ヤーン・ナーワー寺院で開催された仏陀の遺骨展のBLOGを通じて、ヤーン・ナーワー寺院の建物を掲載して来ましたが、この寺院の来歴に触れるに際して、今一度、その一部を整理して見ました。
先ずは、当該寺院の誇らしき紋章です。昨日掲載した紋章は門扉に取り付けられたものですが、この紋章(下写真)は、中央門の破風に取り付けられた船形の紋章です。船のマスト上に燦然と輝くマークは王様の紋章だろうと思うのですが、何方の紋章なのかを聞き漏らしてしまいました。多分、ワット・ヤーン・ナーワー(船舶)の名付け親であるラーマ三世の紋章だろうと思います。

ラーマ三世の紋章に護持されて、洋上を航海するワット・ヤーン・ナーワー号の勇姿



左:ヤーン・ナーワー(船舶)の紋章が飾られた寺院の中央門
中:ラーマ三世生誕200周年の記念館
右:ヤーン・ナーワー(船舶)のマスト代わりの仏塔
下左写真の中央部の緑地帯兼駐車場の場所(寺院の東側)は、現王朝のラーマ一世が建立された本堂(布薩堂)があった場所です。しかし、第二次大戦中に日本海軍の艦艇修理廠を空襲した米軍飛行機の誤爆によって炎上、崩壊したことは、以前のBLOGで触れました。
戦後になって再建された現在の本堂(下右写真)は、何ゆえに寺院の東側ではなく、西側に再建されたのか・・・以前のBLOGでも触れた如く、その理由は、何方に聞いても定かではありませんでした。


左:中央奥は寺院の出入口の門、左側はラーマ三世記念館、右側は文部省宗教局
右:寺院境内の西側にある本堂(布薩堂)
寺院の門から入って西の正面に、ヤーン・ナーワー寺院の大改修工事を命じたラーマ三世の銅像が建っています。銅像の足元には、多くのタイ人が、仏陀を拝む時と全く同じ礼儀作法で平伏し、跪き、祈りを捧げていました。
余り知られていませんが、ラーマ三世が左手に抱える刀剣の中味は、長崎港からタイに運ばれた日本刀の刀身だと伝えられています。史料を読むと、御朱印船時代に、タイから日本へ輸出された代表的な船荷は、日本刀、鎧冑、狩猟衣などに多用される鹿皮だったこと、そして、その鹿皮を巡って、日本人とオランダ人が繰り広げた壮絶な商戦を知ることができます。


左:ラーマ三世の銅像に祈りを捧げるタイの人々
右:日本刀の王剣を持つラーマ三世(1788生~1851年没)
勿論、ラーマ三世の治世(江戸時代後期)は、御朱印船がタイと長崎を行き来した時代はとっくに去り、オランダと中国籍の船舶だけが、僅かに長崎への出入港を許されていた時代です。古き史料によると、アユッタヤ王朝の高官を務めていた日本人(山田仁左衛門長政と比定されている)の変死事件以降(徳川家光の時代)、日本との直接交易は、長期間に渡って停止状態となり、更に、鎖国政策の公布によって本格的に禁止されることになります。
しかし、実際には、タイの伝統的外洋帆船(ルア・サムパオ)เรือสำเภา は、船型もよく似ている中国船(ジャンク)の徴用船として姿を変え、中国人船員の手によって70回以上も長崎に出入りを繰り返していたことが記録されています。海外諸国との貿易を重要な政策として考えていたラーマ三世をはじめとすろタイ人為政者の“ 転んでも只では起きない二枚越し ”を見る思いがします。
しかし、ラーマ三世の晩年頃(江戸時代後期)ともなると、新発明の動力として蒸気船が登場し、それまで全盛を誇った風と艪と度胸まかせの外洋帆船は、その役割を急速に失い、主役の座を外洋蒸気船に奪われて行くことになります。
タイの伝統的外洋帆船(ルア・サムパオ)เรือสำเภา を模したヤーン・ナーワー寺院が建立された理由には、このような時代的背景が色濃く反映していたようです。

蒸気船の登場によって、姿を消していく伝統的帆船(ルア・サムパオ) เรือสำเภา
次回に続きます。
先ずは、当該寺院の誇らしき紋章です。昨日掲載した紋章は門扉に取り付けられたものですが、この紋章(下写真)は、中央門の破風に取り付けられた船形の紋章です。船のマスト上に燦然と輝くマークは王様の紋章だろうと思うのですが、何方の紋章なのかを聞き漏らしてしまいました。多分、ワット・ヤーン・ナーワー(船舶)の名付け親であるラーマ三世の紋章だろうと思います。

ラーマ三世の紋章に護持されて、洋上を航海するワット・ヤーン・ナーワー号の勇姿



左:ヤーン・ナーワー(船舶)の紋章が飾られた寺院の中央門
中:ラーマ三世生誕200周年の記念館
右:ヤーン・ナーワー(船舶)のマスト代わりの仏塔
下左写真の中央部の緑地帯兼駐車場の場所(寺院の東側)は、現王朝のラーマ一世が建立された本堂(布薩堂)があった場所です。しかし、第二次大戦中に日本海軍の艦艇修理廠を空襲した米軍飛行機の誤爆によって炎上、崩壊したことは、以前のBLOGで触れました。
戦後になって再建された現在の本堂(下右写真)は、何ゆえに寺院の東側ではなく、西側に再建されたのか・・・以前のBLOGでも触れた如く、その理由は、何方に聞いても定かではありませんでした。


左:中央奥は寺院の出入口の門、左側はラーマ三世記念館、右側は文部省宗教局
右:寺院境内の西側にある本堂(布薩堂)
寺院の門から入って西の正面に、ヤーン・ナーワー寺院の大改修工事を命じたラーマ三世の銅像が建っています。銅像の足元には、多くのタイ人が、仏陀を拝む時と全く同じ礼儀作法で平伏し、跪き、祈りを捧げていました。
余り知られていませんが、ラーマ三世が左手に抱える刀剣の中味は、長崎港からタイに運ばれた日本刀の刀身だと伝えられています。史料を読むと、御朱印船時代に、タイから日本へ輸出された代表的な船荷は、日本刀、鎧冑、狩猟衣などに多用される鹿皮だったこと、そして、その鹿皮を巡って、日本人とオランダ人が繰り広げた壮絶な商戦を知ることができます。


左:ラーマ三世の銅像に祈りを捧げるタイの人々
右:日本刀の王剣を持つラーマ三世(1788生~1851年没)
勿論、ラーマ三世の治世(江戸時代後期)は、御朱印船がタイと長崎を行き来した時代はとっくに去り、オランダと中国籍の船舶だけが、僅かに長崎への出入港を許されていた時代です。古き史料によると、アユッタヤ王朝の高官を務めていた日本人(山田仁左衛門長政と比定されている)の変死事件以降(徳川家光の時代)、日本との直接交易は、長期間に渡って停止状態となり、更に、鎖国政策の公布によって本格的に禁止されることになります。
しかし、実際には、タイの伝統的外洋帆船(ルア・サムパオ)เรือสำเภา は、船型もよく似ている中国船(ジャンク)の徴用船として姿を変え、中国人船員の手によって70回以上も長崎に出入りを繰り返していたことが記録されています。海外諸国との貿易を重要な政策として考えていたラーマ三世をはじめとすろタイ人為政者の“ 転んでも只では起きない二枚越し ”を見る思いがします。
しかし、ラーマ三世の晩年頃(江戸時代後期)ともなると、新発明の動力として蒸気船が登場し、それまで全盛を誇った風と艪と度胸まかせの外洋帆船は、その役割を急速に失い、主役の座を外洋蒸気船に奪われて行くことになります。
タイの伝統的外洋帆船(ルア・サムパオ)เรือสำเภา を模したヤーン・ナーワー寺院が建立された理由には、このような時代的背景が色濃く反映していたようです。

蒸気船の登場によって、姿を消していく伝統的帆船(ルア・サムパオ) เรือสำเภา
次回に続きます。