数日前、鎌倉・長谷寺の弁天窟に詣でてから、ふと新田義貞の伝説を想い出して、江ノ電の稲村ケ崎駅で途中下車。海沿いを歩いて稲村ケ崎海岸に着く頃には落陽が迫っていました。
稲村ケ崎の岩場
若かりし頃に何かの本で読んだことがあるのですが・・・今一度手元のスマホをググってみると・・・
1333年5月21日未明(元弘3年)、天然の要塞に守られた北条氏の鎌倉を攻めあぐねていた新田義貞が、相模湾に面した稲村ケ崎の岩場から海にすむ龍神に太刀を捧げて助けを乞うと、俄かに引き潮になりて砂浜が現れ出で、新田軍は、稲村ケ崎を徒歩で渡って鎌倉に進軍することができた・・・とありました。
月岡芳年作画:稲村ヶ崎の新田義貞
稲村ケ崎越えが突破口になって、鎌倉の三方の山の守りが崩れて、新田義貞の軍勢は一気に鎌倉に乱入します。 新田軍の猛追から逃れて東勝寺に立て籠もっていた北条高時ら一族の残党870名は、全員自害に追い込まれ、150年続いた鎌倉幕府は滅亡した・・・という粗筋を想い起こしました。
稲村ケ崎の岩場
三方を山に囲繞された鎌倉は難攻不落の地だったようですが、稲村ヶ崎の少し高くなった場所に座って相模湾を見晴るかすと、一方の相模灘をも城壁に見立てていたことがよく分かります。
稲村ケ崎の海を見下ろす場所に、新田義貞が太刀を海に投げ入れた伝説を詠んだ明治天皇の詠まれた歌碑がありました。 「なげ入れし つるぎの光あらはれて 千尋の海も陸となりぬる」
富士山が見える稲村ケ崎
新田義貞が「なげ入れし つるぎ」の場所と思しき情報を求めてググると、文部省唱歌の「鎌倉」(作詞:芳賀矢一)が出てきたのですが・・・「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎 名将の剣投ぜし古戦場」・・・の短い一節があるだけでした。勝手に想像するに、上掲写真の岩場が「剣(ツルギ)投ぜし古戦場」なのでしょうか。
新田義貞が輝いていたのは、鎌倉攻め前後の二週間程度の短い時期だけだったようですね。その後の彼の戦いの日々を読むと、敗戦、敗走、再起、敗戦、敗走、そして越前国・藤島の燈明寺畷で最後を迎えています。上野国新田荘で「鎌倉幕府討つべし!」と挙兵してから僅か5年後のことでした。
新田義貞・鎌倉合戦圖
戦前の教育では、後醍醐天皇を擁護した新田義貞を忠誠心の高い英雄として評価していたようですが、現在では、戦前とは打って変わって、真面目だけが取り柄の凡将・愚将と見做されているようですね。




