2月13日の拙ブログで、長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾(通称:ファットマン)と同一の形状と質量を持たせた模擬原子爆弾(通称:パンプキン爆弾)が日本の18の都道府県30カ所で49発投下された事について書いたところ・・・

 

左:長崎型の模擬原爆 右:長崎型のプルトニウム型原爆 WEBより拝借

 

読者の友人から、「18の都道府県名と30箇所の投下場所を教えて」との依頼があり、その内容をメールに書いて送りました。30箇所の投下された地名と49発の詳細は、此処では割愛しますが、18の都道府県名は下記の通りです。

 

「日本海側」  新潟、福井、御御山、福島 「東海地区」 静岡、愛知、岐阜 「関東地区」 茨城、東京、 「近畿地区」  和歌山、三重、滋賀、京都、兵庫、大阪  「四国地区」 徳島、愛媛  「瀬戸内海区」 山口

 

日本軍がポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)を受諾したのは8月14日ですが、日本軍の戦闘停止を告げる「玉音放送」(大東亜戦争終結ノ詔書)は8月15日でした。

 

しかしポツダム宣言を受諾した8月14日にも、長崎型の模擬原子爆弾は、名古屋のトヨタ工場(3発)と名古屋造幣所(4発)に投下されていました。

 

プルトニウム型原爆の模擬爆弾 WEBより拝借

 

8月6日の広島への原爆投下と8月9日の長崎への原爆投下後も、そして8月14日のポツダム宣言受諾の当日も、米軍による模擬原子爆弾の投下訓練が行われていたことになるのですが・・・これは何を意味するのでしょうか?

 

連合国としては、日本との戦争終結交渉の如何によっては、いつでも3発目のプルトニウム型原子爆弾を投下する意図があったのかも・・・と思ってしまうのですが・・・天皇陛下の肉声による大東亜戦争終結の放送(玉音放送)によって、どうやら事なきを得たようです。

 

天皇陛下の肉声による「玉音放送」を聴く国民

 

大東亜戦争(太平洋戦争)が終った時のテニアン島の爆弾庫には、66発のプルトニウム型の模擬原子爆弾の在庫が残っていたそうですが、全て北マリアナ諸島の海に廃棄されたそうです。


そして、ウラン型原子爆弾(広島型)とプルトニウム型原子爆弾(長崎型)、長崎型原爆の模擬原子爆弾の組立を行ったテニアン島のBOMB ASSEMBLY AREA(下写真)も廃棄されました。

上写真 テニアン島内の原子爆弾の組立工場 WEBより拝借 

上写真 左:広島型原爆 右:長崎型原爆 WEBより拝借

 

原子爆弾の組立工場は更地になりましたが、B29 爆撃機の胴体内に原子爆弾と模擬原子爆弾を積み込むための半地下構造の原爆ピットは、現在もB29爆撃機の元駐機場跡に、保存用の屋根を取り付けて遺されています。(下写真)

 

上写真 原爆ピットの記念碑 WEBより拝借

上写真 半地下構造の原爆ピット WEBより拝借

 

原爆ピットが半地下構造の理由は、原子爆弾が大きすぎてB29爆撃機の爆弾倉に積み込めないので、地面を2m掘り下げて油圧ジャッキで押し上げてB29に積み込むためでした。(下写真)

 

上下写真 油圧ジャッキ装備の半地下の原爆搭載ピット WEBより拝借

 

上掲写真の原子爆弾は、広島に投下されたウラン型の原子爆弾(Little boy)ですが、長崎に投下された特大のプルトニウム型原子爆弾(Fatman)と同一の形をした模擬原子爆弾(パンプキン爆弾)の搭載は、さぞかし大変だったろうと思います。

 

長崎型の模擬原子爆弾(パンプキン)

 

B29爆撃機による焼夷弾攻撃で焼け出され、原子爆弾投下による余波を幼児体験した僕ですが、その事がPTSD(トラウマ)になっていると思った事は、今まで一度たりともないのですが・・・

 

老いた今になっても、B29爆撃機のことを「ビィーコウ」と呼び、原子爆弾のことを「ピカドン」と言ってしまう癖が抜けないのは、如何してなのでしょうか?

 

おそらく後年になって、大人から何度も聴かされていたのですが、「ビーコウ」が落とした「ピカドン」が炸裂した瞬間、目や耳を押さえて路上にうつ伏せたとか、爆風で尻もちをついたとか、(僕は飛び散った天井板や襖などの下敷きになったのですが)・・・広島市内で被爆して逃げて来て亡くなった多くの犠牲者を学校の運動場に積んで焼却した・・・等の話の記憶が影響しているのかもですね。