何となく立ち寄ったチ゛ユラーマニー寺院 วัดจุฬามณี で知り合ったタイ人の中年夫婦から、興味ある二つの話を聞いた事を、前回のBLOGで述べました。
一つは、サムット・ソンクラーム県 สมุทรสงคราม(注)のチ゛ユラー・マニー寺院の本堂裏の敷地あたりに、タイの現王朝の開祖・ラーマ一世(1735年生-1809年没)の王妃・アマリンの生家があったらしいこと。
注:サムット・ソンクラーム県の旧称は、スウアン・ノーク・メー・クローン
二つ目は、ラーマ一世とアマリン王妃の間に生まれたラーマ二世(1768年生-1824年没)の生誕地と別荘が、チ゛ユラー・マニー寺院から余り遠くない場所に“ ラーマ二世記念公園 ”อุทยานพระบรมราชานุสรณ์ として保存されていることでした。
ラーマ二世(プラバーツ・ソムデッツ・プラプッタ・ルーツ・ラー・ナ・パーライ พระบาทสมเด็จพระพทธเลิศหล้านภาลัย )に強い関心を抱いている僕としては、居ても立っても居られないようなホット情報です。数日後、サムット・ソンクラーム県の“ ラーマ二世記念公園 を訪れて見ました。

ラーマ二世記念公園内に建てられた王様の銅像
バンコクからサムット・ソンクラームに行くには、“ ラーマ二世通り ”と呼ばれる35号線を利用します。バンコク近辺には、歴代の王様の名前を冠した通りが数多あるために、王様と道路名の脈絡を余り気にしたことはありませんでした。
しかし、35号線のラーマ二世通りの由来は、この道路がラーマ二世の生誕地に続く道路であり、王位に就いてからも足繁く通われたお気に入りの別荘があったからなのだと思います。
11ライ(17,600㎡)の広さの公園に足を踏み入れると、よく手の行き届いた緑地が広がり、植栽された木々の種類は、タイの歴史文学にちなんだ花木が多く選ばれていました。
公園内には、タイ中部の伝統的高床式木造家屋からなる博物館、劇場、土産物店、レストランなどが、緑の木々と池の周りにそれとなく配置されています。何れの建物も内部を見学することができますが、ラーマ二世の別荘を忠実に復元した伝統的木造家屋(下写真) ประเพณีบ้านไทย が、最も高い人気を集めていました。

① 復元されたラーマ二世の伝統的高床式構造の別荘

② タイの古典的エアコン・システム、水上ハウス + 高床式 + 高さのある切妻屋根

③ 総チーク材で造作された二棟続きの家屋

④ 内側に約2度の傾斜を持つルーク・ファグと呼ばれる伝統的格子模様の外壁

⑤ 高床式別荘の階上へ通じる階段と玄関門
日本と同じように、玄関門の前で靴を脱いで肌足になります。
チャーン・バーン の中央には、階下から吹き抜けになった穴があり、地面から生えた大きな木が突き抜け、小さな緑のオアシスを構成(下写真)しています。各々の部屋は、広いチャーン・バーンを取り囲むように配置されています。

⑥ 階上の中央に配置されたチャーン・バーン ชานบ้าน と呼ばれる広いベランダ
タイでは、奇数を吉兆とする風習があり、中央広間の四角形のチャーン・バーンを取り囲む家屋の棟数も三棟のケースが多いようです。増築する場合も、吉兆の奇数を守るのだとか。

⑦ 中央広場のチャーン・バーンに面したラーマ二世の居間と寝室
通常の高床式家屋の床下高さは約2m程度ですが、ラーマ二世の別荘の床下は、洪水対策の所為なのか、約3m弱もありました。床下には、細長い木船(下写真)と移動用の牛車(クゥイアン เกวียน )等が格納され、作業の合間の休憩処も設けられていました。

⑧ 高床式の床下に保管されていた二艘の手漕ぎ舟
以前に掲載したことのあるラーマ六世(1881年生-1925年没)が皇太子時代に愛した別荘(ナコン・パトム県)も、ラーマ二世(1768年生-1824年没)の別荘と同じタイ中部の伝統的建築様式でしたが、その建築規模の大きさは、ラーマ二世の別荘の方が遥かに勝っていました。
アユッタヤー王朝(1350年-1767年)、トンブリ王朝(1768-1782)、現在の王朝(1782-)を通して継承されて来たタイ中部の伝統的建築様式は、やがて、欧風化の波に呑み込まれて衰退して行くことになります。
しかし、江戸時代後期に当たるラーマ二世時代(1768年生-1824年没)には、まだまだ現役バリバリの家屋様式だったことに、改めて気付かされました。
次回に続きます。
ラーマ六世が皇太子時代に愛した別荘に御関心のある方は、拙BLOGテーマ:風土、文化、宗教、政治、『 タイ中部の伝統的高床式住居 ①~③ 』2008年5月25日~29日付けを御覧下さい。
一つは、サムット・ソンクラーム県 สมุทรสงคราม(注)のチ゛ユラー・マニー寺院の本堂裏の敷地あたりに、タイの現王朝の開祖・ラーマ一世(1735年生-1809年没)の王妃・アマリンの生家があったらしいこと。
注:サムット・ソンクラーム県の旧称は、スウアン・ノーク・メー・クローン
二つ目は、ラーマ一世とアマリン王妃の間に生まれたラーマ二世(1768年生-1824年没)の生誕地と別荘が、チ゛ユラー・マニー寺院から余り遠くない場所に“ ラーマ二世記念公園 ”อุทยานพระบรมราชานุสรณ์ として保存されていることでした。
ラーマ二世(プラバーツ・ソムデッツ・プラプッタ・ルーツ・ラー・ナ・パーライ พระบาทสมเด็จพระพทธเลิศหล้านภาลัย )に強い関心を抱いている僕としては、居ても立っても居られないようなホット情報です。数日後、サムット・ソンクラーム県の“ ラーマ二世記念公園 を訪れて見ました。

ラーマ二世記念公園内に建てられた王様の銅像
バンコクからサムット・ソンクラームに行くには、“ ラーマ二世通り ”と呼ばれる35号線を利用します。バンコク近辺には、歴代の王様の名前を冠した通りが数多あるために、王様と道路名の脈絡を余り気にしたことはありませんでした。
しかし、35号線のラーマ二世通りの由来は、この道路がラーマ二世の生誕地に続く道路であり、王位に就いてからも足繁く通われたお気に入りの別荘があったからなのだと思います。
11ライ(17,600㎡)の広さの公園に足を踏み入れると、よく手の行き届いた緑地が広がり、植栽された木々の種類は、タイの歴史文学にちなんだ花木が多く選ばれていました。
公園内には、タイ中部の伝統的高床式木造家屋からなる博物館、劇場、土産物店、レストランなどが、緑の木々と池の周りにそれとなく配置されています。何れの建物も内部を見学することができますが、ラーマ二世の別荘を忠実に復元した伝統的木造家屋(下写真) ประเพณีบ้านไทย が、最も高い人気を集めていました。

① 復元されたラーマ二世の伝統的高床式構造の別荘

② タイの古典的エアコン・システム、水上ハウス + 高床式 + 高さのある切妻屋根

③ 総チーク材で造作された二棟続きの家屋

④ 内側に約2度の傾斜を持つルーク・ファグと呼ばれる伝統的格子模様の外壁

⑤ 高床式別荘の階上へ通じる階段と玄関門
日本と同じように、玄関門の前で靴を脱いで肌足になります。
チャーン・バーン の中央には、階下から吹き抜けになった穴があり、地面から生えた大きな木が突き抜け、小さな緑のオアシスを構成(下写真)しています。各々の部屋は、広いチャーン・バーンを取り囲むように配置されています。

⑥ 階上の中央に配置されたチャーン・バーン ชานบ้าน と呼ばれる広いベランダ
タイでは、奇数を吉兆とする風習があり、中央広間の四角形のチャーン・バーンを取り囲む家屋の棟数も三棟のケースが多いようです。増築する場合も、吉兆の奇数を守るのだとか。

⑦ 中央広場のチャーン・バーンに面したラーマ二世の居間と寝室
通常の高床式家屋の床下高さは約2m程度ですが、ラーマ二世の別荘の床下は、洪水対策の所為なのか、約3m弱もありました。床下には、細長い木船(下写真)と移動用の牛車(クゥイアン เกวียน )等が格納され、作業の合間の休憩処も設けられていました。

⑧ 高床式の床下に保管されていた二艘の手漕ぎ舟
以前に掲載したことのあるラーマ六世(1881年生-1925年没)が皇太子時代に愛した別荘(ナコン・パトム県)も、ラーマ二世(1768年生-1824年没)の別荘と同じタイ中部の伝統的建築様式でしたが、その建築規模の大きさは、ラーマ二世の別荘の方が遥かに勝っていました。
アユッタヤー王朝(1350年-1767年)、トンブリ王朝(1768-1782)、現在の王朝(1782-)を通して継承されて来たタイ中部の伝統的建築様式は、やがて、欧風化の波に呑み込まれて衰退して行くことになります。
しかし、江戸時代後期に当たるラーマ二世時代(1768年生-1824年没)には、まだまだ現役バリバリの家屋様式だったことに、改めて気付かされました。
次回に続きます。
ラーマ六世が皇太子時代に愛した別荘に御関心のある方は、拙BLOGテーマ:風土、文化、宗教、政治、『 タイ中部の伝統的高床式住居 ①~③ 』2008年5月25日~29日付けを御覧下さい。