東京都下の多摩東部地域には、武蔵野の面影を残す “ 雑木林の小道 ” が10コース保存されています、その内の一つに “ 清瀬・松山・青葉町コース ” ( 全長5.9Km ) があるのですが、僕の留守宅は、そのコース東端の青葉町コースの近くに位置しています。

タイに魅せられてロングステイ
青葉町コースの雑木林に通じる歩道 ( フェンスの右側は東京都東村山老人ホームの敷地)

東村山老人ホームの敷地内には、数多のアカマツ、コナラ、クヌギ、エゴノキなどの木々が生い茂り、その雑木林の合間からは、同じ敷地内に点在する多摩地区医療センターや東村山ナースィング・センターなどの建物が見え隠れしています。

タイに魅せられてロングステイ
高齢者を主対象とする多摩地区医療センター ( ナースィング・センターも隣接しています )

今年の6月18日~20日付けのBLOGで掲載した “ 紫陽花 ” の写真の殆どは、医療センターと老人センターの緑地内の、滅多に人も足を踏み入れないであろう雑木林の奥深い一角に咲き誇っていたものです。

タイに魅せられてロングステイ
東村山緑地内の雑木林で見かけた紫陽花


こんな“ 武蔵野 ” の名残を留める地域内にある我が家ですが、実は、昨年の一時帰国(9月~10月)までは、“ 落葉樹の多い林 ” という程度の認識はあったにしても、それらが “ 武蔵野の名残 ” を留める歴史保存地域だとは知る由もなく、ましてや、“ 雑木林の小道 ” を散策する心境になったことなど、只の一度もありませんでした。

タイに魅せられてロングステイ
東京都環境局 ( 東村山市 ) によって旱魃された雑木林と緑道

そんな僕が、昨年の一時帰国の時から、折を見てはこの緑地を一人で散策するようになったのですから、バンコクで留守番をしている家内は、“ 里心でもついたの? ” と電話の向こう側で怪訝な様子です。

遅まきながら、我が家の周りの雑木林が武蔵野の歴史保存地域であることを知ったその時、僕の脳裏に蘇えったのは、四十五年以上も前に受験のために読んだ日本文学史に掲載されていた 国木田 独歩 の代表的短編小説の “ 武蔵野 ” でした。

タイに魅せられてロングステイ
広い緑地内には気儘に散策できる小道が至るところに設けられています。

一時帰国中に必ず訪れる国会図書館での調べ物も順調に終わったので、早速、“ 国木田 独歩の武蔵野 ” の要約と彼の履歴に目を通して見ました。

これは全く僕の一方的な勘違いだったことに気付かされたのですが、この時まで、国木田 独歩の生まれは山口県山口市で、地元の今道小学校( 現・白石小学校 ) から地元の旧制中学(現・山口高校)で学んだ郷里の大先輩だと独り合点していたのですが・・・彼の生まれは千葉県で、父親の転勤で山口市に移り住んだことが判明しました。


文学的興味と言うよりは、寧ろ、郷土の有名な大先輩だと思い込んでいた彼が、“ 武蔵野 ” をどの様に書いていたのかを、もう一度読み返して見たかっただけなのですが・・・四十五年以上も前のことですから・・・当然のことながら、粗筋も何もかもほぼ完璧に忘れ去っていました。

国木田 独歩 ” ( 明治4年生-明治41年没 ) は、 “ 武蔵野 ” の中で、江戸時代の文政年間の史料を引用して、“ 武蔵野の面影は、今は僅かに入間郡 ( 古戦場の小手指と久米川 ) に残るだけ ” と記し、明治時代の今に残る武蔵野は、あたり一面 “  ” ( 雑木林 ) となってしまったが、江戸時代の武蔵野は、“ 萱原 ( かやはら ) の果て無き光景をもって絶類の光景であった ” と表現しています。

タイに魅せられてロングステイ
緑地内の小道を奥へと分け入ると、次第に緑道のような様相を呈します。

江戸時代の武蔵野 ” と “ 明治時代の武蔵野 ” の違いを、彼の作品から読み取るならば、僕が現在見ている “ 武蔵野の雑木林の小道 ” は、江戸時代の名残ではなく、明治時代の雑木林の規模を限りなく小さくしたもののようです。

但し、国木田 独歩は、明治と江戸の武蔵野を比べて、いたずらに嘆いている訳ではなく、“ 武蔵野の美は、縦横に通ずる林の中の小道を歩くことによって得られる ” と強調し、次のように表現しています。

春、夏、秋、冬にも、朝、昼、夕、夜にも、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、足の向く方へ行けば、其処には、見るべく、聞くべく、感ずべき物がある。これが、武蔵野の第一の特色だと自分はしみじみ感じている

国木田 独歩 ” のように文学的感覚に浸る素養は僕にはありませんが、少なくとも、現役を卒業した現在の僕は、“ 武蔵野の美は、縦横に通ずる小路を歩くことによって得られる ” とする彼の考えを、素直に受け入れられる年代になったのかも知れません。