ラーマ三世(1788年生~1851没)は、、ヤーン・ナーワー寺院の大改築に当たって、中国式ジャンクを基調としたタイの伝統的帆船(ルア・サムパオ)の船型を、寺院のデザインとして採用することを命じたのですが、その背景にはどのような事情があったのでしょうか?


ラーマ三世が建立したタイの伝統的外洋帆船を模したヤーン・ナーワー寺院

タイ王朝が、日本と同じ時期に、欧州風を真似た文明開化を進めたこと、そして、その推進者は、ラーマ三世の崩御によって王位を継承した親欧州派の ラーマ四世と五世の親子、そして五世の子供のラーマ六世だったことについては、過去のBLOGで既に触れました。

ラーマ三世三人の王様の考え方の違いを一言で表現するならば、ラーマ三世は、中国との伝統的な朝貢貿易を重視した“ 親中国派 ”、その後に王位を継承した三人の王様は、文明開化を目指す“ 親欧州派 ”といったところでしょうか。


タイの外洋帆船の船首に描かれた海上を睨む目玉模様とマスト代わりの仏塔二基

アユッタヤー王朝から続く“ 中国との伝統的関係 ”を重視したラーマ三世は、特に、中国との貿易に傾注し、タイ外洋帆船の強化中国人の操船者や造船技術者の招聘中国人の貿易実務要員の移民受け入れなどを積極的に行いなす。 更に、輸出入品目の拡大、中国陶器の導入、中国文学の翻訳、中国風建築物や装飾物の導入なども積極的に進めます。

江戸時代 初期から後期にかけて、タイの北部地域は、船舶の構造材に適した良質のチーク材の産出地として広く知られていました。やがて、タイはこの利点を生か し、中国人船大工の手によって、中国のジャンク船にタイ式の艤装を施した外洋帆船のルア・サムパオの造船を手がけるようになり ます。


南方向に船首を向けたタイの伝統的外洋帆船のルア・サムパオ

当時のオランダ史料には、タイ独自の外洋帆船のルア・サムパオの船価が、中国の本場の福建や広州の造船コストの半値以下だったことが記載されています。

華夷通商考によると、タイ在住の中国人の技術者によって造船されたタイ式の外洋帆船のルア・サムパオは、帆柱と帆の艤装は中国式、そして、舵の構造はタイ式を採用した“ ミスツイス造り ”(混血構造)として紹介されています(下左絵図)。


左絵図:華夷通商考に掲載してあるシャム船図(外国出しの船)
右絵図:絵馬に残る日本の朱印船(船体のベースは中国ジャンク)

上右絵図の日本の朱印船(荒木宗太郎の持船)が造られた場所は、タイなのか日本なのか定かではありませんが、船型は外洋ジャンク、船尾構造、船尾楼、船尾回廊、舵構造は欧州のガレオン船、櫓を備えた船首楼は和船の軍装スタイル、フロント・マストと中央マストの網代帆と儀装は中国式、船首の帆装は西洋式・・・なんとも凄まじいばかりの和洋折衷型の外洋帆船です。

長崎の松浦史料博物館に、『 唐船入津の図 』(下絵図) という江戸時代の享保年間に描かれた第一級史料が所蔵されています。享保年間といえば、ほぼラーマ三世の時代に符合します。永積洋子氏の著作『 朱印船 』の中に、『 唐船入津の図 』(下絵図)を見たブリュッセイ氏の解説として、興味ある一節が記載されています。

尾は高く、際立った曲線をえがいており、船首は広くてずんぐりしている。船尾はヨ-ロッパの船とまったく違い、両側に黒い目玉が描かれており、これが海上をにらみつけている。長崎の唐通詞たちは、この船を“ 鳥の目作りの船 ”とよんでいた


長崎の松浦史料博物館所蔵の『唐船入津の図』

華夷通商考に掲載してあるシャム船図、そして、松浦史料博物館所蔵の唐船入津の図に描かれた外洋帆船の姿は、ラーマ三世の命令によって建立されたヤーン・ナーワー寺院の形と酷似していることが分かります。

いずれにしても、ラーマ三世にとって、タイの伝統的外洋帆船のルア・サムパオは、中国との朝貢関係を支えるだけではなく、日本を含むアジア諸国との貿易を維持・拡大し、タイ国の屋台骨を支える何よりも大切な存在だったことが理解できます。

しかし、急速に移り行く時代の流れは、ラーマ三世の力を持ってしても止めることは不可能です。特に、1840年以降(阿片戦争)の欧米列強の極東海域への大々的進出によって、チ゛ャオプラヤー河を行き来していた外洋帆船は、次第に大型の蒸気船に取って代わられ、タイの王朝を支えたタイの伝統的帆船のルア・サムパオも、やがてその姿を消して行くことになります。

メー・ナーム・チ゛ャオ・プラヤーの河畔に建つコーク・グラブー寺院を、船舶を意味するヤーン・ナーワー寺院に改名し、タイの伝統的帆船のルア・サムパオの形を模した寺院を建立させた晩年のラーマ三世の心境は如何ほどだったでしょうか。

ヤーン・ナーワ寺院の大改築は、時代の波に呑み込まれて姿を消してしまったルア・サムパオを、いつなんどきでも偲ぶことのできる墓碑銘とする狙いがあったのかも知れません。

メー・ナーム・チ゛ャオ・プラヤーに面したヤーン・ナーワ寺院の船着場に、古き時代の木造船を模したナイト・ツアの観光レストラン船(下写真)が静かに停泊していました。



ヤーン・ナーワ寺院の来歴を書くつもりでしたが、書き終えてみると、大きく逸れた内容になってしまいました。誠に申し訳ありません。

これにて、ヤーン・ナーワー寺院に関わるBLOGを終えたいと思います。