2016年5月30日付けの投稿記事 『 3:比島旅行・ミンドロ島サンホセに到着 』の続きです。
前回までの粗筋
旅友で飲み友でもあるK氏とバンコクの居酒屋で酒食を共にしている時、K氏から『フィリピン戦線で米軍の捕虜となった父親がレイテ島タクロバンの俘虜収容所から日本に生還した』という話を聴かされ、お酒の勢いも手伝って、今は亡きK氏の父君の足跡を辿る旅に出ようということになりました。K氏が厚生労働省から入手した父親の海軍軍歴簿によって、K氏の父君の軍隊での大まかな足跡が判明しました。
海軍の舞鶴鎮守府入営⇒鈴鹿海軍航空隊⇒名古屋海軍航空隊⇒岡崎海軍航空隊で航空機整備兵の教育を受けた後に、佐世保鎮守府の海軍護衛航空隊常設部隊(第955部隊)に配属となり、南シナ海に面したミンドロ島西ミンドロ州南端のサンホセ水上機基地に駐屯。四ヶ月後に同島山中で飢餓状態となって米軍に捕らわれ、太平洋に面したレイテ島の俘虜収容所に送致されていました。
K氏の父君の大まかな足跡が分かったところで、僕とK氏は、バンコクからマニラに向かい、ミンドロ島西ミンドロ州のサンホセ空港に到着。サンホセ郊外の宿泊所となるVILLAに到着。
老日本人2名を迎え入れたVILLAの30歳前後の女性主人は、70年前の日本海軍の水上機基地の跡地に行きたいと言う僕とK氏の突飛な目的と質問に少々面食らっていたようですが、そこは客商売、戦跡巡りのための側車付きオートバイ(トライスクル)2台の手配と値段交渉の面倒までもして貰えたのです。

2台のトライスクルに僕とK氏が分乗してVillaを出発。
僕を乗せた運転手君が先導して、先ずは宿泊所から四キロ離れたサンホセ市街を目指します。お世辞にも快適な乗り心地とは言えませんが、空港から宿泊所まで二キロの道程を1台のトライスクルに2人で乗って身体を苛まれた時のことを思えば、なんとか耐えられそうです。
走行しながら運転手君が声を大にして僕に語り掛けるのですが、中国製エンジンの騒音に掻き消されてよく聞き取れません。切れ切れに伝わる言葉から想像すると、VILLAの女性主人から指示された内容を繰り返しているようです。
『70年前の戦争・・・分かりません・・・市役所・・・観光課の職員・・・聴いて下さい』
『日本海軍の場所・・・若し分かれば・・・大丈夫、大丈夫・・・きっと・・・分かります』

西ミンドロ州サンホセ市の中心街を走行する市民の足のトライスクル。
アロマ海岸に面したVILLAからBubog St.を四キロあまり走行するとサンホセの市街地です。トライスクルを脇道に停車させて観光課の建物を捜し回っていた運転手君が両腕をホールドアップする仕草をしながら戻って来て、『担当職員が不在だった』と途方に暮れた表情を浮かべます。
『観光課職員から有益な情報を聴けるかも!』という想定外の展開に喜んでいたのですが、期待の御夢たがいて残念至極。とは言いながらも、運転手君の困惑した表情を見れば、そんな心情はおくびにも出せません。
僕『マンガリン湾内のCaminawitという場所に行って下さい』
彼『Caminawitは・・・本当に何もない所ですよ・・・』
僕『そうかもしれないけれど、とにかくCaminawitへ行って下さい』
運転手君は、サンホセ・セントラルの幹線道路を右折して、マンガリン湾の北側に通じる海岸沿いの曲がりくねった道を走り抜けてCaminawitへと向かいます。
彼『この辺りから先がCaminawitの地域になりますが、まだ先に進みますか?』
僕『マンガリン湾口の辺りまで行って下さい』
埃っぽい道を更に進むと、護岸と護岸の切れ目からマンガリン湾の海面が見えはじめました。現在地を確かめる為にトライスクルを停めてもらい、セメント護岸の上に這い上がると、湾内奥部のサンホセ市街地まで広がるマンガリン湾を一望のもとに見晴るかすことが出来ます。(下掲写真)

Caminawit地区からサンホセ市内まで広がるマンガリン湾。
上掲写真の画面左側に、僕とK氏が乗ってきたトライスクル2台が待機しているのが見えます。運転席に座ったまま僕達を眺めている運転手君は、『外国から高い旅費を払って態々来るような場所じゃないよな』と呆れ返っているように見えなくもありません。

熱帯地域の台風銀座特有のスクラップ&ビルドの質素な住居
護岸道路に面した狭い岩だらけの平地には、台風銀座の中で暮らす人々の生活の知恵でしょうか、スクラップ&ビルドの質素な住居が建ち並んでいます。日本海軍水上機基地の兵舎や修理廠も此のような佇まいだったのかも・・・そんな事を想像させるような雰囲気が漂っています。

サンホセの築港工事が行われていたCaminawitの工事現場
退屈そうに寝そべって待つトライスクルの運転手君を置いて、湾口に近い方向に進むと、二十人前後の労働者らしき人々が三々五々屯している埠頭拡張工事現場の入り口が見えて来ました。
工事現場の正門横の食い物屋台に屯していた上半身裸の労働者に『構内に入っても大丈夫ですか?』と問うても、鋭い眼光を放って僕を見返すだけで何も応えてくれません。エイ儘よとばかりに工事中の構内に踏み入って恐る恐る振り返っても、場違いな異邦人の我ら二人を遠くから眺めるだけで、特に進入を制止する様子もありません。

サンホセ・マンガリン湾内のCaminawitの遠浅の海辺
マンガリン湾に面した足場の悪い遠浅の海辺に歩を進めると、バンカと呼ばれる地元の漁業用の舟溜まりがあります。舟溜りの遠浅の海辺と背景に広がる岸辺を眺めていると、比島旅行出発前に目にした旧日本海軍の二式水上戦闘機(偵察機)の基地を写した古写真(下掲写真)と眼前に広がるCaminawitの海浜が、瞼の奥で重なるように浮かびあがって来ました。

横須賀鎮守府特設航空隊(海軍第802航空隊)の二式水上戦闘機 (偵察機)の基地
上掲写真の海軍基地(南太平洋マーシャル諸島)は、K氏の父君が所属していた海軍第955航空隊の写真ではありませんが、椰子の木立が並ぶ遠浅の海浜に浮かぶ二式水上戦闘機(偵察機)の光景から想像するに、K氏の父君が駐屯されていたCaminawitの二式水上戦闘機(偵察機)の水上基地も、此のような光景だったと思われます。

南太平洋ショートランド基地の二式水上戦闘機(偵察機)の離着陸作業
大岡昇平氏の『俘虜記』、米軍の公刊戦史『モリソン海戦史』、米軍の戦闘詳報係のシャバルテイン一等兵の『レイテ戦記』には、日本海軍のミンドロ島の水上機基地の在り処は、サンホセのCaminawitと記されています。
Caminawit地域は、マンガリン湾の北側に迫り出した狭い陸地の内側に位置します。その狭い領域の中で北風と西風の影響が少なく、離着陸支援の容易な遠浅の立地を備えた場所となれば、此処以外には考えられないような・・・素人思考ではありますが、そんな気がしてなりません。
しかし、僕の見た限りでは、Caminawitには、ルソン島、セブ島、レイテ島、ミンダナオ島で見られるような慰霊碑や祈念碑は無くて確認の術もありません。そんな状況を鑑みると、仮に市役所観光課の職員に会えていたとしても、旧日本海軍の在り処の情報が得られたどうか甚だ疑問と言わざるを得ないような気もします。
ミンドロ島で多くの戦友を失った大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』に目を通しても、日本からの比島遺骨収集団の活動が頻繁に実施されていた頃であっても、ミンドロ島に寄港した遺骨収集船は全く無く、飢餓で壊滅状態となった部隊の戦友の屍は、今だに山中に放置された儘になっていると記されています。
Caminawitの舟溜まりの撮影を終えてからK氏を見返ると、僕の視線から逃れるように踵を返して波静かなCaminawitの海面を押し黙って見つめています。若かりし頃に相撲の選手だったという彼の大きな背中が、その昔この場所で生活していたであろう父君の息吹を感じているかのように、小刻みに震えているように見えました。
次回は、押し寄せた米軍艦隊の放った一発の砲撃で、ミンドロ島山中に退避することになった日本陸軍と海軍について綴りたいと思います。
前回までの粗筋
旅友で飲み友でもあるK氏とバンコクの居酒屋で酒食を共にしている時、K氏から『フィリピン戦線で米軍の捕虜となった父親がレイテ島タクロバンの俘虜収容所から日本に生還した』という話を聴かされ、お酒の勢いも手伝って、今は亡きK氏の父君の足跡を辿る旅に出ようということになりました。K氏が厚生労働省から入手した父親の海軍軍歴簿によって、K氏の父君の軍隊での大まかな足跡が判明しました。
海軍の舞鶴鎮守府入営⇒鈴鹿海軍航空隊⇒名古屋海軍航空隊⇒岡崎海軍航空隊で航空機整備兵の教育を受けた後に、佐世保鎮守府の海軍護衛航空隊常設部隊(第955部隊)に配属となり、南シナ海に面したミンドロ島西ミンドロ州南端のサンホセ水上機基地に駐屯。四ヶ月後に同島山中で飢餓状態となって米軍に捕らわれ、太平洋に面したレイテ島の俘虜収容所に送致されていました。
K氏の父君の大まかな足跡が分かったところで、僕とK氏は、バンコクからマニラに向かい、ミンドロ島西ミンドロ州のサンホセ空港に到着。サンホセ郊外の宿泊所となるVILLAに到着。
老日本人2名を迎え入れたVILLAの30歳前後の女性主人は、70年前の日本海軍の水上機基地の跡地に行きたいと言う僕とK氏の突飛な目的と質問に少々面食らっていたようですが、そこは客商売、戦跡巡りのための側車付きオートバイ(トライスクル)2台の手配と値段交渉の面倒までもして貰えたのです。

2台のトライスクルに僕とK氏が分乗してVillaを出発。
僕を乗せた運転手君が先導して、先ずは宿泊所から四キロ離れたサンホセ市街を目指します。お世辞にも快適な乗り心地とは言えませんが、空港から宿泊所まで二キロの道程を1台のトライスクルに2人で乗って身体を苛まれた時のことを思えば、なんとか耐えられそうです。
走行しながら運転手君が声を大にして僕に語り掛けるのですが、中国製エンジンの騒音に掻き消されてよく聞き取れません。切れ切れに伝わる言葉から想像すると、VILLAの女性主人から指示された内容を繰り返しているようです。
『70年前の戦争・・・分かりません・・・市役所・・・観光課の職員・・・聴いて下さい』
『日本海軍の場所・・・若し分かれば・・・大丈夫、大丈夫・・・きっと・・・分かります』

西ミンドロ州サンホセ市の中心街を走行する市民の足のトライスクル。
アロマ海岸に面したVILLAからBubog St.を四キロあまり走行するとサンホセの市街地です。トライスクルを脇道に停車させて観光課の建物を捜し回っていた運転手君が両腕をホールドアップする仕草をしながら戻って来て、『担当職員が不在だった』と途方に暮れた表情を浮かべます。
『観光課職員から有益な情報を聴けるかも!』という想定外の展開に喜んでいたのですが、期待の御夢たがいて残念至極。とは言いながらも、運転手君の困惑した表情を見れば、そんな心情はおくびにも出せません。
僕『マンガリン湾内のCaminawitという場所に行って下さい』
彼『Caminawitは・・・本当に何もない所ですよ・・・』
僕『そうかもしれないけれど、とにかくCaminawitへ行って下さい』
運転手君は、サンホセ・セントラルの幹線道路を右折して、マンガリン湾の北側に通じる海岸沿いの曲がりくねった道を走り抜けてCaminawitへと向かいます。
彼『この辺りから先がCaminawitの地域になりますが、まだ先に進みますか?』
僕『マンガリン湾口の辺りまで行って下さい』
埃っぽい道を更に進むと、護岸と護岸の切れ目からマンガリン湾の海面が見えはじめました。現在地を確かめる為にトライスクルを停めてもらい、セメント護岸の上に這い上がると、湾内奥部のサンホセ市街地まで広がるマンガリン湾を一望のもとに見晴るかすことが出来ます。(下掲写真)

Caminawit地区からサンホセ市内まで広がるマンガリン湾。
上掲写真の画面左側に、僕とK氏が乗ってきたトライスクル2台が待機しているのが見えます。運転席に座ったまま僕達を眺めている運転手君は、『外国から高い旅費を払って態々来るような場所じゃないよな』と呆れ返っているように見えなくもありません。

熱帯地域の台風銀座特有のスクラップ&ビルドの質素な住居
護岸道路に面した狭い岩だらけの平地には、台風銀座の中で暮らす人々の生活の知恵でしょうか、スクラップ&ビルドの質素な住居が建ち並んでいます。日本海軍水上機基地の兵舎や修理廠も此のような佇まいだったのかも・・・そんな事を想像させるような雰囲気が漂っています。

サンホセの築港工事が行われていたCaminawitの工事現場
退屈そうに寝そべって待つトライスクルの運転手君を置いて、湾口に近い方向に進むと、二十人前後の労働者らしき人々が三々五々屯している埠頭拡張工事現場の入り口が見えて来ました。
工事現場の正門横の食い物屋台に屯していた上半身裸の労働者に『構内に入っても大丈夫ですか?』と問うても、鋭い眼光を放って僕を見返すだけで何も応えてくれません。エイ儘よとばかりに工事中の構内に踏み入って恐る恐る振り返っても、場違いな異邦人の我ら二人を遠くから眺めるだけで、特に進入を制止する様子もありません。

サンホセ・マンガリン湾内のCaminawitの遠浅の海辺
マンガリン湾に面した足場の悪い遠浅の海辺に歩を進めると、バンカと呼ばれる地元の漁業用の舟溜まりがあります。舟溜りの遠浅の海辺と背景に広がる岸辺を眺めていると、比島旅行出発前に目にした旧日本海軍の二式水上戦闘機(偵察機)の基地を写した古写真(下掲写真)と眼前に広がるCaminawitの海浜が、瞼の奥で重なるように浮かびあがって来ました。

横須賀鎮守府特設航空隊(海軍第802航空隊)の二式水上戦闘機 (偵察機)の基地
上掲写真の海軍基地(南太平洋マーシャル諸島)は、K氏の父君が所属していた海軍第955航空隊の写真ではありませんが、椰子の木立が並ぶ遠浅の海浜に浮かぶ二式水上戦闘機(偵察機)の光景から想像するに、K氏の父君が駐屯されていたCaminawitの二式水上戦闘機(偵察機)の水上基地も、此のような光景だったと思われます。

南太平洋ショートランド基地の二式水上戦闘機(偵察機)の離着陸作業
大岡昇平氏の『俘虜記』、米軍の公刊戦史『モリソン海戦史』、米軍の戦闘詳報係のシャバルテイン一等兵の『レイテ戦記』には、日本海軍のミンドロ島の水上機基地の在り処は、サンホセのCaminawitと記されています。
Caminawit地域は、マンガリン湾の北側に迫り出した狭い陸地の内側に位置します。その狭い領域の中で北風と西風の影響が少なく、離着陸支援の容易な遠浅の立地を備えた場所となれば、此処以外には考えられないような・・・素人思考ではありますが、そんな気がしてなりません。
しかし、僕の見た限りでは、Caminawitには、ルソン島、セブ島、レイテ島、ミンダナオ島で見られるような慰霊碑や祈念碑は無くて確認の術もありません。そんな状況を鑑みると、仮に市役所観光課の職員に会えていたとしても、旧日本海軍の在り処の情報が得られたどうか甚だ疑問と言わざるを得ないような気もします。
ミンドロ島で多くの戦友を失った大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』に目を通しても、日本からの比島遺骨収集団の活動が頻繁に実施されていた頃であっても、ミンドロ島に寄港した遺骨収集船は全く無く、飢餓で壊滅状態となった部隊の戦友の屍は、今だに山中に放置された儘になっていると記されています。
Caminawitの舟溜まりの撮影を終えてからK氏を見返ると、僕の視線から逃れるように踵を返して波静かなCaminawitの海面を押し黙って見つめています。若かりし頃に相撲の選手だったという彼の大きな背中が、その昔この場所で生活していたであろう父君の息吹を感じているかのように、小刻みに震えているように見えました。
次回は、押し寄せた米軍艦隊の放った一発の砲撃で、ミンドロ島山中に退避することになった日本陸軍と海軍について綴りたいと思います。