昨年末のCNNのニュースだったと思いますが、大東亜戦争(太平洋戦争)の末期、日本の市街地への度重なる空襲、そして広島と長崎に原爆を投下した米陸軍航空隊のB29戦略爆撃機が出撃した北マリアナ諸島テニアン島の飛行基地を、7800万US$(約109億円)の予算規模で再建する計画があることを報じていました。 

 

北マリアナ諸島テニアン島の位置 WEBより拝借

 

その狙いは、環礁を埋め立てしてミサイル発射基地の建設を強引に実施する中国共産党軍、そして核弾頭搭載可能な巡航ミサイルの開発と発射訓練に猛進する北朝鮮軍を想定して、攻撃対象となるアジア地域の米軍基地を分散化して優位性を保持する「迅速な戦闘運用戦略」(ACE)の一環だと思われます。

 

北朝鮮軍の巡航ミサイル WEBより拝借

 

1945年(昭和20年)当時、米軍第509混成部隊が駐留していたテニアン島の「North Field」は、2590mの滑走路4本を擁する世界最大級の飛行場でした。(下写真)

 

そして日本の工場地帯への爆弾攻撃➡市街地への無差別焼夷弾攻撃➡市街地への原爆模擬弾の投下➡広島と長崎に原子爆弾を投下したB29戦略爆撃機の出撃基地でもありました。(下写真)

 

1945年当時のテニアン島の飛行場 WEBより拝借


1945年8月6日、テニアン島のABLE滑走路から出撃したB29爆撃機「Enola Gay」は、午前8時15分17秒に広島市街地にウラン型原子爆弾(通称:リトルボーイ)を投下。最初の爆発で7万人が亡くなったと聴いています。(下写真)

 

実を言いますと、1945年7月2日未明、当時山口県宇部市に在住していた僕は、B29爆撃機の焼夷弾攻撃で自宅を焼かれて着の身着のまま広島の母親の実家に逃れたのですが・・・

 

その広島でまたもやB29爆撃機の投下した原子爆弾の爆風で飛散した天井板、欄間、障子、襖の下敷きになって泣きじゃくっていたという幼児体験があります。

 

広島市街地に原爆投下したB29Enola Gay号 WEBより拝借

 

広島への原爆投下から三日後の8月9日、B29爆撃機「BOXCAR号」が投下候補地の小倉市に向かうも天候不順のために次の候補地の長崎市上空に至り、午前11時2分にプルトニウム型原子爆弾(通称:ファットマン)を投下。最初の爆発で約4万6千人の命が奪われたそうです。(下写真)

 

廃墟となった浦上天主堂近辺 WEBより拝借

 

大東亜戦争(太平洋戦争)で日本本土攻撃を担ったテニアン島の米軍基地(North Field)は、1946年以降に「テニアン国際空港」として運用開始となります。

 

しかしその規模は、米国自治領のサイパン島から15分のフライトで飛来する一日三便の民間会社の小型プロペラ機と観光目的のチャーター便が運航されているだけのようです。(下写真)

 

現在のテニアン島の飛行場 WEBより拝借

 

旧米軍基地内にあった原子爆弾の組立工場は、既に廃棄されていますが、高濃縮ウラン型原爆とプルトニウム型原爆の一時保管とB29爆撃機への原爆積み込みを兼ねていた半地下構造の原爆搭載ピットが滑走路北西端のB29爆撃機の駐機場だった広場の左右に保存されています。(下写真)

 

原子爆弾の積み込みピット WEBより拝借

 

ウラン型とプルトニウム型原子爆弾の設計・開発・製造、そしてアラモゴード砂漠で人類初の核実験を担ったのは米国ニューメキシコ州のロスアラモス研究所でした。

 

核実験の成功を確認したロスアラモス研究所は、テニアン島まで原子爆弾を搬送する梱包仕様として、原子爆弾を分解して組立部品と核材料からなるコンポーネントを完成します。

 

原子爆弾を開発・製造したロスアラモス研究所 WEBより拝借

 

僕の想像では、原子爆弾のコンポーネント梱包をテニアン島まで運んだのは、当時すでに制空権を手中にしていた陸軍航空隊B29戦略爆撃機だろうと思っていたのですが・・・

 

実は然にあらず、原子爆弾のコンポーネントが運び込まれたのは、意外にもサンフランシスコ南部のハンターズポイント海軍造船所でした。(下写真)

 

米国が制空権を手中にしていた空路ではなく、日本海軍の潜水艦による魚雷攻撃の可能性が高い海路を選択したのは何故なのでしょうか? 門外漢の僕にはさっぱり分りません。

 

ハンターズ・ポイント海軍造船所 WEBより拝借

 

原子爆弾を梱包したコンポーネントが積み込まれたのは、海軍造船所に修理のために入渠していた米国海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」だったのですが、艦長にもコンポーネントが原子爆弾であることは知らされていなかったそうです。

 

1945年7月16日、重巡洋艦「インディアナポリス」は、サンフラシスコの海軍造船所を出港。ハワイ準州オアフ島で燃料と物資の補給を受けてから一路テニアン島に向かいます。(下写真)

原爆をテニアン島へ運んだ重巡洋艦インディアナポリス WEBより拝借

 

1945年(昭和20年)7月26日にテニアン島に無事到着した重巡洋艦「インディアナポリス」は、原子爆弾のコンポーネント2個を陸揚げして極秘任務を終了。

 

直ちにフィリピン・レイテ沖に向けて出港します。ところが出港して四日目の7月30日、重巡洋艦「インディアナポリス」は、日本海軍の潜水艦「伊・五八号」の魚雷で撃沈されてしまいます。

 

日本海軍の潜水艦「伊・五八号」 WEBより拝借

 

歴史に「IF」はありませんが、重巡洋艦「インディアナポリス」がテニアン島に入港する7月26日以前に撃沈されていれば、広島と長崎への原爆投下は無かったのに・・・と嘆いても致し方なしですね。

 

戦後になって、撃沈の責任を問われた艦長の軍事法廷に日本海軍の伊58号の艦長が証人として呼ばれたり、戦闘中の艦長が任務不履行で有罪となる米国海軍史で初の判決が出たり、有罪判決を受けた艦長が自殺(後に無罪となり名誉回復)するという前代未聞の事態が続くのですが、それらの経緯と顛末については、次回ブログで触れたいと思います。