前回の粗筋
ウルーヴィラの林で、6年間にも及ぶ難行苦行生活を放棄した釈尊は、ナイランジャラー河で沐浴をしたのですが、自力で岸にはい上がる体力もなく、雨季で水嵩を増していた流れに呑まれてあわや命を落としそうになります。
そんな釈尊を発見して村の若者に助けを頼み、釈尊に差しあげる乳牛の乳を絞ったのがプンナ。痩せ衰えて死ぬ寸前だった釈尊に乳粥を手渡して看病したのが村の豪族の娘のスジャータでした。(下写真)

左女性:豪族の娘のスジャータ 右女性:スジャータの召使のプンナ
インド人の運転手君が、スジャータとプンナが住んでいたというセーナ村に連れて行ってくれました。特筆するようなものは何もなく、インドならば何処にでもあるような貧しい小さな村です。村を囲むように広がる作業スペースで稲積作業をしている男女は誰も彼も裸足でした。(下写真)

稲積作業をするセーナ村の男女
僕が子供の頃に住んでいた田舎(山口県山口市)にも稲積(としゃく)はありましたが、セーナ村のとしゃくの方が数段大きいような気がします。としゃくのある風景は、タイ北部のチェンラーイを旅した時にも見かけましたが、のんびりとした穏やかな風情は心を癒してくれる何かがあります。(上写真)
ひょっとして、これに似たような光景が、2500年前のナイランジャラー河畔にもあって・・・セーナ村で養生をしていた釈尊は、毎日のように眺めていたかも知れない・・・などと思いを馳せると楽しさも倍増するというものです。

豪族の娘のスジャータが住んでいたとされる場所に建つストゥーパの遺跡
釈尊とスジャータの話は紀元前500年頃のことですが、彼女の住居跡に建つストゥーパ(塔)は、その後の7世紀から8世紀に建てられた遺跡とのことでした。(上写真)古いストゥーパなので遺跡としての価値は高いのでしょうが・・・俄仕立てのガイドを勤めてくれている運転手君の説明では、スジャータとストゥーパの関連性を理解することは出来ませんでした。
バンコクに戻って日本の友人にセーナ村のことを話すと・・・けんもほろろでした。
『 セーナ村のスジャーターの話なんて作り話だよ? 』
『 プンナの話しも出鱈目に決まっているさ! 』
正直に言いますと、僕も 面白い話 とは思いつつも、単なる伝説に過ぎないだろう程度にしか思っていなかったのですが・・・ネットで調べてみると、玄奘三蔵の大唐西域記巻第八の要約の中に次のような記述を見つけました。
『 プリンス・シッダールタは五年の難行苦行を遂行されたが、正覚(悟り)に達しえず、ついに苦行の方法を捨て、スジャーターの捧げる乳糜(キール)を受けた 』
玄奘三蔵といえば、7世紀に中国とインドを往復し、サンスクリット語の 般若心経 を中国語に翻訳した実在の僧侶です。
小学生だった僕を熱中させた “ 孫悟空、猪八戒、沙悟浄、そして、三蔵法師が登場する西遊記 ” は、玄奘三蔵をモデルとした荒唐無稽な創り話ですが、玄奘三蔵が著した大唐西域記は、仏教学者も一目置く第一級史料だと聞いています・・・
玄奘三蔵の大唐西域記巻第八の要約を読み返して気が付いたのですが、この要約では、正覚(成道、悟り)に至る前の釈尊を プリンス・シッダールタの呼称で記述しています。
僕は、ついつい面倒なので、釈迦牟尼世尊を短くした “ 釈尊 ” の名を用いているのですが、仏陀になられる以前のことを記す時は、本名のゴータマ・シッダールタ、或いは、プリンス・シッダールタを使用するべきだと思い直しました。
仏陀になられてからの呼称は、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏、大恩教主釈迦牟尼仏、或いは、ゴータマ・ブッダ、シャカムニカ・ブッダなどがあるようです。多彩な呼称があるのは、宗派や国による違いから来ているのでしょうか?
小学校低学年の頃に仏教寺院の日曜学校で教わった “ お釈迦様 ” の名前の由来は、ルンピニ(現在はネパール)で釈迦族(シャーキャ族)の国王の王子として誕生されたことから、子供が覚え易いように短い部族名の “ 釈迦 ”(シャーキ)が採られたようですね。
次回に続きます。
ウルーヴィラの林で、6年間にも及ぶ難行苦行生活を放棄した釈尊は、ナイランジャラー河で沐浴をしたのですが、自力で岸にはい上がる体力もなく、雨季で水嵩を増していた流れに呑まれてあわや命を落としそうになります。
そんな釈尊を発見して村の若者に助けを頼み、釈尊に差しあげる乳牛の乳を絞ったのがプンナ。痩せ衰えて死ぬ寸前だった釈尊に乳粥を手渡して看病したのが村の豪族の娘のスジャータでした。(下写真)

左女性:豪族の娘のスジャータ 右女性:スジャータの召使のプンナ
インド人の運転手君が、スジャータとプンナが住んでいたというセーナ村に連れて行ってくれました。特筆するようなものは何もなく、インドならば何処にでもあるような貧しい小さな村です。村を囲むように広がる作業スペースで稲積作業をしている男女は誰も彼も裸足でした。(下写真)

稲積作業をするセーナ村の男女
僕が子供の頃に住んでいた田舎(山口県山口市)にも稲積(としゃく)はありましたが、セーナ村のとしゃくの方が数段大きいような気がします。としゃくのある風景は、タイ北部のチェンラーイを旅した時にも見かけましたが、のんびりとした穏やかな風情は心を癒してくれる何かがあります。(上写真)
ひょっとして、これに似たような光景が、2500年前のナイランジャラー河畔にもあって・・・セーナ村で養生をしていた釈尊は、毎日のように眺めていたかも知れない・・・などと思いを馳せると楽しさも倍増するというものです。

豪族の娘のスジャータが住んでいたとされる場所に建つストゥーパの遺跡
釈尊とスジャータの話は紀元前500年頃のことですが、彼女の住居跡に建つストゥーパ(塔)は、その後の7世紀から8世紀に建てられた遺跡とのことでした。(上写真)古いストゥーパなので遺跡としての価値は高いのでしょうが・・・俄仕立てのガイドを勤めてくれている運転手君の説明では、スジャータとストゥーパの関連性を理解することは出来ませんでした。
バンコクに戻って日本の友人にセーナ村のことを話すと・・・けんもほろろでした。
『 セーナ村のスジャーターの話なんて作り話だよ? 』
『 プンナの話しも出鱈目に決まっているさ! 』
正直に言いますと、僕も 面白い話 とは思いつつも、単なる伝説に過ぎないだろう程度にしか思っていなかったのですが・・・ネットで調べてみると、玄奘三蔵の大唐西域記巻第八の要約の中に次のような記述を見つけました。
『 プリンス・シッダールタは五年の難行苦行を遂行されたが、正覚(悟り)に達しえず、ついに苦行の方法を捨て、スジャーターの捧げる乳糜(キール)を受けた 』
玄奘三蔵といえば、7世紀に中国とインドを往復し、サンスクリット語の 般若心経 を中国語に翻訳した実在の僧侶です。
小学生だった僕を熱中させた “ 孫悟空、猪八戒、沙悟浄、そして、三蔵法師が登場する西遊記 ” は、玄奘三蔵をモデルとした荒唐無稽な創り話ですが、玄奘三蔵が著した大唐西域記は、仏教学者も一目置く第一級史料だと聞いています・・・
玄奘三蔵の大唐西域記巻第八の要約を読み返して気が付いたのですが、この要約では、正覚(成道、悟り)に至る前の釈尊を プリンス・シッダールタの呼称で記述しています。
僕は、ついつい面倒なので、釈迦牟尼世尊を短くした “ 釈尊 ” の名を用いているのですが、仏陀になられる以前のことを記す時は、本名のゴータマ・シッダールタ、或いは、プリンス・シッダールタを使用するべきだと思い直しました。
仏陀になられてからの呼称は、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏、大恩教主釈迦牟尼仏、或いは、ゴータマ・ブッダ、シャカムニカ・ブッダなどがあるようです。多彩な呼称があるのは、宗派や国による違いから来ているのでしょうか?
小学校低学年の頃に仏教寺院の日曜学校で教わった “ お釈迦様 ” の名前の由来は、ルンピニ(現在はネパール)で釈迦族(シャーキャ族)の国王の王子として誕生されたことから、子供が覚え易いように短い部族名の “ 釈迦 ”(シャーキ)が採られたようですね。
次回に続きます。