東北方面から万里の長城を越えて明国への侵攻を虎視眈々と狙うドルゴンが率いる満州族(清軍)を阻止するために、明国の皇帝・崇禎帝は、勇猛果敢な『武将・呉三桂』(ウサンクイ)を万里の長城の東端の要衝である山海関長城に駐屯させます。 

註:ドルゴン=ホンタイジの死去後に即位した6歳の皇子(後の順治帝)の摂政を務めた叔父。
 

  天下第一関・山海関長城

 

  皇帝・崇禎帝の命令を受けた『呉三桂』は、北京の自宅に正妻の張氏を残し、愛妾の『陳円円』を自分の父親の呉襄の家に預けて山海関長城に単身で赴任。明王朝の精鋭軍を統率してドルゴンが率いる満州族(清軍)と対峙します。

 

 天下第一関・山海関長城

 

  『呉三桂』が北京に残した愛妾の『陳円円』は、呉三桂(当時32歳)が首都北京の防衛を担っていた時に、皇帝の重臣・田弘遇(60歳)の抱えていた花妓(当時20歳)でした。

 

  美貌、美声、歌唱力、踊り、知性、教養、所作を身につけた女性として、南京の美妓ベスト8(秦淮八艳)として名を馳せていた彼女に惚れ込んだ『呉三桂』は、皇帝の重臣・田弘遇に大金を払って、彼女を我が物としたのです。

 

 呉三桂の愛妾となった陳円円

 

  明王朝の精鋭軍が万里の長城東端の山海関で釘付けとなって北京の守りが手薄になっていた時、農民反乱軍(流賊)40万の兵を率いた『李自成』が北京の明王朝を陥落させる事態が勃発します。追い立てられた明王朝の崇禎帝は、宮殿の裏側の小山の景山の大樹の枝で首吊り自殺・・・明王朝は滅亡(1644年)してしまいます。

 

 

景山で首吊り自殺する明王朝のラストエンペラー・崇禎帝


  山海関長城に駐屯する『呉三桂』に対して、明王朝を滅ぼした李自成から、『新王朝の将軍に任命するから、清軍の侵入を阻止せよ』との命令が届きます。 そして山海関長城で戦っていた敵方の武将ドルゴンからも、『明王朝は滅びたのだから、今後は清軍に仕えよ』と強く勧誘されます。

 

 反乱軍と清軍の両軍から誘われる呉三桂

 

  明朝という拠り所を失った『呉三桂』は、主君を殺した李自成の家臣になるか!? 敵方の異民族の清に下るか!? 明王朝への忠誠を貫くか!?・・・・迷いに迷った『呉三桂』は、異民族の清軍に身を投じて北京を攻撃する決断をします。

 

 明王朝を葬った李自成

 

  李自成軍からの誘いを拒絶して清軍に味方した『呉三桂』の動機は諸説がありますが、此のブログでは、『呉三桂』が北京の自分の父親宅に預けていた愛妾の『陳円円』が李自成軍の武将の一人に略奪されたことを知った呉三桂が烈火の如く怒り、異民族の清軍に味方したとする風説を採る事にします。

 

 清軍に寝返った呉三桂

 

  清軍の先鋒を担った『呉三桂』は、愛妾の『陳円円』を略奪した武将のいる李自成軍を徹底的に蹴散らして粉砕します。 その結果、僅か50日の天下で終わった李自成は、1664年に逃亡先の西安で地元民に殺害されてしまいます。(自殺説もあり)

 

 

  李自成軍を打ち負かして北京の宮殿に入場する清軍部隊の先頭に、明朝の剃髪スタイルを止めて、満州風に頭を辮髪にした『呉三桂』の姿がありました。(上写真)

 

  李自成の殺害(自殺説もあり)から9年後の1673年、その跡を襲って創立された清王朝は、国家創立に功績のあった『呉三桂』を含む三人の漢民族の武将に領土を与えて「藩王」として任命します。 

 

  しかし、三人の藩王が強大化することを警戒した清朝の康煕帝が、異民の漢民族である三藩(呉三桂、尚可喜、耿仲明)の廃止を画策したことから、三人の藩王は、満州族の清朝に対して反乱を起こします。

 

三藩の乱

 

  清国創立の貢献者として雲南地方の藩王になっていた『呉三桂』は、康煕帝の「藩王制度の廃止」に激怒して、「反清・復明」の旗を打ち立てて挙兵。 遂には、「大周王朝」を創立(1678年)して、自ら初代皇帝を名乗りますが・・・即位から6カ月後に病を患ってあえなく崩御しています。

 

  これらの事象から、 『呉三桂』は、自分の愛妾の『陳円円』のために、異民族の満州族(清軍)に中国全土を渡した売国奴と呼ばれ、最後には、その清国をも裏切ってしまった男として歴史に名前を残すことになってしまいます。 同属の漢民族から軽蔑され、異民族からも疎まれた悲しい末路となりました。

 

 愛妾の陳円円

 

  愛妾の『陳円円』は、藩王となった『呉三桂』に同行して雲南地方に赴いていますが・・・『呉三桂』が崩御してからの消息は、雲南の宮殿で自殺した!? 雲南で殺害された!? 裏切りを重ねる『呉三桂』に絶望して出家した!? 等の様々な説がありますが、真実の程はよく分かりません。 呉三桂の正妻の張氏は、夫の死後も、1699年まで生き延びたという記録があるようです。


  明王朝が崩壊して北方民族の清国が関内(中国)を手中にしたことにより、秦の始皇帝から2千数百年間に亘って延々と続いてきた万里の長城の軍事的使命は、完全に終ってしまいました。