中山道美江寺宿から赤坂宿までを歩く | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

中山道美江寺宿から赤坂宿までの経路と主な遺構など。

 

樽見鉄道の踏切を渡ると美江寺宿へ入る。入口の「美江寺東口」バス停の傍に道標(一部を画像処理)が置かれていて、「右岐阜加納ニ至ル」「左北方谷汲ニ至ル」と彫られている。大正12年(1923)建立というからまだ新しい。その先の街道際に「美江寺一里塚跡」の碑が建てられているが、ここは江戸から108里目の一里塚である(右)。

 

その先右側に見えてくるのが「美江神社」で、歴史は古く、平安時代の「美濃国神明帳」に美江明神という記載が見られる。また斎藤道三によって稲葉山城下に移された美江寺があった場所でもある。美江寺は奈良時代に建立された「美江寺観音」が地名の起源で、門前町として賑わっていたのだが、戦国時代に斎藤道三によって本尊の十一面観音が井の口(後の岐阜)に移され寂れてしまった。しかし地名は残り、寛永14年(1637)に中山道の宿駅として制定されると再び賑わいを取り戻した宿場である。美江寺宿は江戸から数えて55番目の宿場で、宿自体の規模は小さく脇本陣もなく旅籠は11軒しかなく、泊る旅人も少なかったという。

 

境内には美江寺宿跡の碑や中山道分間延絵図などの宿場の説明板、復元高札場、美江寺観音堂がある。分間延絵図のように枡形(現在はT字路)になっていた(左上)、境内の奥には明治36年(1903)に再建された観音堂が建つ。昔の「美江廃寺旧地」で、ここにあった本尊十一面観音は岐阜に移されたため廃寺になった(右上)、当時の姿を再現した高札場(左下)、美江神社を左折して少し行った所に本陣跡の碑が置かれているが建物は残っていない(右下)。本陣跡の石碑を過ぎるとL字型の宿場、美江寺宿を離れる。           

 

本陣前の街道を進むと再び枡形道で右へ曲がったところに道標「左大垣墨俣ニ至ル」「右大垣赤坂ニ至ル」がある。右折してすぐ右手に見えるのが美江寺千手観音堂で、祀られているのは天保4年(1833)に寄進された石造千手観音。観音堂脇に「中山道美江寺宿THEN&NOWフォトスポット」の案内板がある。ここが歌川廣重が美江寺宿を描いた「木曽海道六拾九次之内みゑじ」と同じ場所という。

右上は天保8~9年(1837~38)頃、右下は現在様子。

 

千手観音堂から犀川に架かる新月橋を渡った突き当りに、鎌倉後期~南北朝時代のものと伝えられる千体の木造が安置される千躰堂がある(左)。ここを南に折れ犀川沿いの道を進むと、「アクアパークすなみ」と名づけられた公園施設の築山にぶつかり、旧中山道の石標が二つ、間隔を空けて(道幅を示す)立っている。中山道はこの公園から田畑の中を真っすぐに延び、揖斐川に突き当たる。しかし、この揖斐川はもともとこの場所ではなく、大正14年(1925)の河川改修工事により川の流れを直線化、旧揖斐川(呂久川)が東へ300m移動してできた新しい揖斐川である。かつては美江寺宿~呂久の集落(小簾紅園[おずこうえん]がある)は地続きだったが、新しい揖斐川で分断されたのである(右上)。アクアパークみなみ辺りの街道両側には戦前まで松並木があったが、その後の土地改良等で消滅した。松並木の写真の案内板も立っている(右下)。

 

そんな現在の揖斐川に架かる鷺田橋を渡り、呂久の集落に入る。ここに皇女和宮ゆかりの「小簾紅園」がある。小簾紅園は、文久元年(1861)10月26日、孝明天皇の妹である皇女和宮が徳川家茂の元に嫁ぐために、中山道で江戸に下った折、呂久川(現揖斐川)の呂久の渡しを利用した際に、「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」の和歌を詠んだという。このことを記念し、昭和4年(1929)に歌碑を中心に日本庭園として整備、開園した史跡公園である(左上)、入り口には「和宮御遺跡」の石碑、「揖斐川呂久渡船場跡」の石柱や呂久の渡し、渡船場跡の詳しい説明板が置かれている(左下)、和宮親王の和歌「おちてゆく身と知りながらもみじばの人なつかしくこがれこそすれ」の歌碑(右)。

 

小簾紅園を過ぎ、平野井川を渡り大垣輪中の大島堤と呼ばれる堤防の坂道途中に「坂下の道しるべ」がある。「左木曽路 右すのまた宿道」と刻まれた道標で、ここから南に進むと美濃路の墨俣に行けるが、このルートを紀州藩の行列が通っていたので紀州街道と呼ばれている(左、右上)、坂を上りきる手前で堤防を下り平野井川沿いに行くと、対岸にこじんまりした神明宮が見えてくる。この辺りにかつて「柳原の一里塚」があったというが、現在では神明宮境内前に説明板があるだけだ。なお、一里塚が中山道を外れているケースは非常に珍しいという(右下)。  

 

大垣輪中の堤防道路を下り、平坦な住宅街の道を西へ進むと、交差点手前の右側に「道標聖観音菩薩」という石標が立っている。聖観音はコンクリート製の小さな祠に納められている。祠の中の石仏(観音像)の光背には左右にそれぞれ「右ぜんこうじ道」「左谷汲山ごうどいび近道」と刻まれている。今は祠の中に入ってしまったが、かつては道標として置かれた石仏だったのであろう(左)、道標聖観音を過ぎ道なりに西進すると、中山道の「七回り半」が始まる。平坦な田んぼの中の道をどうして直角に何度も曲る道にしたのだろうか。何曲がり目かの人家の前に「中仙道七回り半」の真新しい石標がある(右)。 

 

七曲がり道の真上を東海環状自動車道が通っている。七回り半を抜けた中山道は住宅が点在する田んぼの中の道を進み、近鉄揖斐線の東赤坂駅前踏切を越えていく。踏切を渡って左に入っていく道が中山道で、その先に「青木の一里塚跡」の石碑が人家の脇にあるはずだが、見つけられなかった。程なくして杭瀬川を渡ると赤坂宿へ入る。やがて、旧杭瀬川に架かる赤い欄干の橋を渡ると赤坂宿で、渡る前に左側に「赤坂宿御使者場跡」碑(右)が見える。大名が宿場に入る際、宿役人や名主が出迎えた場所という。赤坂の街の東を細く流れるのが旧杭瀬川で、今では想像もできないが、江戸時代には「赤坂湊」が設けられ舟運が大正時代まで続いていた。後に鉄道が敷かれると舟運は急速に衰退、現在では公園にその姿を残し、当時の常夜燈が残るだけである(左)。

 

赤坂湊跡を過ぎると、街道左手に赤坂宿本陣跡がある。現在は赤坂本陣公園となっており、入り口に和宮の顕彰碑がある。本陣の建坪は239坪といわれかなり大きなものものであったが、建物は失われてしまっている。文久元年(1861)10月25日、和宮はこの本陣に宿泊している。写真右は歌川廣重画「木曽海道六拾九次之内赤坂」。赤坂宿は中山道六拾九次の56番目の宿場町として栄え、東西に連なる町筋は本陣、脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、美濃国の宿場町として繁盛した。

 

本陣跡の少し先の四ツ辻は、南へ進むと伊勢神宮へ通じる養老街道の起点(上)、北へ行くと西国三十三所観音霊場の満願所である谷汲山華厳寺に至る谷汲巡礼街道の分岐点(下)と、そして中山道が交叉する赤坂宿の中心地である。ここには赤坂宿碑や谷汲への道しるべ(道標の一面に「左たにくみ道」、もう一面に「谷汲山観音夜燈」と刻まれている)が置かれている。

 

四ツ辻のすぐ西に脇本陣跡の碑がある。ここは飯沼家が宝暦年間以後脇本陣を勤め、問屋と年寄役を兼ね明治まで及ぶ。以後榎屋の屋号を用いて旅館として現在も営業している(左)、街道から100mほど南に入った所に「お茶屋屋敷」がある。徳川家康が上洛するために、四里ごとに将軍家専用の休憩および宿泊所として造営したもので、現在その遺構が残っているのは赤坂宿のここだけだという。明治維新後は民間に払い下げられ、東海一のボタン園として無料公開している(右)。

 

赤坂宿の長さは七町十八間(780m)、宿内人口は1,129人、家数は292軒だったといい、道の両側には今も旅籠風の建物や古い建物も残っている(左)、赤坂宿の外れ(垂井宿側)の「赤坂宿御使者場跡」 の石碑(右)。