古代インドで隆盛を極めた仏教ですが、15世紀頃になると次第に衰退し、寺院や仏塔の多くは朽ち果てて廃墟となる道を辿ることになります。“ 釈尊の成道の地 ” として崇敬されたブッダガヤの大菩提寺とて例外ではありませんでした。

隣国のミャンマーの仏教徒が、大菩提寺の大改修に乗り出す直前(19世紀末)に撮影した銀板写真を見たことがあるのですが、仏塔の2/3は崩落して跡形もなく、僅かに残る基礎部分も殆ど土塊と化していたように記憶しています。

どのような経緯からミャンマーの仏教徒が復元を担ったのかは不明ですが、そのお陰で、古代の仏教寺院(5世紀~7世紀)の容姿をほぼ完璧な状態で見ることが出来るのですから、復元に尽力されたミャンマーの方々に心からの感謝を表したいと思います。(下写真)

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ミャンマーの仏教徒によって19世紀末に復元された大菩提寺

下の写真では分かり難いのですが、復元された大菩提寺は、中央に52mの高さの主堂、四隅に5つの小堂を有する “ 五堂形式 ” になっています。しかし、聞いた話によると、古代仏教の寺院構造は “ 一堂形式 ” だったとか。主堂の四隅に建てられた四つの小堂は、19世紀末の大改修の折に、ミャンマー側の意図によって新しく追加されたのだそうです。

異説としては、古代インドの塔状の仏教寺院の形状は、19世紀に復元された大菩提寺のような直線的な形状ではなく、ヒンドゥ寺院でも見られる様な饅頭を細長くしたような砲弾形状だった・・・とする学者もいるようです。 

バラモン教 ⇒ ヒンドゥー教 ⇒ 仏教 ⇒ ヒンドゥー教 ” と推移するインドの長い宗教史を考えれば、仏教寺院の形状が、時代の変遷につれて変容したとしても、何の不思議もないような・・・寧ろ、理の当然のような気もします。


何れにしても、現在の直線的な主堂の形状は、7世紀に当地を訪れた玄奘三蔵の “ 大唐西域記 ” に記録された内容ともほぼ合致するそうですから、7世紀における仏教寺院が塔状の形をしていたことは間違いないようです。

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中央に聳える主堂(左右写真)と2つの小堂(左写真)

レンガを巧みに組み合わせて凹凸の形状を構成する主塔の壁面は、プラスター(漆喰)で塗り固められ(上写真)、主塔の下層部分の壁面には、印相を結ぶ13体の仏陀像が彫りこまれています(下写真)。このような建築様式は、古代インドの後期グプタ朝期に最盛期を迎えた仏教美術の特徴だそうですが・・・門外漢の僕は、黙って頷くしかありません。

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主塔の下層部分に嵌め込まれた仏陀像のレリーフ
左写真:降魔印(ごうまいん)、右写真:転法輪印(てんぽうりんいん)

印相を結ぶ13体の仏陀像が嵌め込まれた主塔の基壇部分には、世界から集った僧侶や在家信者が捧げた橙色の鮮やかな献花が並んでいました。(下写真)

太宰治は、御坂峠の黄金色の月見草の花を見て、“ 富士には月見草がよく似合う ” と記していますが、タイを訪れた画家の横尾忠則氏は、街中に氾濫する黄色系を見て、“ 画を描く心を萎えさせる ” と言われました。

タイに長く住むようになった僕は、(最初の頃は如何しても好きになれなかった色ですが)、いつの間にやら、“ 仏教国のタイには黄色系がよく似合う ” と思えるようになりました。青色と白色の好きな僕でしたが、この歳になっても、色の好み(!?)は変化するようです。

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印相を結ぶ仏陀像が彫りこまれた主塔の基礎部分に並ぶ献花

大菩提寺の主堂の中に入ってみました。参拝者が10人も入れば身動きが取れなくなるほど暗くて狭い主堂の中に、金色の釈迦如来像が安置されていました。仏体に纏われた法衣のために、印相と足先の組み方は視認できませんが、垂れ下がった右腕の形から想像するに、印相は降魔印、足先は全くの想像ですが、半蓮華坐ではないでしょうか。(下写真)

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大菩提寺の主堂に安置された金色の釈迦如来像
 
降魔印とは、釈尊が大菩提寺で成道に達した後に、その悟りの境地を邪魔する悪魔が出現、釈迦が右手の指先を地面に触れると、釈迦の悟りが本物であることを証明する大菩提寺の地神が現れ、悪魔は這這の体で退散したという故事からきた印相です。

その釈尊が成道(悟り)に達した場所が、この主堂の西側の菩提樹の下に残る金剛宝坐ですが・・・この先は、次回にしたいと思います。