≪昨年の12月24日付けブログからの続きです≫

マリー・アントワネットの愛人であるスウェーデン貴族のフェルセン伯爵については、昨年末の拙ブログの中でも、何度か脇役として登場して貰いました。  

日本女性の間では、フェルセンとマリー・アントワネットの恋を、騎士道の崇拝と奉仕に則った麗しい犠牲的愛情の迸りだと美化されている方が多いようですが、Gチャンである僕の目には、『非姦通』 を求めた 『騎士10戒』 からは、大きく逸脱しているように見えるのですが・・・・

本日のブログは、フェルセン伯爵の生涯年譜を拾い読みしながら、後々になって惨めな最期を遂げる彼の生涯に踏み込んで見たいと思います。


◆1755年9月4日 フェルセン誕生   
フェルセン(本名:ハンス・アクセル・フォン・フェルセン)は、スウェーデンの名門貴族だった王室顧問のフレデリック侯爵の子息として生まれています。 フランス大好き人間の父親は、家庭内でも、フランス語を話すことを好んでいたらしく、後年、フェルセンがマリー・アントワネットと初めて会った折に、フランス語の会話で意気投合できた下地は、このあたりにあったのですね。


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左:フェルセンの父親・フレデリック侯爵(スウェーデン王室の顧問)
右:若かりし頃のハンス・アクセル・フォン・フェルセン


◆1770年 フェルセン欧州遊学に出発(15歳)       
18世紀のスウェーデン王国の富裕貴族の教育慣習に従って、15歳になったフェルセンは、家庭教師を伴って、医学、音楽、哲学、兵学、剣術などを修めるために3年間の欧州遊学に出発します。女性修養の研鑽(?)も含まれていたのでしょうか?

 
◆1774年1月30日 フェルセン(18歳)とマリー・アントワネットの出会い
1773年の12月、遊学先のパリで社交界にデビューしたフェルセンは、翌年の1月に開催されたパリ・オペラ座の仮面舞踏会に参加。 その舞踏会場にお忍びで参加していた王太子妃マリー・アントワネット(18歳)と会話を交わす幸運に恵まれます。
 
スウェーデン訛りのフランス語とオーストリア訛りのフランス語を話す18歳の両者は、たちまち意気投合したようですが、王太子妃の存在に気付いた周りの貴婦人が群がって来たために、若いフェルセンは、遠慮してその場から離れざるを得ませんでした。


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パリ・オペラ座で意気投合した同い年の王太子妃マリー・アントワネットと青年貴族のフェルセン


◆1774年5月10日 王妃となったマリー・アントワネット(18歳)                                     
ルイ15世の崩御により、ルイ王太子(19歳)がブルボン朝第4代のフランス人の国王として即位(ルイ16世)したことにより、王太子妃マリー・アントワネットは、18歳にして王妃マリー・アントワネットとなります。 


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パリのノートルダム寺院で行われたルイ16世の戴冠式(在位:1774年5月10日-1792年8月10日)

◆1774年5月12日 フェルセン(18歳)と王妃マリー・アントワネットの不倫
一説によると、フェルセンは、マリー・アントワネットとの不倫の関係を清算するために、戴冠式の2日後に、自発的にパリから英国へ去ったというのですが・・・・・・事情通の話しによれば、性的不能者(完全包茎)でありながら、その回復手術を拒否していたルイ王太子は、妻のマリー・アントワネットとフェルセンの不倫関係を黙認していたのだから、逃げ出す必要はなかった・・・と言うのですが・・・何れにしても奇妙で理解しがたい関係ですね。


◆1778年4月16日 フェルセン(22歳)、英国の貴族令嬢に求婚して失恋                                  
ロンドンに逃避(?)したフェルセンは、王妃マリー・アントワネットとの別離で焼けの勘八にでもなっていたのでしょうか? 知り合って僅か2ケ月で貴族令嬢にプロポーズするのですが、両親と離れてスウェーデン暮らしをすることを嫌ったおぼこ娘に一蹴されています。


◆1778年8月25日 フェルセン (22歳)、王妃マリー・アントワネットと再会 
英国からパリに舞い戻ってヴェルサイユ宮殿を訪れたフェルセンは、王妃マリー・アントワネットと3年ぶりの再会を果たします。 その時、性的不能から手術によって快復したルイ16世の子供を身ごもっていた王妃マリ-・アントワネットは、『アラ! なつかしい顔ね!』 と満面の笑みを浮かべて迎えてくれたそうです。


◆1778年12月19日 王妃マリー・アントワネット(23歳)、長女マリー・テレーズを出産
後年、堅物で気難しい女性に育った長女マリー・テレーズは、母マリー・アントワネットの不倫の相手だったフェルセンを酷く嫌い、宮殿内で顔を合わすことがあっても、決して口を開くことが無かったとか。


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長女マリー・テレーズの少女時代と成人後の姿( 1778年12月19日 生-1851年10月19日没)

◆1779年 フェルセン (24歳)と王妃の公然たる不倫
王妃マリー・アントワネットの推薦によってヴェルサイユ宮殿のスウェーデン人の連隊長の仕事を得たフェルセンは、ヴェルサイユ宮殿内を堂々と闊歩できる肩書きを手に入れます。 

マリー・アントワネットの大のお気に入りだった享楽的な女官長のポリニャック伯爵夫人にいたっては、外国人のフェルセンは、遊び相手として打って付けだと焚きつけたというのですから・・・まさに呆れが宙返りをするとはこの事です。

1779年4月10日付けのスウェーデン大使の本国への報告書には、フェルセンと王妃アントワネットとの不倫は極めて危険であるからして、フェルセンをパリから追い払うために、アメリカ独立戦争に従軍させるべきと記してあったそうです。

◆1779年7月 マリー・アントワネット(23歳)流産
王妃マリー・アントワネットが流産した赤子が誰の子供であったのか・・・本当に流産だったのか・・・今となっては神のみぞ知る世界です。


◆1780年 5月4日 フェルセン(24歳)、アメリカ独立戦争に従軍
フェルセンは、アメリカの独立戦争を支援するロシャンボー将軍のフランス軍団(10,800人)の副官として従軍することになり、2年あまり続いたマリー・アントワネットとの蜜月を一旦中断してアメリカに渡ります。

 
◆1781年10月17日 フェルセン(26歳)、アメリカ独立戦争で大活躍
アメリカ・ヨークタウンのイギリス軍(コーンウォリス将軍の)との攻防戦で武勲を立てたフェルセンは、アメリカ大陸軍のジョージ・ワシントン将軍から勲章を授与されていますが、その折の様子を描いた絵画の中に彼の勇姿を見ることが出来ます。 単なるドン・ファンだろうと思っていたフェルセンですが、職業軍人としての能力も具えていたようですね。


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 英国軍を降伏させたヨークタウンの戦いを描いた絵画
(左列馬上の5人目がフェルセン、中央馬上:ワシントン、右馬上:リンカーン)


◆1781年10月22日 王妃マリー・アントワネット(25歳)、ルイ16世の嫡子を出産 
◆1782年10月 フェルセン(27歳)、アメリカ派遣フランス軍団の連隊長に昇格
◆1783年1月 フェルセン(27歳)、スペインを支援するためにベネズエラへ転戦
◆1783年11月 フェルゼン(28歳)、ベネズエラからパリに帰国


3年6ケ月ぶりにパリ帰国を果たしたフェルセンですが、王妃マリー・アントワネットとの逢瀬を果たす間もなく、スウェーデン国王グスタフ3世の随行を命じられて諸国歴訪の旅に出ています。

◆1784年6月以降、フェルセン(28歳)と王妃マリー・アントワネット不倫再開
ルイ16世の嫡子を出産したマリー・アントワネットは、王妃としての義務を果たした開放感(?)からでしょうか、ヴェルサイユ宮殿を訪れるフェルセンとの逢瀬を重ねるようになります。

性的不能者だった頃のルイ16世が、王妃とフェルセンの不義を黙認せざるを得なかった事情は、なんとか理解するとしても、此の時点のルイ16世は、快復手術を終えて立派な健常者になっていた筈なのですが・・・・・

◆1785年 フェルセン(29歳)、グスタフ王の命令によってパリに定住
フェルセンと王妃マリー・アントワネットの不倫を知っていながら、そのフェルセンにパリ定住を命令したスウェーデン国王グスタフ3世の狙い所は那辺にあったのでしょか? 

アメリカ独立戦争の従軍後、スウェーデンのグスタフ3世王に随行して諸国歴訪の旅を終えてからのフェルセンは、『 グスタフ3世王の直属のスパイ』 だったとする説があります。

ルイ16世を凌ぐ権力を欲しいがままにしていた王妃アントワネットを籠絡して、スウェーデン側に有利となるように画策する事がフェルセンに課せられた仕事だったと云うのですが・・・

2人の関係を騎士道的な犠牲的愛情の迸りだと思う日本女性からは、麗しい2人の関係を貶める為のガセネタだと大反論を受けそうですが・・・・・・


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左:スウェーデン国の啓蒙的専制君主のグスタフ3世
右:グスタフ王のスパイ(?)になったフェルセン伯爵 


Gちゃんの僕としては、急進的な反王党派(共和党派)の台頭で大きく揺らぎ始めたフランス王朝の絶対王政の危機的状況を把握するために、スウェーデン国王のグスタフ3世が、寵臣のフェルセン伯爵をフランス王政の拠点であるヴェルサイユ宮殿に送り込んだとする説の方が分かりやすいような気がするのですが・・・・・・

何となれば、王権神授説に拠って絶対王政を敷くグスタフ3世にとって、フランスで燃え滾る民衆革命の封じ込みは、『他山の石以て玉を攻むべし』 、つまり、自国の絶対王政を固守するために必要不可欠な戦略だったのではないでしょうか?

(次回に続きます)