祭が行われる。かつては、尾張・美濃・江州の三国素人相撲が行われたが、現在は子供相撲が行われている。江戸時代この中山道を往来した旅人はここで一休みして、このお地蔵様に旅の安全を祈ったのであろう。(瑞穂市教育委員会延命地蔵説明板より)

 

延命地蔵からほどなくすると、「本田代官所跡」の説明板が立っている。「江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かでない。しかし、古文書等から推測すると、寛文10年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官に任ぜられ、この地に陣屋を設けたと思われる。本田代官は後に川崎平衛門定孝(11年間在任)という名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。明和7年(1770)大垣藩に預けられるまで続いた。今も「代官跡」「御屋敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っている(瑞穂市教育委員会説明板より)。そのすぐ先には、「高札場跡」の立札が立っている。また、この辺りは河渡宿と美江寺宿の中間に当り、茶屋や旅籠、本田立て場(街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休息した所)もあったという。

 

代官所跡の道を挟んだ反対側には「中山道の町並」の案内板ある。旧家らしき立派なお屋敷や秋葉神社などもあり、そこはかとなく昔の街道の風情が残る町並みが見られる。秋葉神社は火事が多発した時代の防火の神様として、どこの宿場も欠かすことができない神社だったのだろう。

 

本田集落を過ぎると、本田松原交差点を横切る。地名の通りこの辺りには、中山道沿いに延々と松の並木が植わっていたというが、昭和18年(1943)頃、松根油を航空機燃料にすると云う理由で切り倒されてしまったという。さらに西進すると五六川を渡る。五六川とは面白い名前だが、次の美江寺宿は江戸から数えて五十六番目の宿であることに由来するらしい。この辺りは「輪中(わじゅう)」のひとつで河川が幾筋も流れ、水との戦いに苦しんでいた地域だ。江戸時代には輪中で村々を水害から守っていたが、明治以降の木曽川・長良川・揖斐川の大規模な治水事業が進み水害が激減したため輪中の必要性がなくなり多くが取り壊されている。田畑や住宅が点在する真っ直ぐな道を進むと、前方の伊吹山もその姿がだんだん大きくなってくる。樽見鉄道の踏切を渡ると美江寺宿に着く。