大谷本廟の坂道(鳥辺野)、清水坂、三年坂(産寧坂)と散策して来た京都・東山の道も、ようやく平坦地に近い二年坂に至りました。

三年坂(産寧坂)から二年坂に通ずる入り口の辺りは、あまり印象に残るような建造物がなかったのでしょうか、気が付くと、二年坂のゆったりとした坂道(下写真)の中を既に歩いていました。

二年坂の入り口辺りは、折れ曲がった緩やかな坂道になっていて、その先を見通すことが叶いません。その角の手前に、お菓子と雑貨屋を営む “ なかむら ” の御店がありました(下写真左角の店)。“ 二年坂まるん ” の名前で呼ばれるお菓子が有名らしく、数人の観光客が、折からの秋陽に映えて美しい赤い番傘の下の緋毛氈に腰を降ろし、美味しそうに、のんびりと食していました。



折れ曲がった二年坂の緩やかな坂道

二年坂まるん・なかむら ”(上写真左の店) の左隣にある お茶漬けバイキングの “ 阿古屋茶屋 ” を通り過ぎて右方向に折れ曲がると・・・やはり此処にも、三年坂(産寧坂)と同じような石段の急な坂道(下写真)がありました。 緩やかな坂道では人の姿も疎らなのですが、石段坂ともなると、きまって人込みが増すのは、石段の登坂角度が急な所為なのでしょう。

石段坂を降り切った右側に石碑が建っていましたが、それには、二年坂ではなくて “ ニ寧坂 ” とありました。

二年坂(ニ寧坂)の名前の由来も調べて見ましたが・・・そのどれもが、三年坂(産寧坂)の謂れの3年を2年に置き換えたものばかりで・・・チョット興ざめ。



*平安時代の大同二年に造られた道なので二年坂・・・(三年坂は大同3年の建設)
*この道で転んだら二年先に死ぬから二年坂・・・・・・・(三年後に死ぬから三年坂)
*この道で転んだら二年以内に死ぬから二年坂・・・・・(三年以内に死ぬから三年坂)
*三年坂(三寧坂)の下にあるので二年坂(ニ寧坂)
*三年坂より小さい坂なので二年坂



二年坂の急な角度の石段坂

石段の右側下方に、白色の番傘が三本ばかり横方向に飾られた “ 我楽苦多 ” という屋号の店があり、その二階は、京都ものづくり作家の会が主催するギャラリーになっていました(上写真右側奥)。

京都・東山の坂道を散策すると、このような手作り作品のささやかなギャラリーを、彼方此方で見受けることができます。時間が許すのであれば、こんなギャラリーの作品をゆっくりと観賞して回る旅をして見たいものです。

二年坂の石段を下ると、 “ 竹久夢二寓居跡 ” と記された古い家屋(下写真左下側角)がありました。 美人画で有名な竹久夢ニが、自分のモデルであり、恋人でもあった “ おしの ” (笠井彦乃) と短い日々を暮らした京都の隠れ家だそうです。僕が高校生の頃、文学史の裏話として書かれた何かの本で読んだ記憶のある艶話ですが、その場所が二年坂だったとは・・・知りませんでした。



竹久夢二の寓居跡(画面左手前)が残る二年坂通り

竹久夢二の寓居跡から横路に入る角に、“ 洋食の店・みしな ”、その対面には行灯スタイルの “ そば処・二葉 ” の看板があって・・・なんとも京都らしい風情です(上写真)。 今どきでも、“ 洋食 ” なんて言葉が命脈を保っているとは・・・僕の子供時代を想い出してしまいました。

二年坂(ニ寧坂)が平坦な石畳の道(下写真)になると、やがて一年坂(一寧坂)と維新の道へ近づきます。維新の道に突き当たる手前を左に入ると、その小路が一年坂(一寧坂)となり、その先は “ ねねの道 ” へと通じています。


二年坂(ニ寧坂)の平坦な石畳の道

京都らしい佇まい ” というと、盆地の山並みを背景に見え隠れする神社、仏閣の光景が代表的なのでしょうが、京の東山の坂道に保存されている数百軒の御店の佇まいに限っては、僕の勝手な印象ですが、“ 大正時代の家並み ” を彷彿とさせるような佇まいが多いように思います。

その大正時代のイメージが色濃く残る “ 東山の坂道 ” の中にあって、表参道の如き賑やかさを見せる坂道が清水坂、それに次いで賑やかな三年坂(三寧坂)、浄土真宗の門徒衆が愛する鳥辺野の坂(大谷本廟の裏道)ということになるのでしょうか・・・

これらの坂道の中にあって、二年坂(ニ寧坂)と一年坂(ニ寧坂)は、観光客の喧騒もまだ少なく、どちらかと言えば、閑静さの中に京都らしい生活感が漂っているような街並に見えます・・・僕の好みの街のような気がします。

竹久夢二おしのが此処に居を定めた時代は、きっと、閑静さを通り越して、人影も疎らな寂しい坂道だったのではないでしょうか。二人の愛の逃避行には恰好の“ 二年坂 ” (ニ寧坂) だったに違いありません。

次回は “ ねねの道 ” の予定です。