副題 : 大内時代の終焉・毛利時代の始まり
前回BLOGでは、山口県 ( 周防国と長門国 ) の戦国大名だった大内氏の最後の当主・大内義長(豊後の大友宗麟の弟)が立て篭もった “ 鴻之峰城 ” が、広島県(安芸国)の実力者だった “ 毛利元就 ” によって攻略され、隆盛を誇った大内氏の時代が終わったことに触れました。

大内義長が立て篭もった鴻之峰城址が遺る鴻之峰 ( 再録 )
大内氏は、明との直接交易やキリスト教 ( 注1 ) の保護など、海外交易を積極的に行うとともに、学問、芸樹、文化を好んだことから、当時、応仁の乱で疲弊していた京都から、多くの公卿 ( 注2 )、学者、そして文化人が、大内氏の保護を求めて山口盆地に移り住んだと言われています。
( 注1 ) ザビエル神父がカソリック教会(イエズス会)を建設した日本最初の地は山口盆地でした。
( 注2 ) 武田信玄の正室・三条の方の父親の三条公頼を含む多くの公家が山口盆地に移住しました。
巷の人々は、山口盆地で花開いた独特の文化を “ 大内文化 ” と称え、山口盆地のことを “ 西の小京都 ” と持て囃すほどだったといいます。そう言えば、僕が通っていた小学校の名前は “ 大殿小学校 ” 、学校に通じる道路名も “ 大殿大路 ” とまるで京都の道路を想わせる様な、大層な名前が付いていました。

安芸国吉田郡の山城(現・広島県)で一大勢力圏を築いていた毛利元就
大内氏を滅ぼした毛利元就は、未完成だった大内義長の鴻之峰城を引継いで、周防国と長門国 ( 現・山口県 ) 最大の山城として完成させ、現・山口県を支配する一大拠点とします。
しかし、自らは現・広島県 ( 安芸国吉田郡山城 ) に留まり、鴻之峰城には腹心の市川経好を城番として置くのですが、これを境にして、“ 西の小京都 ” とまで称された大内文化は衰退の道を辿ることになります。
更に、後年に至って、関が原の役で豊臣軍の総大将として擁立された毛利輝元( 毛利元就の孫 ) は、勝者の徳川幕府によって、120万5千石の所領 ( 山口県、広島県、島根県、岡山県 ) を、 僅かに現・山口県の周防国と長門国 の二カ国に封じ込まれ、石高は約37万石弱にまで大減封されてしまいます。そして、徳川幕府は、それに追い討ちをかけるようにして、諸国の大名に一国一城 ( 1615年 )の法令を発します。

関が原の役で豊臣軍(西軍)の総大将に祭り上げられた毛利輝元 ( 毛利元就の孫 )
一国一城の命令を受けた毛利輝元は、幕府に対して、萩の指月山城(長門国)、防府の桑山城(周防国)、そして、山口盆地の鴻之峰城の三箇所の何れか一箇所を “ 一国一城 “ の候補地として提出します。 ( 長府の串崎城と岩国の横山城も含むとする史料もあり )
毛利氏の腹案としては、周防国と長門国の要衝の地に当たる山口盆地の “ 鴻之峰城 ” を居城とすることだったのでしょうが・・・・・・外様大名の毛利氏を長門の辺境の地である山陰に封じ込めたいとする幕府は、『 日本海の要害の地である萩が最適 』 との命令を下します。

4年の歳月をかけて1608年に完成した毛利氏の居城の指月城 ( 別名 : 萩城 )
写真はウイキペディアより拝借
かくして、大内氏から毛利氏へと引き継がれた“ 鴻之峰城 ” は廃城となるのですが、チョット不思議なのは、“ 鴻之峰城 ” が実際に廃城されたのは、一国一城令が発せられてから23年後、萩の指月城か完成してから30年後の1638年という点です。幕府に対する抵抗派と恭順派の密やかな葛藤が藩内に渦巻いていたのでしょうか?
何れにしても、“ 鴻之峰城 ” の廃城を境にして、大内文化の中心地として繁栄を誇った“ 西の小京都 ”は、坂道を下るが如く衰退の道を辿り、中国山脈の中の寂れた盆地の町へと変容して行くことになります。
ところが、時も流れて江戸末期、尊王攘夷で世情が騒々しくなり始めた頃、すっかり忘れ去られていた山口盆地の鴻之峰の山麓辺りにも、新しい時代の大波が押し寄せて来ます。
次回に続きます。
前回BLOGでは、山口県 ( 周防国と長門国 ) の戦国大名だった大内氏の最後の当主・大内義長(豊後の大友宗麟の弟)が立て篭もった “ 鴻之峰城 ” が、広島県(安芸国)の実力者だった “ 毛利元就 ” によって攻略され、隆盛を誇った大内氏の時代が終わったことに触れました。

大内義長が立て篭もった鴻之峰城址が遺る鴻之峰 ( 再録 )
大内氏は、明との直接交易やキリスト教 ( 注1 ) の保護など、海外交易を積極的に行うとともに、学問、芸樹、文化を好んだことから、当時、応仁の乱で疲弊していた京都から、多くの公卿 ( 注2 )、学者、そして文化人が、大内氏の保護を求めて山口盆地に移り住んだと言われています。
( 注1 ) ザビエル神父がカソリック教会(イエズス会)を建設した日本最初の地は山口盆地でした。
( 注2 ) 武田信玄の正室・三条の方の父親の三条公頼を含む多くの公家が山口盆地に移住しました。
巷の人々は、山口盆地で花開いた独特の文化を “ 大内文化 ” と称え、山口盆地のことを “ 西の小京都 ” と持て囃すほどだったといいます。そう言えば、僕が通っていた小学校の名前は “ 大殿小学校 ” 、学校に通じる道路名も “ 大殿大路 ” とまるで京都の道路を想わせる様な、大層な名前が付いていました。

安芸国吉田郡の山城(現・広島県)で一大勢力圏を築いていた毛利元就
大内氏を滅ぼした毛利元就は、未完成だった大内義長の鴻之峰城を引継いで、周防国と長門国 ( 現・山口県 ) 最大の山城として完成させ、現・山口県を支配する一大拠点とします。
しかし、自らは現・広島県 ( 安芸国吉田郡山城 ) に留まり、鴻之峰城には腹心の市川経好を城番として置くのですが、これを境にして、“ 西の小京都 ” とまで称された大内文化は衰退の道を辿ることになります。
更に、後年に至って、関が原の役で豊臣軍の総大将として擁立された毛利輝元( 毛利元就の孫 ) は、勝者の徳川幕府によって、120万5千石の所領 ( 山口県、広島県、島根県、岡山県 ) を、 僅かに現・山口県の周防国と長門国 の二カ国に封じ込まれ、石高は約37万石弱にまで大減封されてしまいます。そして、徳川幕府は、それに追い討ちをかけるようにして、諸国の大名に一国一城 ( 1615年 )の法令を発します。

関が原の役で豊臣軍(西軍)の総大将に祭り上げられた毛利輝元 ( 毛利元就の孫 )
一国一城の命令を受けた毛利輝元は、幕府に対して、萩の指月山城(長門国)、防府の桑山城(周防国)、そして、山口盆地の鴻之峰城の三箇所の何れか一箇所を “ 一国一城 “ の候補地として提出します。 ( 長府の串崎城と岩国の横山城も含むとする史料もあり )
毛利氏の腹案としては、周防国と長門国の要衝の地に当たる山口盆地の “ 鴻之峰城 ” を居城とすることだったのでしょうが・・・・・・外様大名の毛利氏を長門の辺境の地である山陰に封じ込めたいとする幕府は、『 日本海の要害の地である萩が最適 』 との命令を下します。

4年の歳月をかけて1608年に完成した毛利氏の居城の指月城 ( 別名 : 萩城 )
写真はウイキペディアより拝借
かくして、大内氏から毛利氏へと引き継がれた“ 鴻之峰城 ” は廃城となるのですが、チョット不思議なのは、“ 鴻之峰城 ” が実際に廃城されたのは、一国一城令が発せられてから23年後、萩の指月城か完成してから30年後の1638年という点です。幕府に対する抵抗派と恭順派の密やかな葛藤が藩内に渦巻いていたのでしょうか?
何れにしても、“ 鴻之峰城 ” の廃城を境にして、大内文化の中心地として繁栄を誇った“ 西の小京都 ”は、坂道を下るが如く衰退の道を辿り、中国山脈の中の寂れた盆地の町へと変容して行くことになります。
ところが、時も流れて江戸末期、尊王攘夷で世情が騒々しくなり始めた頃、すっかり忘れ去られていた山口盆地の鴻之峰の山麓辺りにも、新しい時代の大波が押し寄せて来ます。
次回に続きます。