多くのインド人旅行業者は、紀元前の歴史を有するインドの大地を旅するには、その土地に詳しい “ 優れた観光ガイドを雇うこと ” が何よりも重要だと力説します。 僕もその説を否定するつもりは毛頭ないのですが・・・ニューデリに到着してから今までのことを振り返ってみると、“ せっかくの旅を台無しにするガイド ” ばかりだったような気がして・・・
仏教の聖地・ガヤの駅で初めて会ったガイドもそうでした。 初歩的な質問をする僕達に、“ 貴方は仏教徒でしょう? ”、“ 僕はヒンドゥー教徒だから分からない ” と取り付く島もないのです。 これがプロ・ガイドの堂々たる イクスキューズ になるところがインド流なのでしょうか?
彼には早々に引き取ってもらい、運転手君だけを頼りに釈尊の足跡を巡ることにしたのですが・・・当然のことながら、肝心の釈尊に関わる知識がある筈もなく・・・最初に訪れた前正覚山の留影窟でも珍粉漢粉。 結局、中国系のマレーシア人女性観光客にあれこれと教えてもらうことになってしまいました。
彼女に教わった粗筋(前回BLOGの抜粋)
ウルーヴィラの林で難行苦行を続けていても、悟りの道に至らないと考えた釈尊は、難行苦行を放棄。ナイランジャラー河(尼連禅河)東岸の流れに精根尽き果てた身体を沈めて洗い清め、セーナ村のスジャータから与えられた乳粥で体力を回復します。 その後に、直ぐ近くの前正覚山に登り、瞑想によって正覚(悟り)を得ようとするのですが、天空より出でた龍の懇願を入れて、ナイランジャラー河(尼連禅河)西岸の天竺菩提樹の下の金剛宝座に移り、7日目にして正覚成就をすることになります・・・・以上が彼女から聞いた概略でした。
中国系のマレーシア人女性観光客から教わったセーナ村に足を運んでみることにしました。セーナ村の娘のスジャータと言えば、昔なつかしいコーヒーフレッシュの “ スジャータ ” を想い出される方も多いのではないでしょうか?

ナイランジャラー河の西岸から東岸のセーナー村に通じる橋
無口な運転手君が、『 この橋は日本が造ってくれた橋なんだよ 』(上写真)と呟き、『 スジャータの祠、セーナ村、スジャータの住居跡の順番で回るからね 』 と言って後部席の僕の了承を求めます。目でOKの合図を送ると、口髭のある厳つい顔に似合わない可愛い笑みを戻してくれました。
凸凹になった未舗装の道を進むと、前方に土饅頭を盛ったような小高い場所が見えてきました。運転手君は、白色の低壁が取り囲む小さな広場へと車を乗り入れます。5色の仏旗を幾重にも巻かれた大木(下写真)が目に留まりました。

大木に巻きつけられた5色の仏旗
僕 『 スジャータという娘は何者なの? 』
彼 『 セーナ村の豪族の娘だよ 』
彼 『 スジャータが釈尊に乳粥を献上したのは、この広場だよ 』
僕 『 大きな菩提樹の下がそうなの? 』
彼 『 ・・・この祠の辺りだと思うよ・・・』
口数の少ない運転手君ですが、自分が聞き知っている範囲内のことをポツリとポツリと教えてくれます。彼に従って行くと、まるで小さな人形劇の小屋のような祠があり、その中を覗くと、女性二人に挟まれた釈尊と一頭の乳牛が寝そべっていました。(下写真)

スジャータが釈尊に乳粥を献上する様子を再現した祠
僕 『 左の女性がスジャータだよね、右の美しい女性は誰なの? 』
彼 『 スジャータの奴隷女のプンナーだよ 』
僕 『 どうして奴隷女が一緒にいるの? 』
彼 『 プンナーが牛の乳を絞ったらしいよ 』
訥々と話す運転手君の話によると、ナイランジャラー河(尼連禅河)の東岸の河畔で、痩せ衰えて死ぬ寸前の釈尊を発見してスジャータに知らせたのがプンナーなのだそうです。
僕 『 ヘー、そうなの! 初めて聞く話だよ 』
彼 『 向こう側にもスジャータの祠があるけど見る? 』
同じ広場なのに、もう一つ別のスジャータの祠があるというのも不思議な感じですが、こちらの祠には、冬服を纏ったスジャータとメタボ気味の釈尊が居られるだけで、プンナーの姿も乳牛の姿もありません。 説明板を見ると、ミャンマーのヤンゴンの信者からの寄進とありました。(下写真)

冬服を纏ったスジャータとメタボ気味の釈尊
友 『 ガリガリに痩せていた筈なのに、この釈尊は太っちょだよ! 』
僕 『 回復して元気になった時の釈尊じゃないの? 』
友 『 そこまで考えて造るかね? 』
聞くところによると、バナナの葉で作られた器に入った乳粥を、釈尊は、なんと49回に分けて食べ尽くしたのだとか。その後、元気を回復して後方に聳える正覚山(プラーグ・ボディ山)に登ったのですから、それなりに元気を取り戻されていたのかも・・・
それにしても、正覚山の留影窟(ドン・ゲシュワリー)に安置してあった釈尊像は、ガリガリに痩せ衰えた姿の侭でしたね・・・チョット矛盾します・・・
辻褄が合わない話はこれだけではありません。
釈尊が乳粥の入っていたバナナの葉で拵えられた器を、ナイランジャラー河(尼連禅河)に流すと、下流に流れる筈の器が、天竺菩提樹の聳える上流西岸(現在のマハー・ボディー寺院)に流れ着いたというのです。釈尊は直ちにその場所に赴いて瞑想を行い、7日目に悟りを成就したというのですが・・・
だとすると、乳粥を食した後に、ナイランジャラー河(尼連禅河)の東岸に聳える前正覚山に登る必要もないし、天空の龍から、正覚成就の場所として天竺菩提樹の場所を教わる必然性もない筈なのですが・・・
それに、釈尊は、“ 乳粥を食した後にナイランジャラー河(尼連禅河)で沐浴した ” という説があるかと思えば、沐浴はしたものの、精根尽き果てた釈尊は岸に這い上がることも出来ず、急流に足を取られて流されているところを、スジャータの奴隷女のプンナに発見され、セーナ村の若衆が救助したという、実しやかな説もあるのです。
更に、大乗仏教(北伝仏教)では、スジャータの乳粥の事件から数日後の12月8日を正覚成就日としていますが・・・この時期のナイランジャラー河(尼連禅河)は乾季のために干上がってしまい、一滴の水も流れていないのです。
2500年以上も昔の話しですから、気候条件が今の逆だったことも考えられますが・・・
上座部仏教(南伝仏教)のタイでは、雨季に当たる5月の満月の日(2009年は5月8日)を、釈尊の成道(正覚)と誕生の日(ワン・ウイサーカブーチャー วันวิสาขบูชา )として盛大にお祝いする習慣があります。
細かく言えば辻褄の合わないことも多々ありますが、それほど拘ることでもありませんね。2500年もの歴史があれば、その土地それぞれの言い伝えに、多かれ少なかれ違いがあっても何の不思議もありません。差の蔓延は、文化を破壊する恐れがありますが、違いは、文化を生み出す源なのですから!
次回に続きます。
仏教の聖地・ガヤの駅で初めて会ったガイドもそうでした。 初歩的な質問をする僕達に、“ 貴方は仏教徒でしょう? ”、“ 僕はヒンドゥー教徒だから分からない ” と取り付く島もないのです。 これがプロ・ガイドの堂々たる イクスキューズ になるところがインド流なのでしょうか?
彼には早々に引き取ってもらい、運転手君だけを頼りに釈尊の足跡を巡ることにしたのですが・・・当然のことながら、肝心の釈尊に関わる知識がある筈もなく・・・最初に訪れた前正覚山の留影窟でも珍粉漢粉。 結局、中国系のマレーシア人女性観光客にあれこれと教えてもらうことになってしまいました。
彼女に教わった粗筋(前回BLOGの抜粋)
ウルーヴィラの林で難行苦行を続けていても、悟りの道に至らないと考えた釈尊は、難行苦行を放棄。ナイランジャラー河(尼連禅河)東岸の流れに精根尽き果てた身体を沈めて洗い清め、セーナ村のスジャータから与えられた乳粥で体力を回復します。 その後に、直ぐ近くの前正覚山に登り、瞑想によって正覚(悟り)を得ようとするのですが、天空より出でた龍の懇願を入れて、ナイランジャラー河(尼連禅河)西岸の天竺菩提樹の下の金剛宝座に移り、7日目にして正覚成就をすることになります・・・・以上が彼女から聞いた概略でした。
中国系のマレーシア人女性観光客から教わったセーナ村に足を運んでみることにしました。セーナ村の娘のスジャータと言えば、昔なつかしいコーヒーフレッシュの “ スジャータ ” を想い出される方も多いのではないでしょうか?

ナイランジャラー河の西岸から東岸のセーナー村に通じる橋
無口な運転手君が、『 この橋は日本が造ってくれた橋なんだよ 』(上写真)と呟き、『 スジャータの祠、セーナ村、スジャータの住居跡の順番で回るからね 』 と言って後部席の僕の了承を求めます。目でOKの合図を送ると、口髭のある厳つい顔に似合わない可愛い笑みを戻してくれました。
凸凹になった未舗装の道を進むと、前方に土饅頭を盛ったような小高い場所が見えてきました。運転手君は、白色の低壁が取り囲む小さな広場へと車を乗り入れます。5色の仏旗を幾重にも巻かれた大木(下写真)が目に留まりました。

大木に巻きつけられた5色の仏旗
僕 『 スジャータという娘は何者なの? 』
彼 『 セーナ村の豪族の娘だよ 』
彼 『 スジャータが釈尊に乳粥を献上したのは、この広場だよ 』
僕 『 大きな菩提樹の下がそうなの? 』
彼 『 ・・・この祠の辺りだと思うよ・・・』
口数の少ない運転手君ですが、自分が聞き知っている範囲内のことをポツリとポツリと教えてくれます。彼に従って行くと、まるで小さな人形劇の小屋のような祠があり、その中を覗くと、女性二人に挟まれた釈尊と一頭の乳牛が寝そべっていました。(下写真)

スジャータが釈尊に乳粥を献上する様子を再現した祠
僕 『 左の女性がスジャータだよね、右の美しい女性は誰なの? 』
彼 『 スジャータの奴隷女のプンナーだよ 』
僕 『 どうして奴隷女が一緒にいるの? 』
彼 『 プンナーが牛の乳を絞ったらしいよ 』
訥々と話す運転手君の話によると、ナイランジャラー河(尼連禅河)の東岸の河畔で、痩せ衰えて死ぬ寸前の釈尊を発見してスジャータに知らせたのがプンナーなのだそうです。
僕 『 ヘー、そうなの! 初めて聞く話だよ 』
彼 『 向こう側にもスジャータの祠があるけど見る? 』
同じ広場なのに、もう一つ別のスジャータの祠があるというのも不思議な感じですが、こちらの祠には、冬服を纏ったスジャータとメタボ気味の釈尊が居られるだけで、プンナーの姿も乳牛の姿もありません。 説明板を見ると、ミャンマーのヤンゴンの信者からの寄進とありました。(下写真)

冬服を纏ったスジャータとメタボ気味の釈尊
友 『 ガリガリに痩せていた筈なのに、この釈尊は太っちょだよ! 』
僕 『 回復して元気になった時の釈尊じゃないの? 』
友 『 そこまで考えて造るかね? 』
聞くところによると、バナナの葉で作られた器に入った乳粥を、釈尊は、なんと49回に分けて食べ尽くしたのだとか。その後、元気を回復して後方に聳える正覚山(プラーグ・ボディ山)に登ったのですから、それなりに元気を取り戻されていたのかも・・・
それにしても、正覚山の留影窟(ドン・ゲシュワリー)に安置してあった釈尊像は、ガリガリに痩せ衰えた姿の侭でしたね・・・チョット矛盾します・・・
辻褄が合わない話はこれだけではありません。
釈尊が乳粥の入っていたバナナの葉で拵えられた器を、ナイランジャラー河(尼連禅河)に流すと、下流に流れる筈の器が、天竺菩提樹の聳える上流西岸(現在のマハー・ボディー寺院)に流れ着いたというのです。釈尊は直ちにその場所に赴いて瞑想を行い、7日目に悟りを成就したというのですが・・・
だとすると、乳粥を食した後に、ナイランジャラー河(尼連禅河)の東岸に聳える前正覚山に登る必要もないし、天空の龍から、正覚成就の場所として天竺菩提樹の場所を教わる必然性もない筈なのですが・・・
それに、釈尊は、“ 乳粥を食した後にナイランジャラー河(尼連禅河)で沐浴した ” という説があるかと思えば、沐浴はしたものの、精根尽き果てた釈尊は岸に這い上がることも出来ず、急流に足を取られて流されているところを、スジャータの奴隷女のプンナに発見され、セーナ村の若衆が救助したという、実しやかな説もあるのです。
更に、大乗仏教(北伝仏教)では、スジャータの乳粥の事件から数日後の12月8日を正覚成就日としていますが・・・この時期のナイランジャラー河(尼連禅河)は乾季のために干上がってしまい、一滴の水も流れていないのです。
2500年以上も昔の話しですから、気候条件が今の逆だったことも考えられますが・・・
上座部仏教(南伝仏教)のタイでは、雨季に当たる5月の満月の日(2009年は5月8日)を、釈尊の成道(正覚)と誕生の日(ワン・ウイサーカブーチャー วันวิสาขบูชา )として盛大にお祝いする習慣があります。
細かく言えば辻褄の合わないことも多々ありますが、それほど拘ることでもありませんね。2500年もの歴史があれば、その土地それぞれの言い伝えに、多かれ少なかれ違いがあっても何の不思議もありません。差の蔓延は、文化を破壊する恐れがありますが、違いは、文化を生み出す源なのですから!
次回に続きます。