6月12日付けのブログ『5:比島旅行・ミンドロ島・零戦改造の水上戦闘機』の続きです。

前回までの粗筋
バンコク在住の親しき友人K氏の父君が旧日本海軍の航空機整備の補充兵として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡ることになりました。最初に訪れたのは、ルソン島に近いミンドロ島西ミンドロ州サンホセ・カミナウイットの海軍護衛航空隊佐世保鎮守府常設航空隊(略称:第955海軍航空隊)の水上機基地跡です(下掲左写真)。

  
左:ミンドロ島西ミンドロ州サンホセ・カミナウイットの第955海軍航空隊水上機基地跡
右:イメージ写真・南太平洋マーシャル諸島の海軍航空隊水上機基地(HPから拝借)

K氏の父君が水上機基地で整備されていた航空機は、三菱零式艦上戦闘機11型(単座単葉)を水上機仕様に改造した中島二式水上戦闘機 (略称:二式水戦)でした。そして、栗田艦隊の重巡洋艦羽黒などが搭載していた三菱零式水上観測機11型(略称:零観)も、レイテ島海戦に備えてカミナウイットに前進駐留していたようです。

  
左:カミナウイット基地の常駐機・中島二式水上戦闘機 (単座単葉)
右:戦艦大和や重巡羽黒等に搭載されていた三菱零式水上観測機11型(複座複葉)
(HPより拝借)


フィリピンの戦跡巡りをするに当たって、K氏の父君(故人)が所属されていた海軍955航空隊の駐屯地を記した資料が無くて困り果てていたのですが・・・

期せずして同時期にミンドロ島西ミンドロ州南西部のサンホセ・バランゲイに駐留されていた大岡昇平氏(陸軍暗号手)の『ミンドロ島ふたたび』と『俘虜記』の著作に助けられて、第955海軍航空隊水上機基地の当時の在り処を推定することが出来たのは幸いでした。

ほぼ同年齢の御両氏は、海軍と陸軍の違いはありますが、ほぼ同時期に日本で補充兵として臨時召集され、フィリピン・ミンドロ島内の近隣地域に駐留、同じ山中で虫の息になっているところを米軍に捉えられて俘虜となり、レイテ島の俘虜収容所に送致されるという同じ足跡を歩まれていたのです。

K氏の父君と大岡昇平氏の軍歴を併せて下掲して置きます。 【青字=大岡氏の軍歴】
 ■1944年3月    近衛歩兵聯隊の暗号兵として教育召集(35歳)
 ■1944年4月1日  舞鶴鎮守府舞鶴海兵団に海軍二等整備兵として入営・臨時招集の補充兵(36歳)。
 ■1944年4月10日 海軍鈴鹿航空隊で航空機整備の初歩訓練。
 ■1944年6月19日 海軍名古屋航空隊・岡崎分遣隊(第二岡崎海軍航空隊)で航空機整備の訓練。
 ■1944年6月     第35軍司令部第105師団陸軍二等兵暗号手として臨時召集
 ■1944年8月    第105師団独立歩兵第359大隊臨時歩兵第1中隊(西矢中尉)本部に配属。
              ミンドロ島西ミンドロ州南西部サンホセ・バランガイの中隊本部暗号手として駐留。
 ■1944年8月1日  海軍護衛航空隊佐世保鎮守府常設航空隊(第955海軍航空隊)に配属。
 ■1944年9月上旬 ミンドロ島南西部サンホセ・カミナウイットの水上機基地に駐留。

四国の半分の大きさのミンドロ島に駐留していた日本軍は、陸軍兵と海軍兵、そして、レイテ島へ向かう途中に撃沈された民間輸送船の船員200名(非戦闘員)を含む726名。しかも、兵士の大半は、敗色が濃くなって臨時召集された戦闘能力の低い補充兵でした。

ミンドロ島の日本軍の駐留地と兵力の内訳(参考)
 ■西矢中尉の率いる臨時歩兵第1中隊=160名・・・第1中隊本部(西ミンドロ州サンホセ)
   第一小隊 プララカオ、第2小隊 パルアン 、第三小隊 サンホセ
   ※大岡昇平氏は第1中隊本部付きの暗号手
 ■塩野中尉の率いる臨時歩兵第2中隊=100名・・・第2中隊本部(東ミンドロ州カラパン)
   第一小隊 ルバング島、第二小隊 ピナマラヤン、第三小隊 カラパン
 ■石橋少尉の率いる海軍955航空派遣隊=60名・・・本部(西ミンドロ州サンホセ・カミナウイット)
   ※K氏の父君の所属部隊
 ■陸軍第四航空軍気象観測班=6名
 ■船舶工兵(大発艇の運航)=200名 
 ■撃沈された徴用民間輸送船の船員=200人(非戦闘員)


ミンドロ島(西ミンドロ州・東ミンドロ州)の日本軍駐留地・・・(赤字)

ルソン島バタンガスの陸軍第8師団本部に駐留する後方要員を合わせても1千人余
りの手薄な守備体制だったことが分かります。兵力を集中して死守すべきはルソン島であり、ミンドロ島は見放された拠点だったのかもしれません。


しかし、連合国軍南西太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサーの考えは違いました。ルソン島に立て籠もる日本陸軍を攻撃する陸上航空基地建設の適地を求めていたマッカーサー大将は、日本陸軍を撃滅して奪還したレイテ島の飛行場よりも、日本軍の手薄なミンドロ島に飛行場3箇所を新たに建設する事を優先したのです。


レイテ島 ⇔ マニラ ⇔ ミンドロ島の位置関係を見るとミンドロ島の優位性が分かります。

米軍のミンドロ島攻略の経緯を振り返ってみましょう。
1944年12月12日
レイテ島を奪還したマッカーサー大将は、ストルーブル准将の艦隊(108隻)を、ルソン島に近いミンドロ島南西部のマンガリン湾へ急行させます。


1944年12月13日
米軍艦隊がミンダナオ海からスールー海に至る海域を航行中、神風特攻第二金剛隊(零戦3機)と陸軍特攻一宇隊(隼1機)が旗艦ナッシュビルの艦橋と艦尾に激突して爆発。砲弾が誘発して戦死133名、戦傷190名を出す大惨事に見舞われます。



戦線離脱を余儀なくされたストルーブル准将座乗の旗艦・軽巡洋艦ナッシュビル(HPより拝借)

ストルーブル准将は、大破した旗艦ナッシュビル号から駆逐艦ダーシュルに旗艦を移し、ミンドロ島への航海を続けます。ナッシュビル号は、フィリピンのコレヒドール島を脱出したマッカーサー大将が豪州→ニューカレドニア→レイテ島上陸に至るまで座乗していた旗艦でした。

当時の日本南方総軍は、ストルーブル准将の上陸地点をパラワン島かネグロス島辺りと誤認して警報を発令していたのですが、暫くして、米軍の目的が全く予期していなかったミンドロ島上陸と分かって慌てふためきます。しかし、とき既に遅しです。

1944年12月15日 06時10分
旗艦・駆逐艦ダーシュルに座乗するストルーブル准将に率いられた米軍艦船108隻が西ミンドロ州サンホセのマンガリン湾を埋め尽くします。


大岡昇平氏は、その時の様子を『ミンドロ島ふたたび』に次のように綴っています。
マンガリン湾の見張りをするために電報局の屋上を共用していた陸軍西矢隊と第955海軍航空隊は、12月15日の早朝、まだ暗いカミナウイットの沖合で盛んに燃えている火を認めた。夜が明けるとマンガリン湾一杯に艦船がいた。『連合軍が来た』と思った途端に艦砲射撃の第1発目が発射された。(hiro-1要約)



ストルーブル准将に率いられた米軍艦船108隻が攻め寄せたマンガリン湾の早朝風景
宿泊したVILLAの食堂から撮影(左奥:サンホセ・カミナウイット)


マンガリン湾を埋め尽くしたストルーブル准将の艦隊編成
  ■護衛艦隊:旗艦・駆逐艦(ダーシュル)、軽巡=2隻、駆逐艦=11隻
  ■支援艦隊:護衛空母=6隻、戦艦=3隻、重巡=2隻、魚雷艇=23隻
  ■上陸支援:高速輸送艦=8隻、戦車揚陸艦=30隻、中型揚陸艦=12隻


1944年12月15日 07:10
駆逐艦による一発目の艦砲射撃(威嚇射撃?)がサンホセ海岸に向けて発射されます。


1944年12月15日 07:30
一発目の艦砲射撃を合図に、米軍の第19歩兵連隊と503空挺歩兵連隊の約2万7千人(内空港建設要員1万7千人)は、サンホセの長い海岸線に上陸を敢行。

しかし、どうしたことか、日本軍の陸上陣地からの反撃はこれぽっちもなく、ブザンガ河口からサンホセ市街地の海岸線までの30㎞、内陸へ10㎞の橋頭堡を呆気なく構築します。


何となれば、米軍による艦砲射撃の最初の1発が発射された時、サンホセ海岸から6㎞内陸に入ったバランゲイの砂糖工場に駐屯していた大岡氏の所属する陸軍第1中隊本部と配下の第3小隊は、端から戦うことを放棄して、後背のバコ山(標高2,487m)に連なる山中へスタコラサッサと退避する真っ最中だったのです。


大岡昇平氏の所属する陸軍西矢中隊本部と第三小隊が駐留していた砂糖工場の跡地
砂糖工場入口周辺に、目印となる緑葉豊かなアカシアの大木が生き残っていました。


大岡氏の著述によると、西ミンドロ州各地に駐留していた西矢中尉の第二中隊(3個小隊)は、ルソン島バタンガスの大隊本部(第105師団独立歩兵第359大隊)から、下記の命令を受けていたとあります。
米軍が上陸したら、1個小隊だけをサンホセ高地の見張り分哨に残し、他の部隊は後背のMt.Bacoの連なる山中に退避して偵察妨害のゲリラ戦に従事せよ』(hiro-1要約)



西ミンドロ州と東ミンドロ州を跨いで聳える標高2,487mのバコ山(HPより拝借)

命令に従って退避した山中には、マラリヤ原虫を持つハマダラ蚊の大群が生息しています。ところが、艦砲射撃に動顛した衛生兵が、必需品のマラリヤ特効薬キニーネを運び出すのを忘れるという大失態を犯してしまいます。これが後に悲惨な結末を露呈することになるのですが・・・・

1944年12月15日 08:55
ミンドロ島駐屯の日本軍がバコ山中に退避した後、日本海軍の特攻機13機と直掩機12機がネグロス島から飛来、マンガリン湾内に碇泊する米艦船に対して猛烈な攻撃を加えます。


 
左:LSTの乗員を救助した駆逐艦・モール 右:神風特攻に慄く巡洋艦の砲手(HPより拝借)
A cruiser and a destroyer Moale covering American landing on the island Mindro 15 Dec.1944.


マンガリン湾北西のブザンガ川河口の海浜に接岸中の戦車揚陸艦(LST-472)も、特攻1機の体当たりを受けて爆発炎上し、積載中の車両250トンを喪失しています。しかし、特攻機の体当たり攻撃だけで、米軍の上陸作戦を阻止することなど出来る筈もありません。

1944年12月15日14:00
日本軍が退去したサンホセ・カミナウイット船着場を米軍魚雷艇隊(23隻)が占領。
この時点では、K氏の父君の駐留されていた水上機基地は、B24爆撃の砲撃を受けて跡形もありません。


12月26日頃
米軍の空港建設要員1万7千人は、大型建設機械をフル活用して、3箇所の空港建設に取り掛かり、12月下旬頃には、飛行場2箇所を仮オープンして、航空機約120機を展開するという凄まじい早業です。人海戦術でモッコを担いで土砂を運ぶ日本軍方式で太刀打ち出来る訳がありません。



現在も使用されている西ミンドロ州サンホセの空港 (旧マクガイヤ飛行場)

1944年12月15日の日没前
米軍による初日の上陸作戦は約12時間で終了。その後、48時間以内に、ミンドロ島を二分する西ミンドロ州と東ミンドロ州の主要地域の占領を終えています。/font>

斯くして、1944年12月15日早朝から日没に掛けての初日の上陸作戦は、米軍の一方的勝利によって終焉となりました。

1944年12月15日早朝の艦砲射撃の最初の1発を受けて、バコ山に連なる山中に逃げ込んだ日本の陸海軍兵士と非戦闘員の多くは、2週間もしない内にマラリヤに罹って横臥し、永続的な低栄養状態から飢餓に陥って急速に体力を消耗、軍隊としての機能を急速に失って行きます。

バコ山に連なる山中で、大岡氏はマラリヤに罹って野天で横臥し、K氏の父君は栄養失調によって身動き出来なくなるのですが・・・・デュタイと呼ばれる山地の灌木の中でマラリアの高熱で意識朦朧となって死を意識した大岡昇平氏の文章が頭に残りました。


フィリピン西部の島々では、12月は収穫期である。我々が歩む前方の原が焼け、トウモロコシの殻を燃やす煙が上がっていたのを思い出した。
『艦砲射撃1発で敗残兵になっちゃたなあ』と或る下士官が嘆いた。
敗走の中で自然がますます美しくなって行くのは、自分の死が近づいた確実なしるしのように、私には思われた。しかし、その時、私が見た自然がフィリピンの観光的美景であったのは皮肉である。


次回は、ミンドロ島の山中で露営しながら壊滅への道程を歩む日本陸軍の2個中隊と海軍955部隊(K氏の父君の部隊)の様子について綴ってみたいと思います。