前回の粗筋
バンコク在住の親しき友人K氏と共に、K氏の父君が旧日本海軍の航空機整備兵として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡った時の旅行記を書いています。本日は、6月30日付けブログ、7:比島旅行・ミンドロ島・山中へ退避の続きです。
1944年12月15日 06時10分、ミンドロ島南西部のマンダリン湾に米軍艦隊(108隻)が押し寄せ、大岡昇平氏の所属する陸軍第1中隊本部&第三小隊とK氏の父君が所属する海軍第955航空部隊が守備するサンホセに艦砲射撃を開始します。
やがて、米軍の空港建設要員1万7千人を含む約2万7千人がサンホセに上陸し、海岸線に沿って30㎞、内陸に10㎞の橋頭堡を難なく構築。ルソン島、硫黄島、沖縄などの日本軍陣地を攻撃するための空港建設(3箇所)に取り掛かり、12月下旬までに2箇所の飛行場を完成させます。
サンホセ駐屯の日本陸軍第1中隊本部&第三小隊(51名)、陸軍航空気象班(6名)海軍第955部隊(60名)、そして在留邦人の4名を含む総員121名は、米軍からの最初の一発目の艦砲射撃を受けると直ちに持ち場を放棄。予め定められていたバコ山に連なる山中の集結地点に向けて退避を開始します。

大岡昇平氏の所属部隊が最初の一夜を過ごした鋸山(標高400m)の山麓
(現地呼称:エンジェル山)(HPより拝借)
12月16日、大岡昇平氏の所属する陸軍部隊と在留邦人の一行は、鋸山の山麓に沿ってバコ山に連なる山塊に取り付き、集結地点に定められていた南南東20㎞のプララカオのデュタイ(小高地)を目指して山越えの途につきます。

鋸山から日本軍の集結地点・小高地(デュタイ)へ連なる山並
西ミンドロ州南部プララカオのデュタイ(小高地)へは、米軍の艦砲射撃と掃討作戦から逃れる日本軍敗残兵の4グループ(下記)が、其々のルートに分かれて向かっていました。
①バランゲイ砂糖工場に駐屯する陸軍第1中隊本部と第三小隊の51名(中矢中尉)。
②カミナウイット分掌に駐屯する陸軍第1中隊第三小隊橋本隊の10名。
③カミナウイット水上機基地に駐屯するK氏の父君の海軍第955部隊の60名(石橋少尉)。
④プララカオ海岸線に駐屯する陸軍第1中隊第一小隊(田中少尉)。

日本軍の集結地点・デュタイ(小高地)へ連なる山並
12月16日早朝、険しい山中を運搬するのが困難になった陸軍航空気象班の大型無線機を焼却処分することになり、陸軍第1中隊本部付き暗号手の大岡昇平氏は、ルソン島バタンガスの大隊本部宛に最後の通信文を電送しています。
昨15日0600、敵は艦船60隻(*)をもってサンホセ西方4㌔のサンドラヤンに上陸せり。本隊は3日の予定をもってプララカオに向かい、田中隊と連絡の上新たに企図せんとす。現在地サンホセ北方10㌔。全員士気極めて旺盛、誓って撃滅を期す。
(*)米軍艦船60隻は、サンホセ海岸から内陸6㌔に位置する砂糖工場の屋上から陸軍下士官が視認した隻数ですが、実際にマンガリン湾に押し寄せた米軍艦船は108隻でした。
大岡昇平氏の電文から、鋸山からバコ山の南南東10㌔先に位置するデュタイ(小高地)までの道程は3日間。一方、ラバンガン川上流からデュタイ(小高地)を目指した海軍第955部隊(60名)と陸軍第一中隊第三小隊橋本分掌隊(10名)の道程は5日間だったことが分かります。

西ミンドロ州と東ミンドロ州を跨いで聳える標高2,487mのバコ山(HPより拝借)
12月18日、中矢中尉の率いる陸軍部隊の主力(大岡昇平氏の所属部隊)は、山中誘導を依頼した現地住民のお陰で、在留邦人2名の脱走はあったものの、犠牲者を出すことも無く集結地のデュタイ(小高地)に到達。誘導してくれた案内人に帰途の食料を与えて解放。荷物運搬の水牛も返却しています。

西ミンドロ州のバランゲイで見かけた水牛
12月20日、2日後れで、ゲリラが跋扈するラバンガン上流を抜けて退避して来た石橋一郎少尉配下の海軍第955部隊(57名)がデユタイ(小高地)で合流します。カミナウイット水上機基地退避時に米軍魚雷艇の襲撃を受けた折に、1名戦死、1名俘虜、1名が行方不明になっていました。
海軍部隊に同行していた陸軍第三小隊カミナウイット分掌の橋本隊の10名は、5日間の退避行中に全員が死亡しています。ラバンガン河口でマラリヤの2名が落伍して行方不明となり、残り8名は餓死したと記録されています。
カミナウイット駐屯中に既にマラリヤに感染していて、逃避行中に発病して死亡することは想像できるとしても、僅か5日間の道程で8人全員が餓死するなんてことがあるのでしょうか?逃走中にゲリラによって狙い撃ちされた可能性もあるのでは・・・? 当時の事情を何も知らない戦中生まれの僕には???ばかりです。
同行していた陸軍の分掌隊が全員死亡するという衝撃を目の当たりにしたからでしょうか?それとも逃避地点を秘匿するためでしょうか? 海軍第955部隊の古参下士官は、デュタイ(小高地)まで案内してくれた現地住民を尽く刺殺したそうです。荷物運搬の水牛は、当然の如く、食料として刺殺したに違いありません。
集結地のデュタイに先着していた大岡氏の所属する陸軍部隊(戦闘能力の低い補充兵部隊)は、海軍の峻烈な下士官の刺殺行為を見て慄いたのではないでしょうか。大岡昇平氏の作成したデュタイ(小高地)に於ける其々の部隊の露営位置図を見ると、海軍第955部隊の露営地だけが離れた場所にあって孤高を持しているように見えるのは・・・僕だけでしょうか。
K氏の父君の所属する海軍第955部隊の生き残り48名の目には、命辛辛到達したデュタイ(小高地)は、ゲリラ部隊に囲繞された危険極まりない地帯に見えたのでしょうか? 海軍単独で南方10㌔のプララカオ海岸へ下山する決定を下します。

僕とK氏が乗ったサンホからプララカオに向かう小型バス
戦後、サンホセを訪れた大岡昇平氏がプララカオの山中に眠る戦友に逢いに行こうとしたところ、反日感情の残るプララカオに案内するのを嫌ったフィリピン軍将校と下士官のサボタージュにより、旅の究極的願望を果たせなかったという恨みの記述がありました。
僕とK氏は、K氏の父君が所属する海軍第955部隊が下山したミンドロ島最南端のプララカオに行くために、民間の小型バスに乗り込みました。サンホセからプララカオまでの約20㌔余りの旅程は、バコ山に連なる小高地を幾つも越えて突っ走る埃の舞い立つ山道でした。

サンホセからプララカオに向かう途上の山道
年代物の9人定員のトヨタ箱バンに、17人~20人の乗客が押し込められます。建て付けの悪い窓から熱風と埃が舞い込み、故障したエアコンは扇風機の役割すらも果たしていません。悪路の衝撃を吸収する四本のバンパーも既に機能を失っていて、お尻の筋肉と尾骶骨をこれでもかとばかりに突き上げます。
話を本筋に戻しましょう。
山中のデュタイ(小高地)から海岸線のプララカオに下山した海軍第955部隊(48名)の目的は、プララカオの舟溜りで機帆船を奪取してルソン島へ脱出することでした。まさに海軍らしい発想と言えますね。

南シナ海に面するプララカオの舟溜まりに浮かんでいたバンカと呼ばれる小型漁船
ところが、直ぐに動かせる手頃な機帆船が見つからず、夜陰を利用して故障していた機帆船1隻の修理に取り掛かります。しかし、三日目にゲリラの襲撃に遭い、石崎少尉(東京商大出身の予備学徒)以下10名は敢え無く命を落としてしまいます。K氏の父君を含む生き残りの38名は、戦友の死体を叢林に隠蔽して這々の体でデュタイ(小高地)へ逃げ帰ります。
数日後、陸軍第1中隊第三小隊(大岡昇平氏同行)は、ルソン島バタンガスから到着予定の山本少尉配下の斬り込み隊(120名)を迎えにプララカオに降りた折に、海軍第955部隊の戦死者10名をプララカオの山裾に埋葬するのを手伝っています。K氏の父君を含む海軍第955部隊の生き残りも、当然ながら、同行していたと思われます。
兵隊時代の大岡昇平氏は、デュタイ(小高地)からプララカオに四回下山しています。三回はプララカオに上陸する斬り込み隊の受け入れ(1回目は海軍第955部隊の戦死者の埋葬を兼ねていました)。四回目は、デュタイ(小高地)でマラリヤで昏倒して米軍の俘虜になって下山した時だったそうです。
大岡昇平氏のプララカオ・デュタイ(小高地)再訪の目的は、マラリヤと飢餓で落命した多くの戦友の魂に額ずいて語り合い、自らも手伝って埋葬した海軍兵士(10名)の遺骨の一部でも持ち帰りたかった・・・・と述懐されています。
大岡昇平氏に成り代わることは到底できませんが、プララカオの海岸線から北方10㌔の山中に位置するデュタイ(小高地)に向かって合掌し、心のなかで祈りを捧げました。
次回は、西ミンドロ島のデュタイで米軍の俘虜となった大岡昇平氏とK氏の父君がレイテ島の俘虜収用所を経て日本へ生還するまでについて書こうと思っています。
バンコク在住の親しき友人K氏と共に、K氏の父君が旧日本海軍の航空機整備兵として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡った時の旅行記を書いています。本日は、6月30日付けブログ、7:比島旅行・ミンドロ島・山中へ退避の続きです。
1944年12月15日 06時10分、ミンドロ島南西部のマンダリン湾に米軍艦隊(108隻)が押し寄せ、大岡昇平氏の所属する陸軍第1中隊本部&第三小隊とK氏の父君が所属する海軍第955航空部隊が守備するサンホセに艦砲射撃を開始します。
やがて、米軍の空港建設要員1万7千人を含む約2万7千人がサンホセに上陸し、海岸線に沿って30㎞、内陸に10㎞の橋頭堡を難なく構築。ルソン島、硫黄島、沖縄などの日本軍陣地を攻撃するための空港建設(3箇所)に取り掛かり、12月下旬までに2箇所の飛行場を完成させます。
サンホセ駐屯の日本陸軍第1中隊本部&第三小隊(51名)、陸軍航空気象班(6名)海軍第955部隊(60名)、そして在留邦人の4名を含む総員121名は、米軍からの最初の一発目の艦砲射撃を受けると直ちに持ち場を放棄。予め定められていたバコ山に連なる山中の集結地点に向けて退避を開始します。

大岡昇平氏の所属部隊が最初の一夜を過ごした鋸山(標高400m)の山麓
(現地呼称:エンジェル山)(HPより拝借)
12月16日、大岡昇平氏の所属する陸軍部隊と在留邦人の一行は、鋸山の山麓に沿ってバコ山に連なる山塊に取り付き、集結地点に定められていた南南東20㎞のプララカオのデュタイ(小高地)を目指して山越えの途につきます。

鋸山から日本軍の集結地点・小高地(デュタイ)へ連なる山並
西ミンドロ州南部プララカオのデュタイ(小高地)へは、米軍の艦砲射撃と掃討作戦から逃れる日本軍敗残兵の4グループ(下記)が、其々のルートに分かれて向かっていました。
①バランゲイ砂糖工場に駐屯する陸軍第1中隊本部と第三小隊の51名(中矢中尉)。
②カミナウイット分掌に駐屯する陸軍第1中隊第三小隊橋本隊の10名。
③カミナウイット水上機基地に駐屯するK氏の父君の海軍第955部隊の60名(石橋少尉)。
④プララカオ海岸線に駐屯する陸軍第1中隊第一小隊(田中少尉)。

日本軍の集結地点・デュタイ(小高地)へ連なる山並
12月16日早朝、険しい山中を運搬するのが困難になった陸軍航空気象班の大型無線機を焼却処分することになり、陸軍第1中隊本部付き暗号手の大岡昇平氏は、ルソン島バタンガスの大隊本部宛に最後の通信文を電送しています。
昨15日0600、敵は艦船60隻(*)をもってサンホセ西方4㌔のサンドラヤンに上陸せり。本隊は3日の予定をもってプララカオに向かい、田中隊と連絡の上新たに企図せんとす。現在地サンホセ北方10㌔。全員士気極めて旺盛、誓って撃滅を期す。
(*)米軍艦船60隻は、サンホセ海岸から内陸6㌔に位置する砂糖工場の屋上から陸軍下士官が視認した隻数ですが、実際にマンガリン湾に押し寄せた米軍艦船は108隻でした。
大岡昇平氏の電文から、鋸山からバコ山の南南東10㌔先に位置するデュタイ(小高地)までの道程は3日間。一方、ラバンガン川上流からデュタイ(小高地)を目指した海軍第955部隊(60名)と陸軍第一中隊第三小隊橋本分掌隊(10名)の道程は5日間だったことが分かります。

西ミンドロ州と東ミンドロ州を跨いで聳える標高2,487mのバコ山(HPより拝借)
12月18日、中矢中尉の率いる陸軍部隊の主力(大岡昇平氏の所属部隊)は、山中誘導を依頼した現地住民のお陰で、在留邦人2名の脱走はあったものの、犠牲者を出すことも無く集結地のデュタイ(小高地)に到達。誘導してくれた案内人に帰途の食料を与えて解放。荷物運搬の水牛も返却しています。

西ミンドロ州のバランゲイで見かけた水牛
12月20日、2日後れで、ゲリラが跋扈するラバンガン上流を抜けて退避して来た石橋一郎少尉配下の海軍第955部隊(57名)がデユタイ(小高地)で合流します。カミナウイット水上機基地退避時に米軍魚雷艇の襲撃を受けた折に、1名戦死、1名俘虜、1名が行方不明になっていました。
海軍部隊に同行していた陸軍第三小隊カミナウイット分掌の橋本隊の10名は、5日間の退避行中に全員が死亡しています。ラバンガン河口でマラリヤの2名が落伍して行方不明となり、残り8名は餓死したと記録されています。
カミナウイット駐屯中に既にマラリヤに感染していて、逃避行中に発病して死亡することは想像できるとしても、僅か5日間の道程で8人全員が餓死するなんてことがあるのでしょうか?逃走中にゲリラによって狙い撃ちされた可能性もあるのでは・・・? 当時の事情を何も知らない戦中生まれの僕には???ばかりです。
同行していた陸軍の分掌隊が全員死亡するという衝撃を目の当たりにしたからでしょうか?それとも逃避地点を秘匿するためでしょうか? 海軍第955部隊の古参下士官は、デュタイ(小高地)まで案内してくれた現地住民を尽く刺殺したそうです。荷物運搬の水牛は、当然の如く、食料として刺殺したに違いありません。
集結地のデュタイに先着していた大岡氏の所属する陸軍部隊(戦闘能力の低い補充兵部隊)は、海軍の峻烈な下士官の刺殺行為を見て慄いたのではないでしょうか。大岡昇平氏の作成したデュタイ(小高地)に於ける其々の部隊の露営位置図を見ると、海軍第955部隊の露営地だけが離れた場所にあって孤高を持しているように見えるのは・・・僕だけでしょうか。
K氏の父君の所属する海軍第955部隊の生き残り48名の目には、命辛辛到達したデュタイ(小高地)は、ゲリラ部隊に囲繞された危険極まりない地帯に見えたのでしょうか? 海軍単独で南方10㌔のプララカオ海岸へ下山する決定を下します。

僕とK氏が乗ったサンホからプララカオに向かう小型バス
戦後、サンホセを訪れた大岡昇平氏がプララカオの山中に眠る戦友に逢いに行こうとしたところ、反日感情の残るプララカオに案内するのを嫌ったフィリピン軍将校と下士官のサボタージュにより、旅の究極的願望を果たせなかったという恨みの記述がありました。
僕とK氏は、K氏の父君が所属する海軍第955部隊が下山したミンドロ島最南端のプララカオに行くために、民間の小型バスに乗り込みました。サンホセからプララカオまでの約20㌔余りの旅程は、バコ山に連なる小高地を幾つも越えて突っ走る埃の舞い立つ山道でした。

サンホセからプララカオに向かう途上の山道
年代物の9人定員のトヨタ箱バンに、17人~20人の乗客が押し込められます。建て付けの悪い窓から熱風と埃が舞い込み、故障したエアコンは扇風機の役割すらも果たしていません。悪路の衝撃を吸収する四本のバンパーも既に機能を失っていて、お尻の筋肉と尾骶骨をこれでもかとばかりに突き上げます。
話を本筋に戻しましょう。
山中のデュタイ(小高地)から海岸線のプララカオに下山した海軍第955部隊(48名)の目的は、プララカオの舟溜りで機帆船を奪取してルソン島へ脱出することでした。まさに海軍らしい発想と言えますね。

南シナ海に面するプララカオの舟溜まりに浮かんでいたバンカと呼ばれる小型漁船
ところが、直ぐに動かせる手頃な機帆船が見つからず、夜陰を利用して故障していた機帆船1隻の修理に取り掛かります。しかし、三日目にゲリラの襲撃に遭い、石崎少尉(東京商大出身の予備学徒)以下10名は敢え無く命を落としてしまいます。K氏の父君を含む生き残りの38名は、戦友の死体を叢林に隠蔽して這々の体でデュタイ(小高地)へ逃げ帰ります。
数日後、陸軍第1中隊第三小隊(大岡昇平氏同行)は、ルソン島バタンガスから到着予定の山本少尉配下の斬り込み隊(120名)を迎えにプララカオに降りた折に、海軍第955部隊の戦死者10名をプララカオの山裾に埋葬するのを手伝っています。K氏の父君を含む海軍第955部隊の生き残りも、当然ながら、同行していたと思われます。
兵隊時代の大岡昇平氏は、デュタイ(小高地)からプララカオに四回下山しています。三回はプララカオに上陸する斬り込み隊の受け入れ(1回目は海軍第955部隊の戦死者の埋葬を兼ねていました)。四回目は、デュタイ(小高地)でマラリヤで昏倒して米軍の俘虜になって下山した時だったそうです。
大岡昇平氏のプララカオ・デュタイ(小高地)再訪の目的は、マラリヤと飢餓で落命した多くの戦友の魂に額ずいて語り合い、自らも手伝って埋葬した海軍兵士(10名)の遺骨の一部でも持ち帰りたかった・・・・と述懐されています。
大岡昇平氏に成り代わることは到底できませんが、プララカオの海岸線から北方10㌔の山中に位置するデュタイ(小高地)に向かって合掌し、心のなかで祈りを捧げました。
次回は、西ミンドロ島のデュタイで米軍の俘虜となった大岡昇平氏とK氏の父君がレイテ島の俘虜収用所を経て日本へ生還するまでについて書こうと思っています。