前回ブログでは、マリー・アントワネットの女官だった2人の貴族夫人について触れましたが、今回は、テュイルリー宮殿で実質的に囚われの身となったルイ16世王妃マリー・アントワネットの運命に関与した男性貴族について触れてみたいと思います。

先ずは、ヴェルサイユ宮殿に押し寄せた女性を主体とする群集(ヴェルサイユ行進)や急進的な反王党派を制御する立場にあった立憲君主派のラ・ファイエット侯爵・国民衛兵隊司令官(下左写真)、そして、そのラ・ファイエット侯爵が抑えられなかったパリ国民議会の暴走を憂慮したミラボー伯爵(下右写真)の話です。

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左:ラ・ファイエット侯爵:フランス革命初期の指導者(1757年生-1834年没)   
右:ミラボー伯爵:フランス革命初期の指導者 (1749年生-1791年没) 
  
 
         
前者のラ・ファイエット侯爵(12月12日付けブログで登場済み)は、ヴェルサイユ行進(10月事件)の折に逸早く駆けつけ、不安に慄く王妃マリー・アントワネットの片手に接吻して尊王の態度を示した人物です。 

しかし、その折に、ルイ16世と交わした王権守護の約束を、反王党派が牛耳る国民議会によって悉く妨げられて果たすことが叶わず、国王と王妃の信頼を酷く損ねてしまいます。


後者のミラボー伯爵は、急展開するフランス革命の激流の中にあって、ルイ16世が信頼する最後の政治家でした。ミラボー伯爵は、ルイ16世に対して、『 パリを脱出して地方の王党派勢力の支援を受けて立憲君主制を打ち立てるべき 』 と直言するのですが、ルイ16世は、『 王位に在る者は逃亡するべきではない 』 と考えて決断できなかったようです。

王妃マリー・アントワネットは、ラファイエット侯爵ミラボー伯爵のように、本来は絶対王政下における身分制議会(三部会)の第二身分に属する貴族でありながら、第三身分の一般国民の立場にたって自由平等な議会政治の実現(立憲君主制)を主張する2人を忌み嫌い、彼女の面前に伺候することすら許さなかったようです。

ところが、フランス国内の地方へ脱出して立憲君主制を興すことを提言していたミラボー伯爵が、突然死亡(1791年3月)する事態が起こり、亡命して絶対王政の再興を図りたいと考えていた王妃マリー・アントワネットの発言力が一気に高まります。

王妃マリー・アントワネットの考える亡命先は、彼女の実兄である神聖ローマ皇帝レオポルト2世(下左写真)が統治する故郷のオーストリアだったのですが・・・・・・・実兄は実妹の安全を気遣いながらも、計画の脆弱性に不安を抱いたのでしょうか、何や彼やと理由をつけて返事を引き伸ばすばかりでした。

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左:マリー・アントワネットが亡命の支援を頼んだ実兄の神聖ローマ皇帝レオポルト2世
(1747年生-1792年没、神聖ローマ皇帝在位:1790年-1792年)
右:ルイ16世夫妻に支援の手を差し伸べた啓蒙的専制君主のスウェーデン王グスタフ3世
(1746年生-1792年没)


しかし、捨てる神あれば、拾う神もあり、スウェーデン王グスタフ3世(上右写真)だけが支援の手を差し伸べます。王権神授説を信じる啓蒙的専制君主のグスタフ3世は、反王党派によるフランス革命からルイ16世王妃マリー・アントワネットを救い出す主導者として、寵臣のフェルセーン伯爵(1755年生- 1810年没)を、反王党派の革命を阻止するスパイとして、マリー・アントワネットの居るヴェルサイユ宮殿へ差し向けます。

フェルセーン伯爵(下左写真)は、12月8日付けの拙ブログで既に紹介済みですが、マリー・アントワネットがルイ王太子(後のルイ16世)の王太子妃だった19歳当時からの愛人だったとされる人物です。ルイ16世も、性的不能の回復手術を行っていなかったルイ王太子時代から、2人の関係を黙認していたとする信じられない話が残っています。 

それを裏付けるかのように、ヴェルサイユ行進(10月事件)勃発時に、マリー・アントワネットフェルセン伯爵が王妃の寝室に居るところをタレイランド司祭(下右写真)に見つかっています。この人物は、司祭を辞職した後に、マリー・アントワネットが忌み嫌った国民議会の議長となる曲者のペリゴール伯爵 Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord (下右写真)ですが、国民議会の議長として、彼が此の事実をどの様に悪用したかについては、何も記録が残っていないのですが・・・

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左:ルイ16世も黙認していたマリー・アントワネットの愛人とされるスゥエーデン人のフェルセン伯爵
右:フェンセーンとマリー・アントワネットが王妃寝室にいるのを目撃したタレイランド司祭


王妃マリー・アントワネットの愛人であるフェルセーンは、反王党派によって窮地に追い込まれていたテュイルリー宮殿の国王一家を、フランスから脱出・亡命させるための事細かな下準備に取り掛かります。 これが、後に 『 ヴァレンヌ事件 』 と呼ばれるルイ16世一家の亡命事件です。

テュイルリー宮殿を脱出する慌ただしさの中で未完成のままになったマリー・アントワネットの肖像画が残っています(下右写真)。顔面の彩色も完成には程遠く、衣装に至っては彩色すらされてない所為だからでしょうか、王妃としての威厳に乏しく、どことなく寂しげなマリー・アントワネットの表情です。

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左:ヴェルサイユ宮殿を去る前の36歳のマリー・アントワネットでしょうか?
右:フランス革命を逃れてパリ・テュイルリー宮殿を脱出する直前の36歳のマリー・アントワネットの肖像画


一方、ルイ16世王妃マリー・アントワネットの引き受けを担うことになったベルギー国境に近いフランス側のモントムディ国境要塞を守護する立憲君主派のブイエ将軍(下右写真)は、ルイ16世(下左写真)の一行の中に外国人のフェルセーン伯爵(スゥエーデン)がいることに強く抵抗します。

国王の亡命は最大の恥辱 』 と考えるルイ16世は、故人となったミラボー伯爵と同じようにフランス国内での戦いを主張をするブイエ将軍(侯爵)の提案を入れ、国境を越えて亡命するのではなく、フランス領内のモントムディ国境要塞を拠点として、国境の外に居る王党派の亡命貴族と共に、反王党派のフランス革命を鎮圧することを決断します。


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左:ルイ16世  王妃マリー・アントワネットの亡命計画を退けて国内で戦う事を決断
右:ブイエ将軍 フランス国内のモントムディ国境要塞に拠って反王党派の鎮圧をルイ16世に主張
  (1739年生-1800年没)   


かくして、1791年6月20日の深夜、ルイ16世マリー・アントワネットの一家は、二台の馬車に変装して分乗、幽閉されていたテュイルリー宮殿を静かに脱出するのですが・・・・その僅か2日後の6月22日、フランス北部のヴァレンヌ村にて、ラ・ファイエット侯爵が送った国民議会の 『 国王一家の拘留命令 』 を持参した使者に拘留されてしまいます。

ルイ16世ブイエ将軍が仕組んだモントムディ国境要塞での反撃計画、そして、王妃の愛人フェルセーン伯爵グスタフ3世マリー・アントワネットが画策した亡命計画のいずれも敢え無く頓挫! パリのテュイルリー宮殿に再び連れ戻されて収監(6月25日の午後7時)されてしまいます。

これが世に言われる 『 ヴァレンヌ逃亡事件 』 ですが、パリ民衆派が牛耳る国民議会は、この事件を契機にして、『 ルイ16世の逃亡は亡命であり、王位からの退位と見なす 』 として徹底的に糾弾すると宣言! フランス革命は次なる段階に突入することになります。

ラ・ファイエット侯爵・国民衛兵隊司令官の動向
国王一家がパリのテュイルリー宮殿を脱出してから4時間後(1791年6月21日午前6時頃)、国王一家の脱走を知ったラファイエット侯爵は、国民衛兵隊に捜索隊を組織させて追跡を開始! ヴァレンヌ村で逃亡中のルイ16世一行を拘留してテュイルリー宮殿に連れ戻すことに成功します。 

立憲君主派のラ・ファイエット侯爵なりの信念に従った行動なのでしょうが、同じ立憲君主派のミラボー伯爵ブイエ将軍とは全く異なった対応に唖然とするばかりです・・・今の日本の民主党内の政争に似ていなくもありませんね。


≪スゥエーデン国王のグスタフ3世のその後の動向≫
ルイ16世一行の逃亡手配を寵臣フェルセン伯爵に命令したグスタフ3世は、1791年6月14日からドイツのアーヘンまで出向いて、フェルセーン伯爵からの亡命成功の報告を待つも、耳に届いたのは、ルイ16世一家の逮捕だったことから、直ちにフランス王党派の亡命貴族を支援する 『 反革命十字軍 』 を計画するのですが、此の経過もまた、想定外のグスタフ3世の暗殺(1792年3月29日)によって頓挫してしまいます。


≪スゥエーデン貴族のフェルセーン伯爵の動静≫
ルイ16世マリー・アントワネットの一家を乗せた馬車の御者を務めたフェルセーン伯爵は、ひたすら夜中の道を走り、パリ郊外の北のボンディまで来た時、外国人のフェルセーン伯爵に先導されていることを反王党派に見咎められるのを恐れたルイ16世は、これから先のフェルセン伯爵の随行をやめさせます。フェルセーンは、志半ばにして、王妃マリー・アントワネットに別れを告げなければなりませんでした。

フェルセーン伯爵は、スゥエーデンのグスタフ3世の放ったスパイとの説が通説になっているようですが、この後にも見られるマリー・アントワネットに対する彼の献身的とも言える行動を知るにつけ、ミイラ取りがミイラになったように思えてなりません。

次回以降は、今回は紙面の関係で触れられなかったフェルセーン伯爵の具体的なヴァレンヌ逃亡行動とその後の生き様、そして、モントムディ国境要塞で待ち惚けをくった立憲君主派のブイエ将軍(侯爵)のその後について触れて見たいと思います。