1860年6月24日に米国から帰国して軍艦操練所教授に復帰していた中濱萬次郞(満34歳)に、幕府老中 兼 外国奉行の安藤信正(磐城平藩主・いわき市)が主管する咸臨丸による小笠原諸島実地踏査の仕事が舞い込みます。
小笠原諸島実地調査団の主たる目的は、①当時小笠原諸島の父島に定住して独自のコミュニティを築いていた欧米系島民とポリネシア系島民に対して、「小笠原諸島は幕府の領土」であることを周知徹底すること。 ②小笠原海域の島々の真景図(地図)作成と資源調査を行い、今後の開拓経営の足がかりを築くことでした。
小笠原諸島 (WEBより拝借)
聟島列島、父島列島、母島列島、硫黄列島、西之島、南鳥島、沖の鳥島
小笠原諸島実地調査団の主たる幕府官吏団は、調査団長 水野筑後守忠徳(小笠原島開拓奉行)、随行員 小花作助、目付 服部帰一、咸臨丸指揮官 伴鉄太郎、咸臨丸船将 小野友五郎(艦長各)、そして中濱萬次郞でした。
中濱萬次郞の役割は、天文航法の測量方 兼 島々の真景図(地図)作成支援 兼 英語を話す欧米系の先住島民との交渉役 兼 通訳でした。
団長 水野筑後守忠徳、 艦長各 小野友五郎
幕府官吏団以外の技術員としては、真景図(地図)の測量員、地質調査員、動植物調査員、大工職、鍛冶職、船大工職、さらに小笠原諸島に入植を希望する八丈島の住人38名(夫婦15組含む)も咸臨丸に同乗していました。
1862年1月3日(文久元年12月)、総勢100名余りを乗せたた咸臨丸は品川沖を発して江戸湾口に至るも、悪天候に阻まれて下田港に避難。1週間の天気待ちをしてから小笠原諸島に向けて出港します。
1862年1月(文久元年)小笠原諸島の父島に向う咸臨丸 (WEBより拝借)
1862年1月18日、咸臨丸は、江戸から約1,000km離れた小笠原諸島父島の北西部に位置する奥行き約4kmの天然の泊地・二見湾に到着します。
但し当時の小笠原諸島には正式な日本語の島名はなく、古くから先住していた欧米系島民が使用していた伝統的英語名称(Indigenous Place Names)があるだけでした。
その伝統的英語名とは、1827年に来航した英国海軍の Frederick・W・Beechey艦長が命名した「Bonin Islands」 (小笠原諸島)、英国首相の姓名にちなんで命名した「Peel Island」(父島)、英国海軍水路部長の姓名にちなんで命名した「Port Lloyd」(二見港)等です。
これらの伝統的英語名称の類いは、小笠原諸島が日本国の領土として国際的に正式に承認されることになる1876年(明治9年)まで続くことになります。
1876年(明治9年)日本領有が決定した当時の父島二見港(WEBより拝借)
1827年に英国海軍のBeechey艦長によって小笠原諸島(Bonin Islands)が発見される以前の日本と関連する歴史まで遡ると・・・
安土桃山時代の1593年に豊臣秀吉の許可を得て南方探検を行った小笠原貞頼が発見したとする伝承があるのですが、それを立証する第一級の歴史的資料は見つかっていないようです。
その後1675年に幕府直轄の長崎奉行所配下の勘定衆 嶋谷市左衛門が小笠原諸島の調査に出向き、父島、母島、兄島、弟島、姉島、妹島などの島嶼名と父島内の大村、奥村、須崎等の地名を表示した「無人島之図」を作成したことが確認されています。
嶋谷市左衛門は、父島に八幡大菩薩、天照大神、春日明神の三神を祀る小祠を造営し、その傍らに「大日本之内也」と記した標柱を立てて日本の領土であることを示したのですが・・・その後に入植する者もないままに「無人島」(ぶにん島)として放置されてしまいます。
父島の嶋谷市左衛門 小笠原諸島巡検記念碑 (WEBより拝借)
1772年、長崎出島 阿蘭陀商館のエルゲルベルト ケンペル医師の遺稿を譲り受けた英国人ハンス・スローンが刊行した「The History of Japan」には、嶋谷市左衛門が上陸して巡検した小笠原諸島のことを「Islands Bune」(無人島)として表記されています。
その後1729年に「The History of Japan」のフランス語版とオランダ語版、1777年にはドイツ語版も出版されたことにより、小笠原諸島を意味する「Islands Bune」(無人島)は、欧米諸国で広く知られるようになります。
「The History of Japan」を刊行した英国人ハンス・スローン
1827年、無人島の小笠原諸島に来航した英国海軍ブロッサム号のビーチ艦長は、この無人島を英国領の「Bonin Islands」と書き記した銅板を木に打ち付けています。
1830年、米国人のナザニエル・サボリーをリーダーとする白人5人(米国人、英国人、デンマーク人)とポリネシア人系男女15人がサンドイッチ諸島(現:ハワイ諸島)から「Bonin Islands」の「Peel Island」(父島)に入植して開拓に着手します。
歴史的に海外の人々が小笠原諸島のことを「Bonin Islands」とか「Islands Bonin」と呼ぶ理由は、
1772年に英国人ハンス・スローンが「The History of Japan」の中で表記した「Islands Bune」からの転用ですが・・・
その原典は、1675年に嶋谷市左衛門が小笠原諸島巡検後に作成した「無人島之図」(ブニンジマの図)に由来すると思われます。日本語の「ブニン(無人)」の発音が、外国人には「Bonin」(ボニン)と聞こえた?或いは「無人」(ブニン)の発音が転訛して「Bonin」になった?との諸説が伝わっています。
中濱萬次郞が咸臨丸で訪れた1862年には、ナサニエル・セーボレーの子孫を含む欧米系人とポリネシア人約50名が「Peel Island」(父島)に定住していました。
小笠原の父島に定住する欧米系島民 (WEBより拝借)
1853年、米国海軍の黒船4隻(蒸気船2隻・帆船2隻)を率いたマシュー ペリー司令官は、日本の浦賀に渡航する前に、「Bonin Islands」(小笠原諸島)の「Peel Island-Port Lloyd」(父島・二見港)」に寄港しています。
マシュー ペリー司令官は、「Peel Island」(父島)に定住するリーダー格の米国人ナザニエル・サボリーサボリーから黒船の貯炭地として土地を買収。彼を「Bonin Islands」の 植民地政府長官に任命したことから、英国との間で揉め事を起こしています。
WEBより拝借した写真をhiro-1が加工
日本人が初めて小笠原諸島の父島に移住したのは、先述したように咸臨丸で1862年に八丈島等から入植した38名(男23人、女15人)と父島に駐在した幕府役人でした。
しかし幕末の1862年9月14日の薩摩藩による生麦事件によって英国政府との軍事的緊張が高まり、さらに 幕府と長州(現:山口県)の政争激化によって余裕のなくなった幕府は、小笠原諸島の開拓を翌年に中断。幕府駐在役人と日本人入植者の引き揚げを行っています。
WEBより拝借した写真をhiro-1が加工
日本人が本格的に小笠原諸島に定住するのは、1876年(明治9年)の日本領土確定以降になります。1876年当時の外国系島民(欧米系とポリネシア系島民)は71名ですが、1882年になると外国系島民の60名以上が日本に帰化したとの記録があります。
1944年、小笠原諸島の軍事要塞化により、軍属や徴用を除く約7,000人の島民は、日本本土へ強制疎開となり、不慣れな内地生活を強いられています。
1946年、日本を統治していたGHQは、日本内地に強制疎開させられていた欧米系島民家族の中から、1830年に最初に定住した英語を話すキリスト教徒の米国系のセボレー家やギルレー家などの子孫を中心とする129人だけに帰島を許可。但し約7,000人の島民は、1968年に小笠原諸島が日本に正式返還されるまで帰島することができませんでした。
2025年8月時点の小笠原諸島の総人口は、2,459人(父島2040人、母島419人)となっています。「外国系島民」( Bonin Islander)の人口は、現在では未公表となっていますが、概ね約200人前後と推定されているようです。
今でも1830年以降に入植した先祖を持つ「欧米系島民」( Bonin Islander)とハワイ・ポリネシア由来の文化を愛する人々は、濃紺色の美しい海を「Bonin Blue」と呼んでこよなく愛し、英語と日本語が混合した独自の小笠原方言(Bonin English)を継承しているようですね。
今回のブログは、中濱萬次郞の小笠原諸島での仕事ぶりを書くつもりだったのですが、意に反して小笠原諸島の歴史に少しばかり深入りしてしまいました。
次回ブログでは、小笠原諸島で中濱萬次郞が行った仕事について書きたいと思います。










