昨日の神奈川県辻堂地域の日の出は5時26分、日没は18時4分でした。日の出は見損ないましたが、日没の様子は居間の椅子に体を沈めながら、じっくりと眺めることが出来ました。秋の日暮れを『釣瓶落とし』と言い表しますが、春を直前にした富士山の日没までの早さも、秋の釣瓶落としには負けていません。

 (下写真)

 

  

  ニュースによりますと、新元号の『令和』の典拠が万葉集であったことから、書店の棚を長きに亘って温めいた万葉集の書籍が飛ぶように売れているそうですね。新元号の『令和』騒動とは関係なく、ブログの記事の中で万葉集の歌を、時折ですが好んで引用して来た僕としては、なんとなく嬉しくなる昨今であります。

 

  万葉集に収録されている『富士山』を詠った歌は、僕の記憶が正しければ、僅か二首しかないと教わった事を朧げに覚えています。その内の一首は、万葉集・巻三・十八に、 「山部の宿爾赤人の不尽の山を望める歌一首」と出ています。 万葉集で初めて不尽(富士)を詠んだ山部赤人は、奈良時代の三十六歌仙の一人でしたが、身分は地方出張の多い下級官僚だったようです。

 

  『田子の浦 うち出でてみれば真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける    山部赤人

 

  すると、連れ合いが、『少し歌の歌詞を間違っていない?』と食いついて来ました。連れ合い曰く・・・・

    『  “田子の浦”』ではなく、“田子の浦”だと思うわ』

     『 “白にそ“は“白妙の”じゃないの?』 、 『不尽富士でしょう?』

    『 “降りける”は“降りつつ”と教わったわよ』 とのたまいます。

 

  僕よりも七年遅れで高等学校の普通科教育を受けている連れ合いは、古文で教わった新古今和歌集や小倉百人一首に収録されている山辺赤人(山部赤人)の歌を諳んじているようです。 

 

  幸か不幸か、高校時代に不勉強だった僕は、一度就職した後に進んだ大学時代に、個人的に文学史に興味を持った折に、新古今和歌集や小倉百人一首をすっ飛ばして、無謀にも万葉集に挑戦したことがありました。 恥ずかしながら、とてつもない昔話です。

 

  新古今和歌集と小倉百人一首に採録されている山辺赤人の歌は、連れ合いが指摘する通り、次のように改編されています。改編の理由は定かではありませんが、時代による言葉の変遷なのでしょうか?

 

   『田子の浦 うち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ』   赤人

 

  氏名も、山部赤人から山辺赤人に字体が変更されていることに、この記事を書く中で気づきました。

 

  僕が生まれて初めて富士山を見たのは、中学2年生の時に初めて東京へ一人旅をした時のことでした。特急『あさかぜ』の三等寝台車の窓越しに、真白き富士の秀峰を仰ぎ見た時の感動を今でもはっきりと覚えています。