2016年05月13日付けの投稿記事『1:比島旅行・さぁどこの島へ行こう?』の続きです。

前回の概要
太平洋戦争中にフィリピン・レイテ島俘虜収容所から復員された旅友K氏の父君(故人)の比島での足跡を辿る旅に出ようという事になったのですが・・・肝心の足跡の起点となる上陸地点が判然としません。そこで、父君の所属部隊名と移動記録を詳らかにする作業に着手したのですが、なんとかなるものですね、K氏の父君の軍隊来歴の大まかな輪郭が浮かび上がってきました。

①京都府 舞鶴鎮守府に海軍の航空機の整備兵(補充兵)として入隊。
②舞鶴鎮守府⇛鈴鹿航空隊⇛名古屋航空隊⇛岡崎航空隊で整備兵の訓練を受ける。
③海上護衛航空隊 佐世保鎮守府 常設航空隊(第955部隊)へ配属。
④1944年12月26日、比島の海軍955航空隊へ派遣。
⑤ミンドロ島の山地で米軍に捕らえられてレイテ島の俘虜収容所へ送致。
⑥日本の無条件降伏によって、レイテ島から日本に復員。



K氏の父君の第955部隊が駐屯していたミンドロ島マンガリン湾

上記情報から、K氏の父君は、南シナ海側のミンドロ島で米軍の俘虜となり、太平洋側のレイテ島俘虜収容所に送致された事は分かったのですが、父君の比島での最初の上陸地点と駐屯地が判然としません。

そこで、海上護衛航空隊 佐世保鎮守府 常設航空隊(第955海軍航空隊)の比島作戦本部の所在地を求めて諸資料を調べたのですが、第955海軍航空隊本部の詳細を記した資料を見つけることが出来ません。



K氏の父君が俘虜として収容生活を送ったレイテ島(HP写真拝借)

試行錯誤を繰り返しつつネット検索を続行していると、ミンドロ島の第955部隊の派遣小隊は、南シナ海に浮かぶパラワン島プエルト・プリンセサから送り込まれた派遣部隊らしいとか・・・ルソン島マニラ湾南岸のマニラに近い小半島のキャビテ州カナカオ基地からの派遣部隊らしい・・・等の記述を見付けて小躍りして喜んだりしたのですが、何れもその根拠を確かめる術が見つかりません。

めげそうになる気持ちを奮い立たせて調べを進めていると、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものですね、第955海軍航空隊が最初に編成されたのは、フィリピン南部のミンダナオ島ダバオ(編成年月:1944年8月1日付け)であり、時を置かずして、パラワン島のプエルトプリンセサを含む3箇所とミンドロ島サンホセ基地(派遣隊長・石崎一朗少尉)に出先の小さな基地が設置されていたことが分かったのです。



第955海軍航空隊が最初に編成されたミンダナオ島ダバオ市(HP写真拝借)

第955海軍航空隊は、その後の戦況悪化によって、ザンボアンガのレコード基地、ボンガオ島基地、セブ島基地にも展開したようですが、最終的にはマニラ市街戦の陸戦部隊に参加して壊滅していました。しかし、K氏の父君は、それよりずっと以前に、米軍の俘虜となってレイテ島の俘虜収容所に送致されて命拾いされています。

残念ながら、K氏の父君の比島での最初の上陸地点を明らかにすることは叶いませんでしたが、参考図書として併読していた比島の日本軍について著した書籍から、幸運にも第955海軍航空隊の記述を幾つか読み取る事が出来ました。

例えば、日本陸軍の通信兵として、1944年8月~12月にかけてミンドロ島に駐屯していた大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の中に次のような記述がありました。

私が駐屯したミンドロ島サンホセにはマンガリン湾という浅い入り海があり、1944年9月末から、下駄履きのちゃちな水上偵察機で、一度空襲を受ければひとたまりもないような海軍の水上機と地上部隊(104名)が来ていた。ミンダナオ島やパラワンから疎開して来たのだろうと思っていたが、1944年8月1日に佐世保鎮守府から南フィリピンに展開した海上護衛航空隊(第955部隊)の派遣隊だった

K氏の父君が海軍の佐世保鎮守府を出発したのが1944年9月上旬頃ですので、海軍第955部隊のミンドロ島サンホセ基地は、その時点で既に設営されていた可能性があります。

何かの記事で読んだのですが、日本海軍がミンドロ島サンホセのマンガリン湾内に水上偵察機の小さな基地を設営した直後、米軍の空襲を受けて約10名が戦死するという事態が起こっています。レイテ島上陸に成功した米軍は、次なる上陸地点として不時着用飛行場のあるミンドロ島サンホセの占領を意図していたので、例え小さな水上偵察機の基地と言えども無視出来なかったのでしょう。

K氏の父君は、米軍の空襲を受けて10名の戦死者を出した水上偵察基地の補充兵として送り込まれたのかもしれません。日本軍によって1941年12月8日に一斉に実施された英領マレー半島上陸、米国準州の真珠湾空襲、米国植民地の比島空襲が行われた後の南支那海一帯は、まさに風雲急を告げる危険海域となり、日本艦船を狙う米国の潜水艦がウヨウヨしていました。

そんな危険な海域を、佐世保からミンダナオ島ダバオの本部まで航海する事はとても危険です。佐世保港を出港したK氏の父君は、ミンドロ島から遥か南に位置するミンダナオ島ダバオ基地に向かうことなく、日本から比較的近いミンドロ島サンホセの水上偵察基地に直接送り込まれた・・・と強引に考えることにしました。



フィリピン諸島の地図

今回のフィリピン旅行で訪れる島として、当初はパラワン島やミンダナオ島をも含めて検討していたのですが、集めた諸資料を鑑みて、今回のK氏の父君の足跡を辿るフィリピンの島は、ミンダナオ島サンホセの周辺地域、そして、俘虜として送られたレイテ島タクロバン地域に絞り込むことにしました。

美しいと伝聞するパラワン島プエルトプリンセサ、そして若かりし頃の僕の個人的思い出が残るミンダナオ島ダバオ(初恋の地はセブ島でしたが)にも足を延ばしてみたい気持ちもありましたが、限られた日程を考えると諦めざるを得ません。
 
ところが、事此処に至っても、ミンドロ島サンホセ地域内の当時の戦跡情報となると、まるで雲を掴むような状態で殆ど何も分かりません。老いたりと言えども、Let's take a chance and go for broke.『当たって砕けろ』の精神で現地の人々にしつこく訊ねる気構えはあるにしても、戦後70年という年月の流れを思うと、当時の負の遺産と記憶をどこまで留めているのか、とても気になるところです。

如何ともし難い問題は多々ありますが、出発までの時間をフル活用して、K氏の父君と殆ど同じ時期にミンドロ島で俘虜となり、レイテ島の俘虜収容所へ送られた大岡昇平氏の『俘虜記』、『ミンドロ島ふたたび』、『レイテ戦記』、『野火』(記述のなかにミンドロ島の情景描写あり)を通して、当時の地域情報をできるだけ拾い上げて今回の旅に備えることにしました。

次回は、ミンドロ島サンホセの旅行記です。