京都・東山のみち 』 の散策を満喫した僕は、タクシーに乗って、知恩院・三門から南禅寺の塔頭・金地院へと向かいました。京都の地理に疎い僕は、実兄の案内に “ おんぶに抱っこの肩車 ”で任せっきりです。

実 兄 『 近くて申し訳ないけど、南禅寺の金地院へ御願いします
運転手 『 金地院さんですね。どうぞ、どうぞ

何処をどの様に走ったのか分かりませんが、北東方向にほんの少しばかり走ると・・・

運転手 『 南禅寺さんですよ。右に入ると金地院さんです

バンコクだと乗車拒否されても当然の近距離でしたが、タクシー運転手さんの表情はニコニコ顔です。それに、寺院の名前を口にする時の運転手さんは、『 南禅寺さん 』 とか、『 金地院さん 』 のように、“ さん付け ” で呼ぶのです。そういえば、先日逢ったばかりの京都出身のdobrさんも、大谷本廟のことを、『 大谷さん 』 と呼んでいました。京都の人々が持つ羨ましいばかりの口語文化だと思います。



京都三大門の一つ“ 南禅寺三門 ” の巨大ポスター 

大本山南禅寺参道の駐車場でタクシーを降りると、歌舞伎の “ 楼門五三桐で有名な南禅寺三門の巨大写真(上写真)が飾られていました。 

天下の大泥棒 “ 石川五右衛門 ”が、 巨大な三門の二階から見得を切ると、三門の下から“ 真柴久吉 ” (羽柴秀吉)が忌々しげに睨み上げるという、両者の対決が繰り広げられた名場面と名台詞の舞台になった場所です。

絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とはちいさなたとえ、己れの目からは一目万両。はてうららかな眺めじゃな


お詫び: 僕が先日書いたBLOGの “ 大雲院 ” で、歌舞伎の“ 楼門五三桐 ” では、石川五右衛門が釜茹での刑になった場面も南禅寺と書いてしまいましたが、どうも、TV、小説、映画、浄瑠璃などの話が頭の中で錯綜して間違いを犯してしまったようです。

いずれにしても、石川五右衛門が京の三条河原で釜茹での刑になったのは1594年。南禅寺の三門が建てられたのは、五右衛門が刑死してから34年後の1628年ですから、歌舞伎の “ 楼門五三桐・南禅寺三門の場 ” は創作上の話ということになりますね。


南禅寺・中門(左門壁に最高格式の門跡を示す五本線が見えます)

最初から話が横路に逸れてしまいました。此処に来た目的は、亀山法皇を開基とする格式高い門跡寺(寺壁に五本線の入っ最高格の寺院)の大本山南禅寺に参ることではなく、知恩院三門、東本願寺御影門と並ぶ京都三大門の一つでもある南禅寺三門、勅使門、中門(上写真)などを見学することでもありません。

南禅寺・中門の手前右にある小さな寺門の東照宮下乗門(下写真)を入った先にある南禅寺塔頭の金地院が本日の目的地なのです。大多数の観光客が大本山南禅寺へと歩を進める中、僕と実兄は、金地院の門標を掲げた東照宮下乗門(下写真)を通り、金地院へと続く参道を進みます。



チョト小振りな東照宮下乗門。右柱に金地院の三文字が見えます。

南禅寺塔頭の金地院に通じるチョト小振りな東照宮下乗門(上写真)を抜けると、白壁に挟まれた閑静な金地院通り(下写真)が続きます。

総本山南禅寺の寺壁は、最高格式の門跡寺(開基や住持が皇族や摂関家出身)を示す五本線が彫り込まれていましたが、塔頭の金地院の寺壁は三本線が彫り込まれています(下写真)。




人通りの少ない金地院通りを歩むと、ほどなくして金地院の総門(下写真)が右側に見えてきました。東照宮下乗門より少しばかり大きいとはいえ、御世辞にも重厚な造りとは言い難く、比較的地味な造りの門構えです。


南禅寺の塔頭・金地院の総門

南禅寺の塔頭・金地院を再興(1605年)した住持の名前は、僕のBLOGでも何回も採りあげたことがありますが、総本山南禅寺の住職(1605年)でもあった “ 以心崇伝 ” (別称・金地院崇伝)です。

以心崇伝 ” は、徳川家康の側近として外交と寺社政策に携わり、黒衣の宰相として畏れられた政治家でもありました。

アユタヤ王朝(タイ)と日本の関係では、日本とアユタヤを含む東南アジアを往還していた御朱印船の許認可に関わる外交記録を詳細に渡って記録した人物でもあります。

アユタヤ王朝の日本人村の頭領でもあり、アユタヤ王朝の貴族階級の最高位を極めた “ 山田仁左衛門尉長政 ”(長正)の唯一の日本側第一級史料も、彼の残した外交記録(異国日記)の中に見ることが出来ます。

次回に続きます。