《 ② 釈尊が難行苦行された後に立ち寄られた前正覚山 》
釈尊が立ち寄られた留影窟(ドン・ゲシュワリー)の中に入りたいのですが、先客の韓国人団体客の参拝が長引いていて、今しばらく待たなければなりません。
仏跡地として知られた前正覚山(プラーグ・ボディー山)なので、チベット、タイ、マレーシア、台湾、韓国などからの熱心な仏教徒が多いのですが、日本人は僕と友人を含めた3人だけ。しかも、恥ずかしながら、揃いも揃って好い加減な仏教徒です。

留影窟の前に用意されていた寄進用の灯明
留影窟の御参りを済ませた中国系マレーシア人の小母さんが話し掛けて来ました。その昔、マレーシアで仕事をしたことのある僕には、とても懐かしいマレーシア訛りの英語です。
女性 『 6年間も修行された尼連禅河畔の林よりも、この洞窟窟の方が過酷ね! 』
僕 『 エッツ? 釈尊が苦行されたのは、前正覚山の留影窟でしょう? 』
女性 『 違うわ!釈尊の苦行場所は、尼連禅河畔のウルヴィルヴァーの林ですよ 』
僕 『 それでは、前正覚山は何なのですか? 』
彼女の説明によると、ウルヴィルヴァーの林で難行苦行を続けられた釈尊は・・・
① 苦行の道では悟りを得られない・・・と思われたようね・・・
② 苦行を放棄された釈尊は、痩せ衰えて汚れた身体を尼連禅河の水で洗い清め・・・
③ セーナ村のスジャータから乳粥の供養を受けて元気を取り戻し・・・
③ 再び悟りを開くために、この山(前正覚山)に登られたのよ!
前正覚山に関しては、僕達のヒンドゥー教の運転手君の話と彼女の話は全く違うのですが、ガイド役の本職の中国人僧侶から聞いたという彼女の話の方が遥かに真実味があります。

釈尊が6年間の難行苦行をされた尼連禅河東岸のウルヴィルヴァーの林
こうなると、釈尊が6年間も難行苦行されたウルヴィルヴァーの林に立ち寄らなかったことが悔やまれますが・・・幸いにも、スジャータ村に行く途上、そんなことも知らずに、偶々撮影した写真の中に、ウルヴィルヴァーの林の遠望写真があることに気付きました。(上写真)
川底が完全に干上がり、まるでプチ砂漠の様相を呈した乾季(11月~2月)のナイランジャラー河(尼連禅河)(上写真)ですが、釈尊が身体を清められた雨季には、水量豊かな水の流れがあったに違いありません。
釈尊がウルヴィルヴァーの林で実践された6年間に渡る難行苦行の様相は、経典などの記述によると、“ 過去にも、現在にも、これほどの難行苦行をした者はなく、これから先の未来にも無いであろう ” というほどの苛烈極まりない難行だったようです。
パキスタンのパンジャブ州で発見された釈尊の苦行像(AC2~3世紀作の国宝)を拝観する機会があれば、6年間の難行苦行で痩せ衰えた釈尊の姿態をこの目で見ることができるのですが・・・現在はラホール国立美術館の門外不出の所蔵品とあっては、おいそれと見に行くわけにもまいりません。
という訳で、バンコクの大理石寺院(วัดเบญจมบพิตร) の釈迦の苦行像のレプリカを撮影して来ました。 タイの寺院には、この凄まじいばかりの苦行像のコピーを安置した寺院が少なくありませんが、その多くは、生々しい肌色の着色がされていて、僕の好みではありません。しかし、大理石寺院の苦行像は、パキスタンで発見された苦行像に近似しているように思います。(下写真)

バンコクの大理石寺院で撮影した苦行像(レプリカ)何方かが手向けた蓮の花が似合います。
難行苦行では正覚(悟り)を得られなかった釈尊ですが、レプリカの苦行像を見入っていると、門外漢の僕ではありますが、“ きっと正覚の足音を感じられていたのでは・・・!? ” との思いがしてなりません。
饒舌な中国系マレ-シア人女性の話はまだ続きます。
① 健康を回復された釈尊は、再び悟りを求めて、前正覚山の頂上に登ります。
② すると、山神が曰く、“ 此処で正覚を求めると山が大震動して傾く。止めてくれ! ”
③ やむなく中腹にある洞窟で結跏趺坐の行を始められたの。それが、この洞窟ね!
④ ところが、再び大地が揺れ動き、天空から龍が現れて釈尊に懇願します・・・
“ この洞窟は正覚を求める場所ではありません ”
“ 正覚成就に相応しい所は、尼連禅河の向岸にある天竺菩提樹の下です ”
釈尊は、この洞窟を立ち去るに当たって、龍の懇願を受け入れて洞窟内の壁に自らの結跏趺坐の影を留め残したことから、この洞窟は “ 留影窟 ”(釈尊の影が留まる窟)と呼ばれるようになったのだとか。
その後、釈尊は、天竺菩提樹の下の金剛座で、遂に正覚を成就することになるのですが、それ以来、釈尊が直前に登ったこの岩山は、“ 前正覚山 ”(正覚を成就する直前に登った山)と呼ばれるようになったのだそうです。
長いお祈りを終えた韓国人団体客と入れ替わりに留影窟へ入ると・・・洞窟内に釈尊の苦行像が安置してありました。堂内は余りにも暗すぎて、釈尊が岩壁に留め残されたという結跏趺坐の陰影は確認できませんでした。(下写真)

洞窟内に安置されていた釈尊の苦行像(ストロボ撮影)
洞窟内に、明らかに仏像とは違う妙な形の石像が二体安置されていました(下写真)。洞窟内の賽銭箱の管理人に聞くと、“ ヒンドゥー教の神体 ” との返事が戻ってきました。 この洞窟に先に入ったのは、ヒンドゥーの神様? それとも釈尊?・・・歴史的に考えれば、やはりヒンドゥーの神様が洞窟の先住神だったのでしょうね? ということは、この山で正覚を開こうとした釈尊を拒んだのはヒンドゥーの神・・・?

留影窟内に安置されていたヒンドゥー教の神体
そのような訳で、僕のBLOGの副題の《 釈尊が難行苦行された前正覚山 》は、《 釈尊が難行苦行された後に立ち寄られた前正覚山 》に変更することにしました。
次回は、順序が後先になりますが、釈尊に乳粥を献じた女性のスジャータが住んでいたセーナー村を採り上げてみたいと思います。
僕が日本に在住していた20年前、スジャータというブランド名のコーヒーフレッシュがありました。今もあるのでしょか? 聞くところによると、この商品名は、釈尊とスジャータのナイランジャラー河(尼連禅河)の故事によるものだとか。