二回に分けて欧州の負の遺産旅行をしました。一度目は、ノルマンディー海岸を『ノルマンディーのロンメル』(F.ルーゲ著)を読みながらの旅でした。今年の二度目の旅行は、『アンネの日記』の増補新訂版(深町眞理子訳)を携えて、アンネの悲しい道程を辿りました。

アメブロ読者の方から拙ブログに頂戴したコメントには漏れなく御返事をしたのですが、非公開のメッセージや個人メールで頂戴した内容には、難しい御質問が多く、未だに御返事を差し上げていない二つの課題が積み残しになっています。(下蘭)

1:ナチス・ドイツの全ての強制収容所数と全体の犠牲者数を教えて下さい。        
2:反ユダヤ主義、反セム主義( Antisemitism)とは何ですか?


上記1については、旅行中も気になって仕方なかったのですが、僕の感覚を大きく外れた桁違いの数字が幾つもあることから、最期まで躊躇し続けながらも、結局触れないままに逃げてしまったことに対するお叱りの御質問かもしれません。

本日のブログは、心ならずも逃げていたかもしれない『ナチス・ドイツの全ての強制収容所数と全体の犠牲者数』を敢えて採り上げ、読者の方のお問い合わせに対する僕なりのお応えにしたいと思います

前置きが長くなりましたが、先ずは、質問1の『強制収容所の総数&犠牲者の総人数』に関する僕なりの回答です。

質問1-1:ナチス・ドイツの全ての強制収容所数と絶滅収容所数を教えて下さい。
質問1-2:経過収容所、強制収容所、労働収容所、絶滅収容所の設置数を教えて下さい。



ポーランド南部の第一強制収容所(アウシュビッツ)の正門にかかる「働けば自由になれる」の偽スローガン

質問1-1の回答:強制収容所の総数は、欧州16ケ国に52個所あったと思われます。
質問2-2の回答:ナチス収容所の正式名称は、唯一『強制収容所』だけでした。

従って、巷に伝わる『絶滅収容所』や『休養収容所』などの呼称は、強制収容所の種類を表す『別称・俗称』として使われていたようです。強制収容所によっては、絶滅・労働・通過などの複数の機能を持っていたところも多く、それぞれの収容所数を正確に把握することは難しいように思います。但し、絶滅収容所の機能を有していた強制収容所は、欧州4ケ国に10箇所存在していたと思われます。



ポーランド南部の第二強制収容所(ビルケナウ)・・・四ケ所のガス室を持つ絶滅収容所でした

『絶滅収容所』と称された強制収容所は、クロアチア、ベルラーシ、ウクライナに各1箇所、ポーランドに7箇所ありました。ドイツ国内には19箇所の強制収容所がありましたが、『絶滅収容所』の機能を有する収容所は、一寸意外ですが、一個所もありませんでした。


ポーランド南部(オシフィエンチムの第二強制収容所(ビルケナウ)の死体の野焼き場
第1~第5クレマトリウム(ガス室と死体焼却室の処理施設)を持つ絶滅収容所でしたが、あまりにも死体が多すぎて焼却が追いつかず、第5クレマトリウムの傍の空き地が野焼きの場所となっていました。


『強制収容所』の種類を表す様々な別称を列挙すると、一時収容所、集結地点、経過収容所、休養収容所、労働収容所、敵性国人収容所、ゲットー、絶滅収容所などがありますが、中には、複数の機能を兼ね備えた強制収容所も少なくなかったようです。


ドイツ北方の休養収容所と呼ばれていたベルゲン・ベルゼン強制収容の敷地に放置された亡骸

アンネとマルゴー姉妹が移送された幾つかの強制収容所を別称で表示すると、経過収容所 (ヴェステルボルグ)⇒ 絶滅収容所(ビルケナウ) ⇒ 休養収容所(ベルゲン・ベルゼン)となります。

しかし、姉妹の終焉の地となったのは、悪名高きビルケナウの絶滅収容所ではなく、休養収容所と呼ばれていたベルゲン・ベルゼン強制収容所でした。休養収容所とは言えども安全ということではなかったのですね。


質問1-3:全ての強制収容所の犠牲者数を教えて下さい。
回答:諸説ありますが、想像+証言+記録によると5,769,553人とする説が有力です。

質問1-4:ガス室で殺害された犠牲者数を教えて下さい。 
回答:ガス室での犠牲者数は、証拠書類が焼却されたので分かりません。

但し、上記の総犠牲者数(5,769,553人)の内、絶滅収容所における犠牲者数は、総犠牲者数の85%にあたる4,905,000人とする数字があります。


ポーランド南部の第一強制収容所(アウシュビッツ)のガス室
此処でのガス室ノウハウが、第二強制収容所(ビルケナウ)のクレマトリウム(殺人工場)に反映されました。



更に、代表的な絶滅収容所として遍く知られるアウシュビッツ-ビルケナウの強制収容所の犠牲者数は、その内の26%に相当する1,500,000人であったとする有力な説があります。但し、絶滅収容所の犠牲者数には、ガス室に於ける虐殺の他にも、病死、餓死、人体実験死、銃殺なども含まれています。


ポーランド南部の第一強制収容所(アウシュビッツ)の死体焼却設備
此処での焼却設備ノウハウが、第二強制収容所(ビルケナウ)のクレマトリウム(殺人工場)に反映されました。


ポーランド南部のアウシュビッツ-ビルケナウの強制収容所の犠牲者数に関する告発と証言が、ニュルンベルク裁判の記録に残っています。


ニュルンベルク裁判で裁きを受ける24人のナチス高官・・・12人が絞首刑
被告席にケルマン・ゲーリング、ハドルク・ヘス、リーベントロップ等の顔が見えます。


ニュルンベルク裁判の論告や証言記録の極一部を覘いてみましょう。
◆ソ連検事の論告:アウシュビッツ-ビルケナウ強制収容所で約400万人が虐殺された。
◆強制収容所長の証言:ガス室で250万人殺害。餓死と病気で50万人が死亡した。
◆裁判所の裁定結果:最大で150万人が犠牲になったと考えられる。
◆ユネスコの認定:最大で120万人と認定する。


上記の記録から、ポーランドの第一強制収容所(アウシュビッツ)と第二強制収容所(ビルケナウ)の犠牲者数だけを見ても、400万人-300万人-120万人の説があることが分かります。


第二強制収容所(ビルケナウ)の死の門から敷地内を貫通する鉄道の引き込み線

第二強制収容所(ビルケナウ)の死の門から敷地内を貫通する鉄道の引き込み線の終端の左右に、ナチスが証拠隠滅のために爆破した第二と第三クレマトリウム(殺人工場)の残骸が残っています。


第二強制収容所(ビルケナウ)のクレマトリウム(殺人工場)の残骸

その直ぐ先に、此の地で亡くなった方を哀悼する高さ3m前後の国際受難記念碑があり、『この地で150万人が死んだことを後世に伝える』とありました。受難記念碑前の地上には、20カ国に及ぶ犠牲者の言語で刻まれた石碑板が並んでいます。



国際受難記念碑(Międzynarodowy Pomnik Męczeństwa)と20カ国語による石碑板

ナチスによる「ユダヤ人問題の最終的解決」、つまり、ユダヤ人ホロコースト作戦(大虐殺)は、1942年1月20日のヴァンゼー会議(ベルリンのヴァン湖の別荘)で決定されたことになっています。


「ユダヤ人問題の最終的解決」が議決されたベルリン・ヴァン湖の別荘

しかし、ヒットラーは、1939年1月30日のナチスによる政権獲得6周年記念式でユダヤ人皆殺しを仄めかせる発言を行っており、1941年の夏以降になると、すでにホロコーストに手をつけ始めた形跡があります。一体何が彼をそうさせたのでしょうか。

質問2:反ユダヤ主義、反セム主義( Antisemitism)とは何ですか?

今回受けた質問の中で、僕にとっては最も難しい問題でした。今回の欧州の負の遺産旅行中も、自分に対して何度も問いかけたにも拘わらず、結局何の答えも得られなかった難題でもありました。 

それにしても、僅か5年間で約577万人もの人々を死に追いやったヒットラーの反ユダヤ主義、或は、反セム主義とは何なのでしょうか? 

この難問題についての僕の考えは未だに何も纏まっていないし、きっと分からないままで終わってしまいそうな予感もするのですが・・・・これまた敢えて、次回のブログでトライしてみようかと思っています。