原始仏教の開祖である釈迦牟尼の姿を模した仏像(偶像)が初めて造られたのは、釈迦牟尼の入滅(紀元前544年)から約500年後のことでした。

 

釈迦牟尼の入滅 (撮影地:タイ国 涅槃寺)

 

約500年もの長きに亘って「無仏」の時代が続いた理由としては・・・

 

釈迦牟尼が自分の仏像(偶像)を造ることを禁止したとか、釈迦牟尼の弟子(阿羅漢)や在家信者が尊い仏陀の姿を具象化することを厳に憚ったとする説などがあるようですが・・・なにしろ2000年以上も前のことなので何も分かりません。

 

しかし、釈迦牟尼を偲びたい気持ちを強く抱いていた在家信者達は、生前の釈迦牟尼の四つの行動を懐かしみを込めて具象化することによって・・・

 

それらを釈迦牟尼の象徴として崇拝するようになります。(下記4項目)


(1)仏舎利塔:(釈迦牟尼の遺骨を収納) (2)菩提樹(釈迦牟尼が悟りを得た場所にあった樹) (3)法輪(釈迦牟尼が説法して回る姿) (4)仏足石(釈迦牟尼が降臨された姿)

 

釈迦牟尼の足跡・仏足石 (WEBより拝借)

 

前回の拙ブログで「仏舎利塔」(仏塔崇拝)について書きましたので、本日のブログでは、「仏足石」(上写真)を採りあげてみたいと思います。

 

原始仏教が誕生した当時の古代インドでは、“足は人間の体のうちで最も不浄”とされていたので、本来ならば絶対に崇拝の対象となり得る筈もないのですが・・・

 

釈迦牟尼仏の足に祈る信徒 (撮影地:バンコク)

 

釈迦牟尼の足の裏を刻んだ「仏足石」が何故に信仰の対象として崇拝されるようになったのかを、タイ人の仏教信徒に問うたところ・・・

 

最も不浄とされる足であっても、最大の敬意を払って「接足作礼、仏足頂礼」を行うことにより、釈迦牟尼への絶対的信仰の証しを示すことが出来るのだ・・・との説明でした。

 

仏足石(撮影地:タイ・サラブリ プラプッタバート寺)

 

仏足石には、「無紋略形」と「升紋形」があるらしいのですが・・・

 

僕がタイ在住時代にタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアの上座部仏教国で見掛けた仏足石の多くは、動仏、植物、天体、法具等を刻んだ「升紋形」の類ばかりでした。

 

「無紋略形」の仏足石(WEBより拝借)

 

「大般若経」には、釈迦牟尼の身体について三十二相八十種好」の特徴が網羅されていますが・・・

 

足に関しては「7相」の特徴が記されていて、その内の「足下安平立相」には、足裏と地が密着していて髪の毛ほどの隙もない”とあります。

 

釈迦牟尼の足裏は、土踏まずの無い「扁平足」だったようですね。

 

涅槃仏の足裏模様(撮影地:タイ・プレー県)

 

『日本石仏図典』(日本石仏協会編)よると・・・「奈良時代の初期に遣唐使の一員として入唐した黄書本実が「仏足跡」を転写して持ち帰ったことに始まる・・・とあります。

 

奈良県薬師寺に残る日本最古の仏足石には、「天武天皇の孫・智努王が奈良時代の天平勝宝5年(西暦753年)に奉納」との銘があるそうですが・・・

 

このデザインの元図は、遣唐使の黄書本実が持ち帰った転写絵図だったのではないでしょうか?(下写真)

 

国宝:薬師寺の仏足石(WEBより拝借)

 

仏像が造られる以前の原始仏教時代に釈迦牟尼を象徴するものとして具象化された「仏足石」への崇拝は、南方仏教の上座部仏教国だけではなく、大乗仏教(北伝仏教)の極東の地の日本にも伝えられていたことが分かります。

 

唐の玄奘三蔵の『大唐西域記』には、「仏足石」が誕生した由来が次のように記されているそうです。

 

釈迦牟尼入滅するまで世話をしていた弟子の「アーナンダ」(阿難尊者)がひどく嘆き悲しむ様子を見た在家信者が、釈迦牟尼の遺体の傍らにあった石材に釈迦牟尼の足形を転写したのが仏足石の起源なり・・・

 

釈迦の入滅を悲しむアーナンダ(WEBより拝借)

 

残念ながら、古代インドで誕生した仏教は既に千年近く前に殆ど滅んでしまい、古代中国も社会主義化されて仏教は衰退してしまいました。

 

釈迦牟尼が入滅してから約500年後、最初の釈迦牟尼の仏像(偶像)を造ったガンダーラーやマトゥーラも、今は偶像を頑なに拒否する回教徒の国になってしまいました。

 

今や仏教が息づいているのは、原始仏教の名残のある上座部仏教の南方仏教諸国と日本を含む極東に辛うじて残る北伝仏教だけとなってしまった感が否めません。

 

大乗仏教が今も日本に根付いているのは、古来から八百万神の神々を大らかに迎える稀有な民族だからなのでしょうか?

 

次回のテーマも、「無仏」時代に広く信仰された「法輪崇拝」について触れてみたいと思います。