1863年5月22日、小笠原諸島父島二見港(Port Lloyd)に到着した壹番丸船長の中濱萬次郞は、旧知の父島在住外人の頭目ナサニエル・セボレー(米国人)に、壹番丸が父島を拠点として行う捕鯨事業への協力を要請し快諾を得ました。

 

ナサニエル・セボレーに協力を要請する中濱萬次郞 created with AI 

 

ナサニエル・ボレーへの要請は、壹番丸に搭載する米国式手漕ぎ捕鯨ボート(rowing whaleboat)の建造と、そのボートで鯨を追い詰めてとどめを刺す技量を持った外国人クルー、即ち艇長(boatheader)、補佐役の銛打ち(harpooner)、および漕ぎ手(oarsmen)の雇用でした。

 

ナサニエルから紹介された候補者達と面接を進めた結果、艇長として米国人のベンジャミン・ウィリアムズ、その補佐役となる船首漕ぎ手兼銛打ちとして米国人のトーマス・ホーツンを採用。さらに漕ぎ手として米国人のジョン・スミス、英国人のウィリアム・スミスと英国人ジョージ・ホートン、名前不詳1名を採用しました。

 

米国式捕鯨ボートの外国人乗組員    created with Gemini AI

 

米国の大型捕鯨帆船の乗員んでいた時代、自らもボートの要職を経験していた中濱萬次郞は、採用した外国人クルーの洋上における連携作業の向上訓練を実施。さらに彼らと壹番丸の日本人水夫による、捕鯨ボートの揚げ降ろしの連携訓練も繰り返し行いました。

 

艇長・銛打ち・漕ぎ手による実践訓練を行う中濱萬次郞 created with AI

 

また米国式捕鯨ボートに見習いとして乗り込む日本人水主(水夫)に対しても、徹底した指導が行われました。逃げる鯨をボートで追走し、返しのついたロープ付きの銛を打ち込み。そして時速数十キロで逃走する鯨に引きずられながら体力を消耗させ、最後は手槍(Lance)で仕留めるという勇猛果敢な米国式捕鯨(American whaling)の教育です。
 

命がけの米国式捕鯨 (WEBより拝借)
 

1頭の鯨を約20艘の和船群団で浅瀬の湾内に追い込み、網で囲いこんで捕獲する伝統的な「日本式網捕り捕鯨」しか知らなかった日本の水夫たちにとって、僅か6人乗りの捕鯨ボート1艘で外洋へ乗り出し、手投銛(harpoon)、鯨猟砲( whaling gun )、爆裂銛(bomb lance)を駆使して巨大な鯨を仕留める米国式の追撃法は、想像を絶する衝撃だったに違いありません。

 

浅瀬に鯨を追い込んで網で囲って捕獲する日本式網捕り捕鯨 作図:AI

 

一方、壹番丸の運航を担う日本人士官(武士)に対しては、中濱萬次郞自らが教師となりました。世界基準の天文航海術(Celestial Navigation)、測量術(Navigation Skills)、運用術(Whaling ship operations)、そして球体地球論に基づく海図(Nautical Charts)の読解力を叩き込み、上達を図りました。

 

壹番丸の日本人士官に天文航法を教える中濱萬次郞 作画:Gemini AI

 

こうして日本人技術士官と水主(水夫)、そして外国人クルーの訓練を終えた船長・中萬萬次郞率いる壹番丸は、日本初の米国式捕鯨を成功させるべく、1863年6月3日、父島・二見港を出港しました。

 


日本初の米国式捕鯨を行うために父島を出港する壹番丸  作図:Gemini AI

 

壹番丸が目指したのは、父島の南方約50kmに位置する母島、姉島、妹島、姪島などの島々が連なる"Coffin Islands"(和名:母島列島)の沖合でした。この海域には、上質な脳油(鯨油)が採れる抹香鯨(マッコウクジラ)の好漁場であり、当時も欧米の大型捕鯨帆船が集結する海域だったのです。

 

欧米の大型捕鯨帆船が集まる絶好の漁場"Coffin Islands"の沖合

 

母島列島沖に到着した壹番丸は、搭載していた捕鯨ボートを海へと下架。先ずは組立式のマストと帆をセットし、広大な大海原を回遊する鯨を探し始めました。
 

組立式の帆柱に帆を張って鯨を探索する捕鯨艇 作図:Gemini AI

 

出漁して間もなく、幸運にも捕鯨艇の前方に回遊中の抹香鯨(Sperm whale)を発見。米国人艇長ベンジャミン・ウィリアムズの命令一下、帆走を止めてオールを漕ぐ操櫂(Rowing)に切り替え、一気に距離を縮めて標的の抹香鯨へと迫りました。

 

操櫂(Rowing)で抹香鯨に迫る捕鯨艇 作図:Gemini AI

 

次回に続きます。