本日のブログは、『比島戦跡旅行記 神風特攻隊が初出撃した飛行場跡』(12月5日付け)の続きです。

 

神風特別攻撃隊が初めて編成され、初めての戦果をあげた飛行場跡地がフィリピン・ルソン島中部に残っている事を知ったのは、迂闊にも、バンコクからフィリピンの戦跡旅行に出発する数日前のことでした。

 

比島到着後、神風特攻の飛行場跡地を訪れたい気持ちが日増しに強まって旅程変更を考え始めた頃、期せずして襲来した台風27号の影響で雨模様となったのを口実にしてマニラ市内のブラ散歩を中止! 神風特別攻撃隊が初めて編成されたマニラ北方の旧マガラパット飛行場跡に向かうことにしました。僕とK氏の二人だけの気儘な旅だからこそ出来る直前の変更です。

 

捜し求めた雨上がりのマガラパット西飛行場跡

前方の滑走路は灌木に遮られていました。

 

道に迷いながら片道二時間掛けて旧マガラパット飛行場跡に到着。世界戦争史上で例を見ない必死の特攻が出撃した上空には、フィリピン空軍のヘリコプターが飛び交っていました。

旧マガラパット西飛行場跡の標識

 

1944年10月のマガラパット基地で初編成された神風特別攻撃隊は、1945年1月に台湾へ撤退するまでの約3か月間で、250kgの爆弾を抱いた約600人の若者を死出の旅路へと送り出しています。

 

今日のブロクでは、その神風特攻の第一号として公布された関行男大尉(死後二階級特進により中佐)の経歴と経緯を振り返りながら、当時の状況を追ってみたいと思います。

 

関行男大尉の経歴 (最終階級中佐)

■大正10年8月29日  愛媛県西条市で誕生。

■昭和16年(1941年)

❏11月15日 海軍兵学校卒業(70期)。

❏12月  8日 戦艦扶桑で真珠湾攻撃に参加(少尉候補生)。

 

戦艦扶桑の一般配置絵図

 

 

■昭和17年(1942年) 

❏4月 水上機母艦 千歳乗組 (少尉候補生)

❏6月 海軍少尉任官

 

関行男少尉が乗り組んだ水上機母艦 千歳

 

■昭和18年(1943年) 

❏1月 霞ヶ浦海軍航空隊入隊 第39期海軍飛行学生拝命。

❏6月 海軍中尉任官。

❏8月 大分県宇佐で艦上爆撃機の実用機教程。

 

  

  海軍兵学校の新入生     海軍飛行隊・少尉時代   海軍飛行隊・中尉時代

 

海軍兵学校時代の長躯紅顔も、少尉を経て中尉の頃ともなると、顔付きがすっかり戦闘モードに変わっているのが分かります。

 

■昭和19年(1944年)

❏昭和19年1月    霞ヶ浦航空隊付き飛行教官に就任。

❏昭和19年5月1日   海軍大尉に任官

❏昭和19年5月31日  渡辺真理子と結婚 (関の戦死後離婚)。

❏昭和19年9月     台南海軍航空隊分隊長に就任。

❏昭和19年9月     比島マバラカット基地へ志願して転任。

 

関大尉が飛行分隊長として赴任したマバラカットの飛行場跡

 

関行男大尉の経歴を見ると、艦上爆撃機の操縦者としての訓練は受けているものの、ゼロ戦搭乗員としての実戦経験は皆無に近かったことが分かります。それなのに、何故にゼロ戦の最前戦基地であるマバラカット基地の分隊長としての転任を志望したのでしょうか。

 

上司だった猪口中佐や玉井中佐の後日談によると、台湾の第1航空艦隊でゼロ戦の分隊長をしていた菅野直大尉(関大尉の海軍兵学校時代の同期生)を特攻第1号の指揮官に考えていたようですが、彼の空戦技術の高さを活かして、特攻隊員ではなく直掩隊員にすべきだとの声に従って、第二候補の関大尉を選抜したとあります。

 

関行男大尉と海兵同期の菅野直大尉

 

零戦搭乗員の仲間から凄腕の撃墜王と呼ばれていた菅野直大尉は、関行男大尉の戦死を知って、『俺が死ぬことになっていたのに』と漏らしたそうですが・・・その菅野大尉も1945年8月1日(昭和20年)の屋久島沖空戦で戦死(享年23歳)しています。

 

■昭和19年10月19日(1944年) 

零式戦闘機(ゼロ戦)による体当たり特攻作戦を考えていた大西瀧治郎中将(第1航空艦隊司令長官)が、フィリピン・ルソン島のマバラカット第201航空司令本部に到着。 直ちに、現地司令代行の玉井浅一中佐と第1航艦隊首席参謀の猪口力平中佐などを呼集して緊急会議を開きます。

 

大西中将は、その会議の中で、『特攻は統率の外道』と承知しつつも、敵艦船と真面に戦うことも出来ないほど劣勢の極地にある日本海軍航空力の現状を鑑みて、日本海軍に残された最後の手段は、『ゼロ戦による体当たり攻撃法』しかないと声を大にして披瀝したそうです。

 

  

     大西龍治郎中将       猪口力平中佐        玉井浅一中佐

 

しかしながら、それは大西中将の真情の披瀝に過ぎず、海軍上層部からの正式な指示や命令の形式は採っていません。特攻作戦を実施するか否かの決断は、どこまでも現地責任者の自主判断であるとする方針から、現地司令代行の玉井中佐に一任するというものでした。

 

古今東西の戦争歴史の中で前例のない飛行機で特攻する作戦の最終判断を、現場の航空司令代行に過ぎない玉井中佐一人の肩に委ねてしまうという日本海軍の理不尽な無責任体制に唖然とするばかりです。

 

神風特別攻撃の決定に関する軍令部総長(及川古志郎大将)の『指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない。けっして命令をしないようにやってくれよ』の発言にあるように、海軍上層部に責任が波及しないように、見苦しい回避策を弄しているのが見え見えです。

 

■昭和19年10月19日(1944年)

大西中将呼集の会議終了後、事態は一気呵成に進展します。

玉井中佐は、特攻の実施を決断し、250kg爆弾を抱いて必死の体当たりをする爆装員として、配下の第201航空隊の甲飛十期生の24名を選抜します。

 

甲種飛行予備学生(16歳~20歳)

 

更に、猪口中佐(1航艦首席参謀)は、特攻隊名を『神風特別攻撃隊』(神風=しんぷう)とし、その第1号となる指揮官は、海軍兵学校卒であるべきと玉井中佐に提案しています。

 

玉井中佐は、就寝中の関行男大尉(海兵70期)を起こして必死の特攻隊指揮官への就任を『打診』します。此処に至っても、本人の『志望』を引き出すスタイルを貫ぬき通しています。

 

新婚一ヶ月の関大尉 

 

■昭和19年10月20日(1944年) 

玉井中佐の後日談によると、10月19日夜の打診に対して、関行男大尉は、『一晩考えさせて下さい』と回答を保留するも、翌朝になって『承諾』する旨の返事を申し出て来たと語っています。

 

ところが、猪口首席参謀の後日談によると、10月19日夜の打診を受けた関行男大尉は、即座に 『是非やらして下さい!』 と力強く応えたと語っています。関行男大尉の強い志望であった事を殊更に強調したかったのでしょうか。

 

玉井中佐と猪口中佐の齟齬の因が奈辺にあるのか分かりませんが、関行男大尉の真情を少しでも知りたくて、出撃前に関行男大尉と最後の会話を交わした小野田海軍報道班員の後日談と関行男大尉が家族と教え子に宛てた遺書を読んでみました。

 

❏関行男大尉が小野田記者に吐露した真情。

小野田さん、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500kg爆弾)を命中させる自身がある。

 

僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(妻を意味する海軍の隠語)のために行くんだ。命令とあらば、止むを得まい。日本が負けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、素晴らしいだろう。

 

❏関行男大尉の遺書

自分の母親宛

西条の母上様、幼児より御苦労ばかりおかけし、不幸の段、お許し下さいませ。今回帝国勝敗の岐路に立ち、身をもって君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。

 

妻の御両親宛

鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ずに征く事を、お許し下さいませ。本日帝国のため、身を以て母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。皆様御身体を大切に。

 

妻の満里子と妻の妹の恵美子宛

満里子殿 何もしてやる事も出来ず散り行く事は、お前に対して誠にすまぬと思っている。何も言わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思う。御両親様に孝養を專一と心掛け生活して行くように。 色々と思い出をたどりながら出発前に記す。恵美ちゃん坊主も元気でやれ。

 

飛行学校の教え子へ

教え子よ 散れ山桜 此の如くに

 

■昭和19年10月20日(1944年)

かくして、神風特別攻撃隊の指揮官となった関行男大尉は、マバラカット西飛行場で出撃命令を待つ事になるのですが・・・・四回の出撃を繰り返し、五回目の出撃によって米国の護衛空母に体当りをして散華するまでの経緯については、次回に譲りたいと思います。