最近、現王朝のラーマ二世 รัชกาลที่ ๒ (1768年生-1824年没)とラーマ六世 รัชกาลที ๖(1881年生-1925年没)に関する史料を読むことが多くなりました。その理由は、二人とも、偉大な父王を継いで王位に就いたが故の難しさを経験した人物だからです。

ラーマ六世については、彼の愛した別荘宮殿をBLOGテーマとして採り上げたことがあります。大王と称された偉大な父王の影に押されてしまったのか、特筆するような業績もなく、結果として、国軍との軋轢や国家財政の危機を次代に残してしまった王様ですが、僕としては、とても興味を惹かれる人物なのです。

ラーマ二世 รัชกาลที่ ๒ は、現王朝の開祖であるラーマ一世(1735年生-1809年没)の王子ですが、19世紀に編纂された王朝年代記によると、開祖である父王の影に押され過ぎて、政治的な功績を残すことも叶わず、専ら芸能、文芸を愛好することに心をくだいた王様とされています。


左:現王朝の開祖・ラーマ一世 รัชกาลที่ ๑ พระบาทสมเด็จพระพุทะยอดฟ้าจุฬาโลกมหาราช
右:現王朝の二代目、ラーマ二世 รัชกาลที่ ๒ พระบาทสมเด็จพระพุทธเลิศหล้านภาลัย

ラーマ二世とラーマ六世の王様としての業績論などは、BLOGテーマとして余りに不向きなので、個人的課題にするとして、本日は、ラーマ二世が愛した王宮内の庭園の一部を掲載することにしたいと思います。

ムアン・ボラン(古代都市公園)内で、過って、現王宮内に設けられていたというラーマ二世の愛した庭園の建築物を見ることが出来ました。王宮内のラーマニ世の私的居住区に建てられていたものだそうですが、ラーマ三世 รัชกาลที่ ๓ によって取り払われてしまい、バンコクの複数の寺院に払い下げられていたのだとか。しかも、それらは、手入れされることも無く、風雨に打たれて朽ち果てる寸前だったというのす。

ムアン・ボラーン(古代都市公園)のオーナーは、バンコクのヤンナーワー区のパイ・グーン寺院 วัดไผ่เงิน で、無残に崩壊したラーマ二世の王宮庭園の構築物の一部を見つけ、これを購入して古代都市公園に移築、復興することに力を尽くします(下写真)。


古代都市公園内に移築されたラーマ二世のお気に入りのサーラー(休憩処)と王座

ベトナム軍に支援を受けたカンボジアとラオスとのイザコザ、マレー半島を狙う英国の進出、王族の実権喪失と貴族権限の台頭などなど、何一つとして思うように事が運ばない悶々とする日々の中、ラーマ二世は、この休憩処の中央にポツンと置かれた椅子に、独りで身を委ね、何を苦しみ、何を悩み、何を思ったのでしょうか。


ラーマ二世が愛した庭園の中国的造形物

現王朝のラーマ四世以降の文明開化は、欧米化路線を一直線に歩むことになりますが、ラーマ一世からラーマ三世(江戸時代後期)までの治世は、中国文化の影響を強く受けた時代でした。従って、ラーマ二世の愛した中国風が色濃く反映された庭園様式は、ラーマ四世以降(明治時代)の欧米風の文化的趣味とは大きく異なります。


人工池に浮かぶサーラー(休憩処)スタイルの浮橋

浮橋構造になったサーラー(休憩処)、そして、ラーマ二世が憩う円形のサーラーも、中国式建築様式が色濃く導入されていて、タイ的要素を捜すのが難しいくらいです。中国の朝貢国としての長い歴史を持つタイですから、それも理の当然というべきでしょう。

浮橋構造のサーラー(休憩処)が架かる池の土手に咲き乱れる鳳凰木(通称:火炎樹)は、間違いなく熱帯モンスーン気候のタイの花(トン・ハーン・ノック・ユン ต้นหางนกยุง )ですが・・・果たして、ラーマ二世の王宮内庭園に咲いていた花は・・・タイの花だったのでしょうか? それとも、中国の花だったのでしょうか?


復元されたラーマ二世の庭園の池に咲いていた鳳凰木(通称:火炎樹)

ラーマ二世の、なんとなくヨワヨワしい目線を見ていると、益々持って、その治世の詳細を勉強し、よき理解者の一人になりたいと思う僕ですが・・・