タイ国バンコクに在住当時の話ですが、バンコク・プラナコン区の王室仏教寺院第3級のインタラウィハーン寺に、背高なのに煎餅のように薄っぺらい仏像(身長32m、厚さ≒2m)が在ると知り、ドライブがてら、道筋を尋ねながら訪ねてみました。地元では、正式名のインタラウィハーン寺(วัดอินทรวิหาร)ではなく、「イン寺」(วัดอิน)の通称名で呼ばれていたのが道に迷った原因の一つだったかもしれません。

 

「イン寺」(วัดอิน)の背高で薄っぺらい巨大仏像 タイ観光WEBより拝借

 

「イン寺」の説明文を読むと、この寺院が建立されたのはアユタヤー王朝時代の1752年(江戸時代:宝暦2年)とありました。アユタヤー王朝がビルマのコンバウン王朝によって徹底破壊される15年前の建立です。但し創建時の寺名は、「イン寺」ではなく、「ライピリック寺」と呼ばれる上座部仏教のありふれた寺院で、「薄っぺらい巨大仏像」(上掲写真)もまだ在りませんでした。

 

トンブリ王朝のタークシン王 (鄭信) 在位1767年ー1782年

 

ビルマのコンバウン王朝によって木端微塵に破壊(1767年)されたアユタヤー王宮の再建を考えていたアユタヤー王朝の武将・潮州系タイ人の「タークシン」(ตากสิน)は、破壊された王宮の残骸を目の当たりにして王宮の再建を断念。シャム湾(タイ湾)の河口に近い湿地帯に「トンブリー王朝」を建国(1767年)し、「トンブリ王朝の大王」(สมเด็จพระเจ้ากรุงธนบุรี)を名乗ります。(上掲写真)

 

日本人の中には、トンブリー王の「タークシン」(ตากสิน)とタイ政府元首相(現在亡命中)の「タクシン」(ทักษิน)を、中国系の同名同族の人物と思っている人もいるようですが、トンブリー王は潮州系タイ人、元首相は客家系タイ人、両者の名前の「綴り」、「発音」、「声調」も違います。

 

タークシンが建国したトンブー王宮の跡地 タイ観光WEBより拝借

 

トンブリー王朝の大王となったタークシン(ตากสิน)は、配下の武将(現王朝の初代王)に命じて、属国ラオのヴィエンチャン王国のブンニャサーン王をヴェトナムへと追い払い、ブンニャサーン王の三人の王子を人質としてトンブリー宮殿の対岸に在った「ライピリック寺」に連行して収容します。

 

三人の中の次男坊のインタウォン王子は、「ライピリック寺」を修復して長く住み着いたことから、王子の名前に絡めて「インタラウィハーン寺」(วัดอินทรวิหาร)に改名されたのですが・・・その後、ヴィエンチャン王朝の兄王の崩御により、インタウォン王子は、ヴィエンチャン国王を継承するためにヴィエンチャンに戻っています。

 


チャクリー王朝の初代王「ラーマ1世」(รัชกาลที่ ๑)


時代の奔流は止まることがありません。後年になって精神錯乱を発症したトンブリー王の「タークシン」(ตากสิน)が、ラオスのヴィエンチャン王国を攻略した勲功ある右腕の武将(後のラーマ一世)によって処刑されるという大事件が勃発。トンブリー王朝は、あっけなく一世一代(在位:1767~1782年)で終わってしまいます。まさにトンブリー版「ブルータスお前もか」です。

 

「ラーマ1世」を開祖とするチャクリー王朝(1782年~現在)

 

「タークシン王」を処刑した武将は、トンブリーの対岸の地に「チャクリー王朝」を興して、「チャオプラヤー・チャックリー(เจ้าพระยาจักรี)を名乗ります。これが現在のタイ王国・チャクリー王朝です。(上掲写真)

 

外国人の僕が、「チャックリー王朝」のことを次のように纏めると、タイ人の老友が眉根に皺を寄せて抵抗します。

チャクリー王朝の開祖であるラーマ1世(รัชกาลที่ ๑)は、民衆に推挙されて国王になったのです!

定年後に通ったタイの大学の歴史学科の学友は、歴史的事実として粛々と受け入れつつも付言します

ラーマ1世は、タークシン王の精神錯乱状態によって国内が混乱することを恐れたのです

 

高さ32mの巨大な大仏像

 

時代が更に下ってチャクリ王朝ラーマ3世時代の1867年、タイ仏教の高僧「ルアンポー・トー師 หลวงพ่อโต」(1788-1872)が、「インタラウィハーン寺」(วัดอินทรวิหาร)の境内に、高さ32mの大仏立像(上掲写真)の建立に着手します。ところが、大仏立像の工事が臍部分まで進んだ頃、「ルアンポー・トー師」が亡くなって大仏造営が中止になってしまいます。

 

高僧「ルアンポー・トー師」(หลวงพ่อโต)  (1788生-1872没)

 

「ルアンポー・トー師」の死によって停止されていた大仏建立は、何が機縁になったのかは不明ですが、建立開始から60年後の1928年になって、高さ32mの薄っぺらな仏像として完成します。

 

地元の信者に「大仏像は釈迦牟尼仏ですか?」と訊ねると 、「ルアンポー・トー」(หลวงพ่อโต)の答えが返って来ました。「ルアンポー・トー」は、この大仏立像を建立した高僧の名前なのですが、誰に問い質しても答えは同じでした。なぜなのか分かりません。

 

立体感の乏しい薄っぺらの大仏立像

 

薄っぺらい大仏のデザインが敷地の狭さによるものなのか?それとも予算不足による設計変更なのか?・・・記述を見た事ないので何も分かりません。罰当たりだとは思いますが、葬式の時だけ仏教徒の僕には、見れば見るほど違和感のある仏像でした。

 

しかし乍ら、大仏立像の「ルアンポー・トー」(หลวงพ่อโต)の「おみ足」を優しく撫でながら、花を捧げて祈る地元の老若男女の信奉者が次から次と続いて絶えることがありません。信じれば救われる・・・ということでしょうか・・・

 

大仏立像のおみ足に花を捧げて祈るタイ女性

 

太平洋戦争中、チャオプラヤー川畔に近い「インタラウィハーン寺」の周囲には、日本海軍の施設が彼方此方に設けられていたので、連合軍の空襲によって幾つもの爆弾が投下されたそうですが、薄っぺらな巨大仏の守護によって、全ての爆弾が不発に終わったとの話が語り継がれていました。

 

「インタラウィハーン寺」(愛称:イン寺)は、交通の便が悪いこともあって、訪れる外国人観光客はとても少ないのですが・・・定年退職後にタイの大学の歴史学科で学んだ老学生としては、アユタヤー王朝➡トンブリー王朝➡バンコク王朝と激しく遷移する中で、現役寺院として存在し続けたことに魅力を覚えた・・・懐かしい寺院の一つでした。