今から遡ること14年前、在住していたバンコクから釈迦牟尼の足跡を求めてインド北東部を訪れた折に、インド西部のムンバイ(ボンベイ)を経由して、デカン高原のワゴーラ川の断崖を五百メートルに亘って掘り抜かれたたアジャンター仏教石窟群(1窟~26窟)まで足を延しました。(下掲写真)

 

アジャンター石窟寺院(画面奥の1窟から左手前26窟)

 

アジャンター仏教石窟群は、紀元前1世紀から紀元後5世紀頃にかけて上座部仏教の修行僧や信徒によって刳り抜かれ、その後は、大乗仏教徒の近隣の王侯貴族等によって掘削が行われた岩窟寺院ですが・・・8世紀頃になって、王国貴族の没落(?)によって突如として放棄され、長きに亘って忘れ去られてしまっていた岩窟寺院です。

 

アジャンター石窟の仏間(1窟)


アジャンター仏教石窟群(1窟~26窟)の中には、葬式仏教徒の僕でさえも感動を覚えるような石仏や壁画が幾つも遺っていました。書籍を読むだけでは絶対に得られないような途轍もない実経験となりました。

 

僕にとっての最大の発見は、生前の釈迦牟尼が厳しく禁止していた筈だった釈迦牟尼を偶像化した仏像が、約500年の年月を経た後に造られるようになって行く時代の流れを自分の目で確かめることが出来たことですが・・・本日は、敢えてその事から離れて、アジャンター石窟の26窟で出逢った涅槃仏について書きたいと思います。(下掲写真)

 

アジャンター石窟の全身7mの涅槃仏(26窟)

 

アジャンター石窟(26窟)の涅槃仏は、タイ国の上座部仏教寺院の涅槃仏と比べると小振り(7m)ですが、インドでは最大の涅槃仏になるそうです。インドでの釈迦牟尼の足跡を約一ケ月かけて旅する中で多くの多種多様の仏像を観ましたが、涅槃仏に出逢えたのはアジャンター石窟の26窟だけでした。(上掲写真)

 

涅槃仏の台座に掘られていた三人の高弟の像

 

涅槃仏の台座となる岩盤には、釈迦牟尼の死を嘆く三人の高弟が刻まれていました。「祈る人」、「想いに耽る人」、「悲しむ人」を表す素朴な陰影がとても印象に残りました。(上掲写真)

 

アジャンター石窟(26窟)の涅槃仏の右手の位置

 

アジャンターの26窟で、右脇を下にして横臥される釈迦牟尼の涅槃の姿形は(上掲写真)、釈迦牟尼が亡くなられるまでの時間軸を9形態に分けたスタイルの内の7番目の御姿の直前に近いものでした。

 

タイ国のナコンパトム・チェディー寺の涅槃仏

 

上掲写真は、タイ国のナコンパトム・チェディー寺に安置されている涅槃仏です。右手の位置がアジャンター石窟寺の涅槃仏よりも低い位置の敷布団上に置かれているのが分かります。力尽きてお亡くなりになった直後の釈迦牟尼の御姿と言われています。僕の表現で言うならば、9形態に分けた涅槃仏の7番目の御姿となります。(上掲写真)

 

タイ国チャイナート県の涅槃仏

 

一般的に観光客が御覧になる涅槃仏は、上掲写真のように右肘を立てて、右手を右頬に当てられた御姿だろうと思います。この御姿は、バンコクの涅槃寺として知られるポー寺にも安置されているので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

 

この涅槃仏の姿勢は、釈迦牟尼を排除しようとした仇敵の阿修羅の副王に対して、慈悲をお与えになる御姿を現した涅槃の形の一つとして伝えられています。僕の表現で言いならば、涅槃仏の9形態の内の第3番目の形態です。

 

経典には、その時のことが次のように記されています。

体調を崩して横臥していた釈迦牟尼の生命を気遣った弟子僧は、釈迦牟尼の慈悲を乞うて面会を求めて来た仇敵の阿修羅の副王の願いを拒絶したのですが・・・その声を耳にした重病の釈迦牟尼は、弟子僧の対応を制止して、にこやかに笑みを浮かべて、阿修羅の副王の願いを入れて御慈悲をお与えになった・・・とありました。

 

釈迦牟尼仏を表す数多の仏像の中で、僕が特に好きなのは「涅槃仏」、「遊行仏」、「降魔仏」ですが、まさか「涅槃仏」が紀元前から紀元五世紀頃の石窟寺院の中にあるとは思いもしませんでした。

 

それも、タイ国の上座部仏教でも多くない第7形態に近い「涅槃仏」だったとは! 小さな発見かも知れませんが、僕にとっては忘れがたい発見でした。