『比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-4』 (1月5日付け)の続きです。

 

前回の粗筋

関行男大尉を含む敷島隊の爆装員五名がマガラパット西飛行場を出撃して、レイテ東沖合の米国第7艦隊・護衛空母群(タフィ3)の4隻に必死必中の体当たり攻撃を行い、撃沈1隻、大破1隻、中破2隻の戦果をあげたのは、1944年10月25日午前10時45分でした。

 

その報告を第二航空艦隊司令長官の大西中将から受けた海軍省は、1944年10月28日のラジオ特別放送で発表、その翌日の新聞記事で、敷島隊指揮官の関行男大尉を『特攻第1号』として大々的に発表します。

連合艦隊司令長官・豊田副武大将

更に、連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、1944年10月28日付けで、敷島隊五人の戦果を、忠烈万世に燦たる殊勲として全軍に公式布告(下欄御参照)。指揮官の関行男大尉は2階級特進して中佐となり、部下四人もそれぞれ2階級特進して銀翼の五軍神となります。

 

海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。

 

布告

戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関行男

戦闘〇〇〇飛行隊付   海軍一等飛行兵曹 中野磐雄

戦闘〇〇〇飛行隊付   同 谷暢夫、同 海軍飛行兵長 永峰肇

戦闘〇〇〇飛行隊付   海軍上等飛行兵 大黒繁男

 

神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈、同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。

 

昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武

 

注:部隊識別番号、突入場所の経緯度、突入時間は明記されていません。

 

ところが、関大尉の敷島隊を除く神風特別攻撃隊の出撃記録をチェックしてみると・・・関行男大尉が体当入りした1944年10月25日以前に、敵機動部隊に体当りをした特攻隊(大和隊、朝日隊、山桜隊、菊水隊、彗星隊、若桜隊)の存在が記録されていることが分かります。敷島隊の出撃日時と他の六隊の出撃日時を順番に並べて比較してみましょう。

 

 ❏10月20日 第一次神風特別攻撃隊の初編成

 10月21日 大和隊:久納中尉・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月23日 大和隊:佐藤馨上飛曹・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月25日 朝日隊:上野敬一1飛曹・特攻死  (ダバオ基地)

 ❏10月25日 山桜隊:宮原田賢1飛曹、瀧澤1飛曹・突入7時40分AM (ダバオ基地)

 ❏10月25日 菊水隊:加藤豊文1飛曹、宮川正1飛曹・突入7時40分AM (ダバオ基地

 ❏10月25日 敷島隊:関行男大尉含む5名 突入午前10時45分 (マバラカット基地) 

 ❏10月25日 彗星隊:浅尾弘上飛比曹、須内則夫ニ飛曹・特攻死  (マバラカット基地)

 ❏10月25日  大和隊:大坪一男1飛曹、荒木外義飛長・特攻死  (セブ基地)

  ❏10月25日  若桜隊:中瀬清久1飛曹・特攻死 (セブ基地)

  ❏以降の特攻は割愛   

上記の出撃日時を見ると、神風特攻を最初に敢行したのは、セブ基地から出撃した久納好孚中尉であり、連合艦隊布告によって神風特攻の第一号として発表された関行男中尉の率いる敷島隊5名は、第五番目の位置付けであることが分かります。

 

終戦後にアヤラ財閥の再開発が始まった頃のセブ飛行場跡地

 

尚、10月20日の神風特別攻撃隊の初編成から五日後の10月25日に特攻出撃が集中しているのは、神風特攻の編成目的である『栗田艦隊のレイテ湾突入日』に合わせて、第一航艦司令長官の大西中将が発した『神風特別攻撃隊の全機出撃命令』に呼応した結果と思われます。

 

僕が訪れた時のセブ飛行場は、I.T.Parkに姿を変えていました。

 

死の旅路となった出撃日の観点からみれば、神風特攻第一号となる筈だった大和隊の久納好孚中尉(愛知県出身 法政大学専門部・予備学生出身11期)について、少しばかり思いを馳せて見たいと思います。

 

セブ基地時代の久能中尉を偲ぶ話が残っています。

セブ基地の特攻隊員がセブ島の裕福な家庭に招かれてピアノ曲やバイオリン曲でもてなされた時、日本の楽曲演奏を所望されて困惑する隊員を代表して、久納中尉がベートーベンのピアノ協奏曲を演奏して親日家の家族を感激させたことがありました。

(甲飛十期・佐藤精一郎氏の証言)

 

死への出撃となった10月21日の前夜、民間の屋敷を借りあげた士官宿舎のピアノに向かった久能中尉は、大好きなべートーベンのピアノソナタ第十四番『月光』を静かに弾いていました。(通信科暗号士・笹原則省予備少尉の証言)

 

久納好孚中尉 愛知県出身・予備学生11期

 

セブ基地(第201航空隊)に駐屯していた久能中尉の直属上司となる飛行隊長は、部下の特攻隊員から『源田實大佐の腰巾着』と蔑まれていた中島正少佐です。セブ基地からレイテ湾に出撃する特攻隊員に中島少佐が放った非人間的な命令を聴いた直掩隊・角田和男少尉の証言があります。

 

中島正少佐 (セブ航空隊飛行隊長)

 

中島少佐 『レイテ港の桟橋に特攻せよ』

特攻隊長 『桟橋への特攻ではなく、せめて目標を輸送船に変えて下さい』

中島少佐 『文句を言うな、特攻目的は戦果ではなく、死ぬ事にあるのだ』

 

久能中尉は、源田實大佐の腰巾着だった中島少佐に、最後の出撃となる寸前まで悩まされています。僕は中島少佐に個人的恨みは何もないのですが、彼に関わる様々な証言を読むにつけて沸き起こる憤りの気持ちを抑えることが出来ません。

 

1944年10月21日、久納中尉の最後の出撃日の証言

久納中尉の率いる大和隊のゼロ戦を徹夜で整備した中村少尉と波多野ニ整備曹は、敵機動部隊発見の報告を受けて、零式戦闘機5機に航空燃料を充満、250kg爆弾をセットして出発準備を完了します。

 

ところが10分以上待機しても久納中尉の率いる大和隊の搭乗員が到着しません。特攻員に対する中島少佐の自己陶酔した浅薄な精神訓話が延々と続いて終わらないのです。 中村少尉と波多野ニ整備曹は、敵戦闘機グラマンの奇襲を心配して苛立ちます。

 

その時、セブ飛行場に突入して来た敵戦闘機の機銃掃射が滑走路上に駐機していたゼロ戦五機に命中。燃える航空燃料が爆装していた250kg爆弾に引火して次々と誘爆。怒り心頭に発した整備兵が『中島少佐は敵のスパイか!』と叫ぶ面前で、ゼロ戦五機は一瞬にして鉄屑と化します。 

 

整備長の桶泉大尉が木陰から引き出した予備機の三機に、特攻の久能中尉と中瀬一飛曹、直掩の大坪一飛曹の三人が『エンジン回せ!』と叫びながら飛び乗り、航空母艦に戻るであろう筈の敵戦闘機の後を追って飛び立ちます。水盃も帽ふれ儀式もなく、報道員による写真撮影もない慌ただしい出撃だったそうです。 

 

中島少佐は、僅か22日前の9月12日にも、ダバオの第201航空隊で、『敵戦闘機がダバオに接近中』の無線報告を無視して、特攻隊員に対して愚にもつかぬ講話を20分以上も続けている真っ最中に敵戦闘機の攻撃を受けるという大失策を犯しています。

 
ダバオ海軍第201航空隊の瓦解
 
ダバオ飛行場の滑走路に駐機していた戦闘機25機を破壊され、辛うじて迎撃に飛び立った41機の内27機は撃墜され、残り14機も不時着となります。
 
貴重な戦闘機と航空燃料を失った上に、頼りとなる熟練搭乗員の多くを喪失し、離陸はなんとか出来ても、着陸が覚束ない搭乗員を残された大西中将の心に、神風特別攻撃隊を編成する決意が生まれたと言う人もいるようです。
 

中島少佐は、海軍兵学校の机上勉強は優秀だったかもしれませんが、前線基地の指揮官としては無能力且つ不向きな人物だったのではないでしょうか。そして、そんな中島少佐を引き立てた源田實大佐にも責任の一端があるかも・・・ですね。 

 

戦後の航空自衛隊の幕僚長となった源田實氏、同じく航空自衛隊の空将補となった中島正氏のご両名が、航空自衛隊で如何なる教育を実践されたのか・・・とても気になるところです。

 

話がまた横道に逸れてしまいました。

久納好孚中尉の率いる『大和隊』の爆装2機と直掩1がセブ基地から飛び立ったのは、10月21日午前16時25分でした。しかし、折からの悪天候により爆装1機と直掩1機は帰投し、『出撃したら絶対に戻らない。レイテ湾へ飛んで敵艦隊に突っ込む』と語っていた久納好孚中尉(23歳)だけが未帰還となります。

 

直掩機を伴わずに単独でレイテ湾に向かった久納中尉の戦果を証明する決定的な材料は存在しません。しかし、レイテ湾で作戦行動中だった重巡洋艦オーストラリア号(満載排水量:13,450屯)が日本軍戦闘機の突入によって、エミール艦長を含む戦死者30名を喪失したとの記録を残しています。この記録から、久納中尉が体当りしたのでは?との説が広まります。(下掲写真) 

 

体当りによって左舷に傾斜したオーストラリア号

 

世界に例のない250kg爆弾を抱いた必死必中の体当り攻撃を喰らったオーストラリア号は、信じ難い特攻作戦に周章狼狽したのか、突入機を一式陸上攻撃機としたり、九九式艦上攻撃機とする等して記載内容に混乱が見られます。更に、日本軍戦闘機の突入時間を午前中とする記述が正しいとすれば、久納中尉の出撃時間(16時25分)と大幅な齟齬があります。

 

10月21日に久納中尉(?)の体当たり攻撃を被ったオーストラリア号は、四日後の25日にも再度日本軍の体当たり攻撃を受けて大破。翌年の1月に修理を終えて戦線復帰するも、終戦となる8月中旬までの七か月間に、六回の体当たり攻撃を受けて更に86名の戦死者を出しています。

 

10月21日夕方に行方不明となった久納中尉の扱いを“特攻死にすするか、未帰還にするか”について、海軍上層部で紆余曲折があったようですが、11月13日になって、連合艦隊司令長官・豊田副武大将の決定により、久納中尉を特攻戦死とする旨の全軍布告第71号(2階級特進の少佐)が発表されます。 関行男大尉を神風特攻第一号とする布告から16日後の発表でした。 

 

久納中尉の特攻死の認定が遅れた理由として、次のような後日談が伝わっています。

 

❏第一航艦・吉岡参謀談

久納中尉は、天候悪化でレイテ湾に到達出来ず、墜落したと想像するしかなかった。

 

❏軍令部・奥宮中佐談

生還した場合を考慮した連合艦隊・淵田大佐の慎重な措置であった。

 

201航空司令・玉井浅一中佐

久納中尉の特攻に対する熱意から体当たりしたと推し量った。

 

同盟通信記者・小野田政氏談

201航空司令・玉井浅一中佐から、一番早く体当りをした久納中尉だけが報道されないのはあまりにも可哀想だから記事にしてくれと頼まれた。

 

201航空司令・玉井浅一中佐

 

神風特攻第一号は関大尉に譲ったものの、関大尉よりも四日前に特攻した久納中尉の事を、『神風特攻隊・第零号の男』と呼ぶ人が少なからずいます。 それでは、久納中尉よりも四日遅く体当入りした関行男大尉が神風特攻の第一号として全軍布告された理由は那辺にあるのでしょうか。海軍部内では次のような流言蜚語があったようです。

 

❏神風特攻第一号は、海軍兵学校出身者とする筋書きが前もって定められていた。

第一次神風特別攻撃隊の特攻第一号の筋書きは、 海軍予備学生出身や予科練出身よりも海軍兵学校卒を最優先する海軍上層部の意向があった・・・とする説があるようですが・・・定かではありません。

 

❏神風特攻隊の当初の体当たり目標は、敵航空母艦であった。

第一次神風特攻隊が編成された当初の目的は、栗田艦隊のレイテ湾敵突入作戦(10月25日)を成功させるために、敵航空母艦の滑走甲板に体当たりして敵航空戦闘力を喪失させることであったのは事実です。関大尉の敷島隊(5機)は、全機もろとも敵護衛空母に突入して当初目的を達成しています。 久納中尉が重巡洋艦に突入した可能性はあるにしても、航空母艦に体当たりしたという記録は全くありません。

 

しかし、10月25日の栗田艦隊のレイテ湾敵突入作戦失敗により、10月27日以降の第二次神風特攻隊の目標範囲が大幅に拡大されたことから、豊田連合艦隊司令長官の温情によって、久納中尉も全軍布告に加えられたとの説もあるようです。

 

実は、冒頭でも触れましたが、関大尉の敷島隊よりも早く体当たりをしたのは、久納中尉だけではありません。米軍の記録によれば、下欄青字に掲示した特攻6機が米軍第七艦隊の機動部隊に必中必殺の体当たりを行ったことが判明しています。

 

 ❏10月21日 大和隊:久納中尉・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月23日 大和隊:佐藤馨上飛曹・特攻死(セブ基地)

 ❏10月25日 朝日隊:上野敬一1飛曹・特攻死 (ダバオ基地)

 ❏10月25日 山桜隊:宮原田賢1飛曹、瀧澤1飛曹・突入7時40分AM(ダバオ基地)

 ❏10月25日 菊水隊:加藤豊文1飛曹、宮川正1飛曹・突入7時40分AM(ダバオ基地)
 ❏10月25日 敷島隊:関行男大尉含む5名 突入10時45分AM (ママバラカット基地) 

 

■10月25日午前7時40分

山桜隊・瀧澤光雄1飛曹(推定)は、敵護衛空母 Suwanee号(満載排水量24,400噸)の上空を警護するF6F戦闘機をかい潜ってSuwanee号の飛行機用リフト部分に体当りを敢行。戦死107名、負傷160名を出す大損害を与えています。(下掲写真)

 

米軍第七艦隊の護衛空母Suwanee号に急降下で体当たりする瀧澤1飛曹(推定)

 

■10月25日午前7時40分

菊水隊の加藤豊文1飛曹も敵護衛空母 Sanntee号(満載排水量24,275噸)に体当たりをしています。米軍側の記録によると、中破したSanntee号は、応急修理によって数時間後に戦線復帰したとあります。(下掲写真。)

 

 

菊水隊・加藤豊文1飛曹(推定)が体当たりした敵護衛空母 Sanntee号

 
山桜隊の瀧澤1飛曹と菊水隊の加藤豊文1飛曹が体当たりをした米軍第七艦隊の護衛空母は、いずれも民間油槽船を改造した護衛空母です。 神風特攻第一号となった関行男大尉と敷島隊が体当たりをした敵艦も全て民間輸送船を改造した護衛空母であり、戦闘力の高い正規空母ではありませんでした。
 

関行男大尉を神風特攻第一号とした理由の一つとして、関行男大尉が体当たりをした敵艦が、『第一次神風特別攻撃隊の体当たり目標である航空母艦に該当』すると唱える人がいます。 

 

そうであるならば、関行男大尉よりも時間的に早く護衛空母に体当たりした山桜隊の瀧澤光雄1飛曹と菊水隊の加藤豊文1飛曹に軍配があがることになりますね。 

 

何れにしても、10月25日の第一次神風特別攻撃隊の敷島隊、菊水隊、山桜隊等の予想以上の戦果を受けて、翌26日、及川軍令部総長は昭和天皇(大元帥)にその戦果を奏上。『かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ』とのお言葉があったようです。

 

第一航空艦隊司令長官の大西中将は、神風特攻を拒絶していた海兵同期の第二航空艦隊司令長官の福留中将に神風特攻作戦の採用を強行談判。10月27付けで第1航艦と第2航艦を統合した連合基地航空隊(司令長官:福留中将)に第二次神風特別攻撃隊を編成します。 

 

連合基地航空隊参謀長 大西中将

 

連合基地航空隊の参謀長となった大西中将は、第二次特攻隊作戦を批判する声に対して、『第二次特攻作戦への批判は絶対に許さん』」として、特攻作戦を強行継続します。

 

かくして、栗田艦隊によるレイテ湾突入作戦を成功させるためだけだった筈の神風特別攻撃隊は、第二次特別攻撃隊に姿を変えて、勝利の望みなき戦いが終戦まで続くことになります。 11月に入ると、陸軍航空隊も特攻作戦を開始しています。

 

純粋に国を思い、愛する家族や恋人のために戦って散華した多くの特攻隊員の御霊に対して、心からの哀悼の意を表します。

 

今回をもって、比島の戦跡訪問で知った神風特攻のブログを終えることにします。