事前案内では、『バターン半島死の行進』を投稿予定としていましたが、コレヒドール島で壊滅した『水上特攻艇・震洋』について、迂闊にも書き漏らしていることに気付きました。申し訳ありませんが、『バターン半島死の行進』は、震洋艇を終えた後のテーマとさせて戴きますので御了承下さい。

 

『特攻機・零戦』の話は、殆どの方が御存知だろうと思うのですが、『特攻艇・震洋』(秘匿名称:マルヨン金物)となると、御存知で無い方もいらしゃるのではないでょうか。

 

『震洋とは何か?』を簡単に表せば、全長5.1mのベニヤ板のモーターボートの船首部に250kg爆弾を装着して敵艦に体当たりする自殺兵器です。 海軍の帳簿管理上は、震洋艇は艦艇ではなく、兵器扱いとなっていたようです。 当時の『震洋』の詳細が分かる外観写真は殆ど残されていないのですが、米軍に捕獲された『震洋』の俯瞰写真によって、その概要を識ることが出来ます。(下掲写真)

 

『震洋』  秘匿名称『マルヨン金物』(○の中に四)の外観写真

 

体当たり特攻艇『震洋』の発案は、山本五十六連合艦隊司令長官のお気に入り参謀を務めた後に軍令部二部長になった黒島亀人少将の作成した『作戦上急速実現を要望する兵力』(1944年4月4日作成)に端を発しているようです。

 

フィリピンのレイテ沖海戦で零戦による最初の特攻が実施された1944年10月下旬より遡ること5ヶ月前の5月に艇体開発が開始され、なんと翌月の6月25日には量産開始となって瞬く間に6,197隻が生産されています。 そして、同年の11月6日には、フィリピン戦線に配備された震洋艇 310隻に対して、“艇首内部に 250kg 爆弾を装着して敵艦に体当たり特攻する許可”が発令されています。

 

 

ベニヤ板特攻艇・震洋の一般配置図  

全長5.1m、定員1名、速度42km、トヨタトラックEng.67hp、機銃1基、ロケットランチャ2基

 

艇体の開発開始から僅か半年で体当り特攻の第一線に投入され、その間に約5,000人の基地要員と搭乗員訓練も行っているのですから、拙速を通り越したお座成りの手際の良さと言うか、はたまた、その程度の兵器だったと評価されていたのか・・・何れにしても、日本軍の考える人命の軽さに唖然とせざるを得ません。

 

テスト走行中の震洋1型  船尾にロケットランチャーを装備

 

『震洋』と命名したのは、“太平撼とさせる特攻艇なり”と標榜した海軍特攻部長の大森少将のようですが、米軍側の記録には、“Japanese Suicide Boat”(日本の自殺ボート)と呆れ甚しの感を込めた俗称で冷たく記されていました。

 

コレヒドール島内の簡易観光バスの女性ガイド

 

女性観光ガイドが、白人観光客を盛り立てようとして、『日本軍の“Shinyou”を知っていますか?』と繰り返し訊いても些か反応が鈍かったのですが、“Japanese Suicide Boat”と一言付け加えただけで、殆どの白人観光客が眉根に大袈裟な皺を作って頷き合います。

 

コレヒドール島北側に残る震洋艇の格納壕

 

女性観光ガイドの説明によると、日本軍の震洋隊は、岩場が多くて砂州の少ないコレヒドール島の北側(バターン半島に面する海岸線)の洞窟を震洋艇の格納壕としていたが、岩場の少ない南側の砂州にも震洋隊陣地を設けていたようです。

 

バンコクに戻ってコレヒドール島に派遣された震洋隊の記録を調べてみると・・・・

コレヒドール島へ送られた震洋隊は全部で8隊の1,490名でした。しかし、その内の3隊(561名)を乗せた輸送船は、フィリピンへの航海中に敵潜水艦に沈められ、震洋艇150隻は海の藻屑と消え、兵士561名の内300名(53%)は水漬く屍となっていました。

 

 

コレヒドール島の震洋隊の配置図(隊員929名・震洋艇310隻)

  第7震洋184名、第9震洋184名、第10震洋187名、第11震隊186名、第12震洋188名

    ●特攻・回転の基地  震洋隊の兵舎

 

生還した搭乗員の話を youtube で視聴すると、岩場の少ない南側の砂州上に震洋艇を置いていた第7震洋隊(184人・55隻)は、敵潜水艦(?)の機銃攻撃によって250kgの爆装が誘発して大爆発を起こし、全艇体55隻は木っ端微塵となって吹き飛び、全隊員184人の内97名が肉片となって爆死したと追憶されていました。(記録上は109人戦死となっています)

 

コレヒドール島北側に残る震洋艇の格納壕

 

島内専用観光バスが出発して最初に停車した場所は、米軍が Middle-Side-Barracks と呼んでいた兵舎の廃墟でした(下掲写真)。 第二次バターン戦闘に勝利してコレヒドール島を占拠した日本軍は、米軍が浅野セメントを使用して建設した兵舎を、『震洋隊』の兵舎として転用していたようです。日本軍の最前線の貧相な木造兵舎と比較すると、随分と豪華な兵舎だったのではないでしょうか?

 

米軍が統治していた時代の Middle-Side-Barracks 

(日本軍が島を占領した時は、震洋隊の兵舎として活用)

 

島内観光バスがトイレ休憩で停車した時、観光ガイドの女性が僕を古ぼけた写真額の前に半ば強引に誘います。その集合写真は、震洋隊の兵士を撮影した集合写真(下掲写真)でした。

 

コレヒドール島の休憩所にあった震洋隊員の集合写真

 

彼女 『震洋隊員は、胴体にも沢山のダイナマイトを巻きつけていたのよ』

僕   『これはダイナマイトではなくて、救命胴衣の浮力体ですよ』

彼女 『いいえ、細長い棒状の物は、ダイナマイトなのです』

僕   『昔の救命胴衣の浮力体は、このような形をしていたのです』

 

救命胴衣を纏った震洋隊員の写真


僕の見解に納得しない彼女は、震洋隊員のアップ写真(上掲写真)の前に僕を連れて行き、僕を何とかして説得しようと試みます。

 

彼女 『此れを見たら、ダイナマイトであることが一目瞭然ですね』

僕   『此れは間違いなく昔スタイルの救命胴衣ですよ』

彼女 『そうとは思えないわ・・・・』

 

彼女は頑なること限りなしです。彼女の頑迷さから想像すると、震洋隊員に限らず、当時の日本兵が俘虜になった時のために携帯していた自殺用手榴弾の話と混同して、救命胴衣の棒状の膨らみをダイナマイトと勘違いしているのかも知れませんね。

 

もっとも、俘虜になることを恥じて自爆して命を断つという日本的発想は、外国人から見ればとても信じ難いことだろうと思います。戦中生まれの僕ですが、当時の日本軍の兵士の人命に対する価値観を思うと、日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識と言われても・・・仕方ないような気もします。

 

次回の投稿記事は、コレヒドール島から敵艦船に向けて出撃した震洋艇の予定です。

その次の投稿記事は、バターン死の行進を予定しています。