明治初期から昭和期にかけて、日本の漢字と仮名を廃してローマ字を導入する際に、ヘボン式ローマ字にするか、日本語式ローマ字にするかの論争も、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦によって下火になってしまったのですが・・・

 

ポツダム宣言執行のために進駐して来たGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のDouglas MacArthur総司令官は、 日本大改革の政策として、軍国主義と帝國陸海軍の壊滅、極東軍事裁判の断行、天皇制の継続、明治憲法の廃止と日本国憲法の制定、総選挙実施、農地改革断行、思想統一の撤廃、神道の非国教化、健全な学校教育制度の刷新、そして日本文字の漢字と仮名を廃してローマ字化する改革を強力に推進します。

 

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)第一生命館

 

GHQの多くの改革の中で、思想統一の撤廃、神道の非国教化、健全な学校教育制度の刷新、そして日本文字の漢字と仮名を廃してローマ字に一本化する計画を担ったのは、GHQ幕僚部の民間情報教育局(略称:CIE)の初代局長・Kermit Reed Dyke(下写真)でした。

 

GHQ民間情報教育局長・Kermit Reed Dyke

 

GHQ・CIEの初代局長・Kermit Reed Dyke(元米陸軍准将)は、日本の現状の学校制度と教育内容を調査して今後の日本人教育のあるべき姿を構築するために、イリノイ大学長のDr.George D. Stoddard(下写真)を団長とする第1次米国教育使節団を1946年3月5日に招請し、3月30日に調査結果を受け取っています。調査来日から報告書提出まで1ヵ月弱というのが気になりますが・・・

 

米国教育使節団長・Dr.George D. Stoddard

 

第一次教育使節団報告書(下写真)には、米国的民主制教育の導入、中央統制の画一的教育の廃止と国定教科書の廃止、国史・修身・地理の停止、義務教育課程を6年間から9年間に延長、教員養成機関の師範学校を大学に格上げする等々の大改革案に加えて・・・

 

日本の表記文字である漢字、平仮名、片仮名を廃止してローマ字のみに一本化するという提案が含まれていました。これから先は、「日本国字の表記文字をローマ字のみにする」という項目にに的を絞って書き進めることにしたいと思います。

 

米国教育使節団 第1次調査報告書 1946年3月30日

 

第一次教育使節団報告書の「日本国字の表記文字をローマ字のみにする」事項の冒頭には、日本人にも難解な漢字を廃してローマ字に一本化する決意は、本来ならば日本国民の意志から湧き出ることが望ましいが、それが期待できないようであれば、如何なる方面からの刺激であろうとも差支えないとも記されていました。

 

外国人でも習得し易い表音表記のローマ字に切り換えるための調査活動を支援するために、GHQの要請により日本の言語学者、教育指導者による国語審議機関も設置されました。(第1次米国教育施設団帰国後に解散)

 

 

米国による植民地国の国字改革の歴史と言えば、米比戦争1899年~1902年)に敗れて約40年以上にも亘って米国に植民地統治されたフィリピンの事例が思い浮かびます。

 

米比戦争(1899年-1902年)

 

約1,000島の群島を有するフィリピ国には、タガログ語やビサヤ語を含む約100語の諸言語の表音表記文字であるベイバインと呼ばれる歴史的独自文字がありました。(下図)

 

1902年にフィリピン全土を統治した駐比米軍司令官(実質的植民地総督)は、判読困難な古代インドのブラーフミ系の表記文字とされるベイバインを強引に廃止して、外国人にも読めるアバカダ式(ABCD式に一本化してしまいます。(下図)

 

独自文字のべイバイン文字とABC文字(アバカダ式)の対比

 

あれから120年以上経過した今のフィリピン国で、ベイバインを読み書きが出来る人は、極少数の専門的言語学者だけになってしまったそうです。

 

米比戦争当時、米国義勇軍の師団長(准将)を務め、後に陸軍中将に昇進してフィリピンの実質的植民地総督となった駐比米軍司令官は、Arthur MacArthur, Jr.(下写真)でした。

 

Arthur MacArthur, Jr.とは、既にお気づきと思いますが、後年になって大東亜戦争(太平洋戦争)の敗戦国・日本を占領統治したGHQ連合国最高司令官・ダグラス・マッカーサー将軍の実のお父さんでした。(下写真)

 

Arthur MacArthur, Jr. 陸軍少将

1845年生~1912年没 最終階級:陸軍中将

 

1903年に陸軍士官学校を卒業した息子の"Douglas MacArthur"は、自ら希望して父親が総督を務めていたフィリピン国の駐比米軍工兵部隊の新任少尉として赴任しています。(下写真)

 

陸軍士官学校卒業時のDouglas MacArthur少尉

 

父親の"Arthur MacArthur, Jr"は、1905年に日露戦争の観戦任務のために駐日米国大使館付き武官として転出した時、息子の"Douglas MacArthur太尉"(当時25歳)を自分の副官として帯同。日露戦争の沙河会戦の観戦現場にも同行していたと思われます。(下写真)

 

日露戦争沙河会戦の観戦武官団(13カ国70人以上)

 

40年後の日本に、GHQ連合軍最高司令官として着任した"Douglas MacArthur"は、1945年9月27日に東京のアメリカ大使館公邸で天皇陛下と第1回会見(下写真)をしていますが、その折に40年前の日本駐在時代に駐日武官の父親の副官として、日露戦争の沙河会戦を観戦した時の懐古話をした事を親しい仲間に語っていたとの伝聞があるようです。

 

天皇陛下とマッカーサーの第1回会見 1945年9月27日

 

"Douglas MacArthur"が天皇陛下に語った懐古談の中には、1905年に日露戦争の沙河会戦観戦時に、大山巌元帥、乃木大将、黒木為楨大将、東郷平八郎大将と面談した時の思い出が含まれていたと伝わっているようですね。

 

これまた伝聞ですが、"Douglas MacArthur"は、乃木大将の「敵に恥をかかせない」という言葉に強い感銘を受け、これを彼自身の生涯の信条としたこと、そして彼の居室に乃木大将の写真が飾られていた・・・と書いている日本人著述家もいるようですね。

 

聴くところによれば、"Douglas MacArthur"と乃木大将の会見については、日本側の公的記録には記載されていないようですね。

 

僕の手元にあるマッカーサ回顧録(下写真)にも、明治の高級軍人と面談したとか、乃木大将の言葉に感銘を受けて自分の生涯の信条にしたとの記述は、全く無かったと思います。

 

 

そしてフィリピンの統治をしていた父親が独自文字のベイバインを廃して、アバカダ式(ABCD式)の表記文字に変更した時、"Douglas MacArthur"も現地工兵隊将校(少尉~中尉)として体験していたのですが、その事についての記述もまた回顧録では触れられていませんでした。

 

いつもの如く話しが大きく横道に逸れてしまいました。

次回ブログでは、米国教育使節団の勧告に従ってGHQ幕僚部の民間情報教育局の世論社会調査課長・John Campbell Pelzel(元海兵隊予備役少佐)が日本漢字と仮名を廃してローマ字表記に一本化する国語改革計画を強力に進めようとした話題に戻したいと思います。

 

数ヶ月前に拙ブログのテーマを「季節の花」から「歴史の一齣」に変更してから、ブログ投稿の頻度が月1回ペースに激減してしまいました。

 

今後はもう少し書き癖を回復するために、「歴史の一齣」と「季節の花」を交互に書くようにすることも考えてみたいと思ったりしているのですが・・・今少し考えて決めたいと思っています。