2016年5月22日付けの投稿記事 『 2:比島旅行・ミンドロ島へ行こう 』の続きです。

前回までの粗筋
フィリピン戦線で捕虜となり、レイテ島の俘虜収容所生活を経て日本に復員された友人K氏の父君(故人)のフィリピンにおける足跡を辿る旅をすることになりました。しかし、父君のレイテ島以前の軍歴が判然としません。そこで、友人K氏が戸籍謄本を添えて厚生労働省に問い合わせたところ、待つこと40日にして、僅か数行だけの呆れるほど簡単な軍歴記録が到着。

それによると、K氏の父君は、ミンドロ島の山中で飢餓状態になって樹上で転寝をしている時に米軍に捕らわれてレイテ島俘虜収容所に送致され、日本の無条件降伏後にレイテ島から復員されたことが判明。

率直に言って、入手するのに40日も待たなければならない程の書類とはとても思えないのですが・・・それでも、比島で訪れる場所が、南シナ海側の「ミンドロ島」と太平洋岸の「レイテ島」であることが判明したのですから、素直に良しとしなければなりませんね。

せっかくの比島旅行ですので、比島戦線を少しでも識る意味を込めて、下記の五カ所も訪れてみようということになりました。
 ■海軍乙事件が発生したセブ島ナガ地域。
 ■海軍特別攻撃隊の【ゼロ号】が飛び立ったセブ島の航空基地
 ■海軍特別攻撃隊の【第1号】が飛び立ったルソン島のマバラカット基地
 ■海軍特攻艇【震洋】が初めて出撃したカビテ州コレヒドール島。
 ■死の行軍として非難されたルソン島のバターン半島

本日より、先ずは、第一目的地のミンドロ島サンホセの旅を綴ることにします。

南シナ海に面するミンドロ島南部のサンホセ空港へは、マニラのニノイ・アキノ空港から格安航空のCebu Pacific Airが一日一往復の就航をしています。しかし、航空券のネット予約に従ってinputしても、最終画面に至ると原因告知も無いままに『予約不可』になってしまいます。日程変更しても同じ状態が続発するので、『ミンドロ島行を諦めざるを得ないかもしれない』とK氏に途中経過を入れると、K氏から悲しそうなメールが着信。



西ミンドロ州南端の西側に位置するサンホセ
北部沖に小野田少尉で有名になった東ミンドロ州のルバング島、更にその北北東のマニラ湾口には
カビテ州に属するコレヒドール島が位置しています。


K氏の悲しいメールに触発されて今一度 Cebu Pacific air に問い合わせを入れると、マニラ⇔ミンドロ島のネット申し込はCebu Pacific AirのDiret salesしかないことが判明。間髪を容れずに予約申し込みをするも、当初予定の日程は既に満席状態。旅程日を変更して何とか往復チケットを入手する事が出来てホッとひと安心です。

ニノイ・アキノ(マニラ)空港発午前6時5分発の便に乗り込んで、55分のフライトで西ミンドロ州南端のサンホセのアロマ海岸に面したサンホセ空港(San Jose Airpor)に到着。比島国内線としての空港等級は最上級の「第1種空港」らしいのですが、空港建物はとても簡素な佇まいです。



サンホセ(San Jose)空港 (旧名:McGuire Field)

サンホセ空港は、つい最近まで、日本軍機を38機撃墜した米国全軍第二位のエースパイロットのトーマス・マクガイア陸軍少佐(Thomas B.McGuire,Jr.)に因んで「McGuire Field」と呼ばれていたそうです。マクガイア少佐は、フィリピン・ネグロス島上空で、日本陸軍戦闘機隊(四式戦闘機・疾風)の新米パイロットだった福田端則軍曹に撃墜されて戦死(1945年1月24歳没)された方でした。

全米第2位のエース・パイロットが、日本軍の新米飛行士に撃ち落とされたという話が妙に印象に残り、福田端則軍曹の写真を探したのですが見つかりませんでした。福田軍曹は、比島戦線を生き抜いて復員されたようです。



全米第2位の撃墜実績を誇ったエース・パイロットのトーマス・マクガイア陸軍少佐

サンホセ空港(San Jose Airport)は、西ミンドロ州サンホセ市街中心部から北西へ約2km離れた場所に在るのですが、予約した宿泊所のVillaは、空港から更に北西へ二キロ離れたアロマ海岸の辺鄙な場所にあります。

サンホセ空港の車寄せには、予想はしていましたが、乗用車タイプのタクシーは一台もなく、「トライスクル」と呼ばれる中国製オートバイにサイドカーを取り付けたミンドロ・タクシーが客待ちしていました。



サンホセのサイドカースタイルのタクシー「トライスクル」

戦跡を尋ね歩く前に、先ずは手荷物を宿泊先のVillaに預けようと言うことになり、チョット大きめの1台の「トライスクル」に2人で乗り込んだのですが・・・これが間違いの元でした。

客席の横幅が狭い上に、クッション装置のリーフ・スプリング(板バネ)が二人の体重で伸びきってしまい、悪路の凸凹を全く吸収してくれないのです。空港からホテルまで僅か2㎞の道程だというのに、尻・太腿、腰・背中の筋肉の痛みと痺れに苛まれてしまいました。ミンドロ島滞在中のトライスクルの利用は、少々不便であっても、一人一台に如くは無しです。



此の辺りには一軒しかない海岸に面したVila
左側の二階2室が我らの宿泊した部屋。正面二階が海岸に面した自然通気の食堂。


予約したVillaは、サンホセ市街から約四キロ離れたBubog St.アロマ海岸の辺鄙な場所に在りました。街路灯も殆どないので、夜ともなれば真っ暗闇です。途轍もなく辺鄙な海岸沿いのVillaを選んだ理由は、米軍が150隻の艦船を擁して上陸したマンガリン湾を一望することが出来るからに他なりません。

米軍艦船によるミンドロ島サンホセの上陸目的は、ルソン島の日本軍を空から攻撃するための飛行場建設でした。米軍のサンホセ上陸は、米軍がレイテ島上陸に成功してから55日目の1944年12月15日です。

米軍のマッカーサー大将は、後れ馳せながらも、レイテ島タクロバンの空港建設を強行するよりも、日本軍守備の手薄なミンドロ島サンホセの二箇所の不時着飛行場を占拠して拠点飛行場にする優位性に気付いたようです。



1944年12月15日、150隻の米軍艦船が押し寄せたマンガリン湾(Villa食堂より撮影)

Villaに荷物を置いて身軽になったところで、Villa責任者の30歳前後の女性に、戦跡巡り用のサイドカー付きオートバイ(トライスクル)2台の調達を依頼。トライスクルが到着するまでの待ち時間を利用して慌ただしく質問をします。

僕  『日本海軍(955部隊)の基地が在った場所を知っていますか?』
女性 『聴いたこともないし・・・何も知らないわ』
僕  『1944年頃、日本海軍の水上偵察機の基地が在った場所なのですが?』
女性 『 生まれる前のことだし・・・何も分からないわ』

地球の歩き方を見ても、ミンドロ島の戦跡の紹介記事は、これポッチもありません。しかし、今回の旅に携行した大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』と『俘虜記』には、ミンドロ島のカミナウイットには、大岡昇平氏が所属していた第105師団独立歩兵第359大隊臨時歩兵第一中隊(中隊長・西矢政雄中尉)の『橋本軍曹の分隊』(全滅)とK氏の父君が所属していた『第955海軍航空隊』(殆ど戦死)が駐屯していたという記述があります。

更に、米国の公刊戦史『海戦史』(モリソン著)、或いは、米軍の戦闘詳報係のシャバルテイン一等兵の『レイテ戦記』のどちらかだったと思いますが、日本海軍の水上機基地が西ミンドロ州サンホセの『Caminawit』に在ったとする引用記事を思い出して質問を続けます

僕   『サンホセの港の近くにCaminawitと呼ばれる場所がありますか?』
女性 『知っているわよ。サンホセ港の北西側の埠頭辺りがCaminawitですよ』

彼女は、到着したばかりのトライスクルの運転手君に、タガログ語(?)らしき言葉で何かを指示し終わってから、強い訛りはあるものの、流暢な英語で僕に通訳してくれます。

『市役所観光課で日本軍基地について教えて貰うよう、運転手に指示して置きました』

さぁ、愈々、K氏の父君が駐屯されていたと思われるサンホセ港近隣のカミナウイットに向かって出発です。カミナウイットがK氏の父君の駐屯していた場所であることに期待を寄せながら・・・・

次回に続きます。